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見てはいけない物を見てしまったような気がして、亮介はそっとその場を去った。黒のトリアージエリアに行くと、別の四十代の医師が患者の死亡確認をしている最中だった。
何か手伝う事があるかとその場にとどまっていると、三十代の中堅の女性看護師が横にやって来て、その様子を一緒になって見守った。死亡確認が終わって立ち会いの看護師が去ると、その医師は六十近いとおぼしきその女性患者の遺体の手を握りしめて、こうつぶやいていた。
「すまねえな、おばちゃん。とうとう店のツケ払わねえまま逝かせちまって。本当にすまねえな……」
亮介は彼に聞こえないように、小声で側にいた看護師に訊いた。
「あの患者さん、先生の知り合いなんですか?」
看護師は涙目になって答えた。
「先生の行きつけの、飲み屋の女将さんです」
亮介は殺人的な忙しさのあまり忘れていた事に気づいて愕然とした。東京から派遣されてきた亮介と違って、この病院の医師、看護師のほとんどは昔からのこの市の住人だった。
自宅が被災し、家族の安否が未だに分からない医師、看護師も大勢いた。さっき院長と口論していた医師が言っていた通り、医療スタッフもまた被災者だったのだ。そして見殺しにせざるを得なかった患者が、その医師、看護師の知人、友人という事だって、あっておかしくない。いや、こんな田舎では、そういう事があって当然とさえ言える。
亮介は院内を見回りながら、医師、看護師たちの背中を見つめた。この人たちは、今いったいどんな思いで、絶望的な治療にあたっているのだろうか。さっき錯乱した様子を見せた吉田という若い看護婦の引きつった顔が、なぜか改めて脳裏に浮かんだ。
午後四時、医師、看護師全員が院長室に呼ばれた。廊下にはみ出すほど詰めかけた彼らに向かって、院長の横に立った事務長が唇の端をブルブルと震わせながら、絞り出すような声で告げた。
「薬剤が届かなくなりました」
一斉にざわつく医師、看護師たちに事務長は泣き出しそうな声に変わって説明した。
「今日の昼過ぎにトラックが来る予定でした。しかし、みなさんもご存じのように、南宗田市の南半分が、屋内退避地域に指定されました。外から市内に入ってくる事は出来ないはずだと、さっき運送会社から電話で、そう……」
そこで事務長は言葉を続けられなくなった。その場にいた全員が、しかし事態を理解した。薬品、医療器具の補充は不可能になった。そういう事だった。
今後どういう行動を取るべきか検討するため、院長がみんなの前で衛星電話で市役所に電話をかけ、市長と話をする事になった。市役所はわずか一キロの距離で、屋内退避地域からはずれていた。運よく一回で市長が電話に出た。院長があいさつもそこそこに訊いた。
「避難とか対策の計画はどうなっているんですか? うちの市の原子力災害対策のマニュアルでは、こういう時どうすればいいんです?」
衛星電話のスピーカー機能はオンになっていて、その場の全員に聞き取れるようにしてあった。地元の訛り丸出しの市長のしゃがれ声が答えたのは、思いがけない内容だった。
「うちの市に、そんな物があるわきゃねえべ」
「は? どういう事です?」
「原子力災害時の対策だの計画だのの、策定を義務付けられてるのは原発から半径十キロ圏内の自治体だけだ。うちの市は一番原発に近い所でも、半径十キロにはかすりもしてねえだろ」
「しかし、現実に屋内退避指示が出ているじゃないですか」
「それに関しちゃ、こっちが知りてえよ! 市役所どころか、県庁にさえ何の連絡も来てねえんだ。県庁の役人も寝耳に水の話だって言って、今国に確認を取ろうってんで、右往左往してやがんだ」
「屋内退避指示は、市長にも何の相談もなく発令されたんですか?」
「ああ、そうだよ。国は避難しろ、逃げろ、閉じこもれ、そう言うだけで、どこにどうやって逃げりゃいいのか、肝心な事はこっちに丸投げだ。屋内退避にしたって、電気も水道も止まってる状態で家から一歩も出ねえで生きていけるわきゃねえだろ! 俺はこれから政府の大臣に直談判する。今は切るぞ」
通話が切れ、院長は呆然とした表情で椅子に腰を落とした。だが、頭を一回ぶるっと振って、気を取り直してその場の医師、看護師たちに告げた。
「市長から後で何か指示があるでしょう。それまで全員持ち場に戻って、全力を尽くして下さい。一人でも多くの患者さんの、命を救いましょう」