「おい、赤坂。」廻谷に呼び止められ、俺は控え室へと足を踏み入れた。
その手には、銀色の光を鈍く反射させる一本のハサミが握られている。
「ようやく完成したようだぞ。」
そう言って廻谷は、それを俺に手渡した。
手に取ってみると、ずしりとした重みが掌に馴染む。
見た目はただの医療用ハサミ。しかし、どこか“生きている”ような気配を感じた。
「これが俺の……武器。」
無意識に呟いた俺の声が、控え室の静けさに吸い込まれる。
金属の冷たさが、妙に心地よかった。
「大事に扱えよ。」
廻谷の声が、少し低くなる。
「製作者はちっとばかしネジがイカれてる奴だ。壊したら、次は変な機能付けられるかもしれねぇぞ。」
そう言ってニヤリと笑うが、その目だけは冗談ではなかった。
「……分かった。気をつける。」
そう答えると、廻谷は満足そうに頷き、少し間を置いて言葉を継いだ。
「真名の話だがな――」
声の調子が一変する。
「適当に付けちゃならねぇ。テメェがテメェらしいと思う名を付けてやれ。
そうすりゃ、そいつもお前に応える。」
その言葉に、胸の奥で何かが鳴った。
ハサミが、かすかに震えたような気がした。
俺は、自宅の古びたアパートへと帰り、ベッドの上でハサミと向き合っていた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、銀色の刃に反射して、天井へと淡く揺れる。
「……俺らしい、か。」
廻谷の言葉を思い出しながら、腕を組む。
自分らしい名前――そう言われても、いざ考えようとすると何も浮かばない。
何を基準に“俺らしい”と言えるのか。
何を信じて、何を斬るために、俺はこのハサミを握るのか。
考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃに絡まっていく。
そのうち“自分”というものが、どんな形をしていたのかさえ、わからなくなりそうだった。
ハサミの刃が、薄暗い部屋の中で微かに光った。
まるで、俺の迷いを映すように。
その時だった。
ピーンポーン――。
不意に鳴り響いたインターホンの音が、静まり返った部屋に不釣り合いに響く。
……何年ぶりだろう。家のインターホンが鳴ったのは。
古びたアパートらしく、モニターなど付いていない。
音だけが鳴り、誰が来たのかは分からない。
「……はい。」
チェーンをかけたまま、慎重にドアを少しだけ開ける。
外は薄暗く、見慣れた廊下が続くだけ。
「イタズラかよ。」
そう呟き、ドアを閉めようとした瞬間――
茶色い頭が、ドアの隙間からぬっと覗いた。
「よぉ、俺だ。」
神薙だった。
「……お前、夜中に人ん家のドア覗くとか、心臓に悪いんだけど。」
「悪ぃ悪ぃ。でもお前ん家、廻谷さんに聞いたらすぐ分かっちまってよ。気になって来てみた。」
「気になって、って……何が?」
「お前の“真名”、決まったかと思ってさ。」
そう言って、神薙はニヤリと笑った。
俺は思わず眉を寄せる。
「…まだだよ。そんな簡単に決まるかっての。」
「だろうな。」
神薙は笑いながら、ポケットからコンビニの袋を取り出す。
「ほら。差し入れ。夜食。」
中にはカップ麺と缶のコーヒーが数本。
「……お前、夜食持って後輩ん家来るって、どんな先輩だよ。」
「いいじゃねぇか。お前が倒れたら報告書誰が書くんだよ。」
「氷見さんが。」
「それはやべぇ。怒鳴られて耳が死ぬぞ。」
そう言って笑う神薙につられて、俺も小さく笑った。
二人でカップ麺の湯気を眺めながら、静かな夜が流れる。
「なぁ、赤坂。」
「ん?」
「この仕事、怖ぇか?」
その問いは意外だった。
俺は少しだけ考えて、答える。
「怖くないって言ったら嘘になる。でも…復讐のためだから。」
「復讐、か。」
神薙の声が少しだけ沈む。
しばらくの沈黙のあと、神薙はふっと笑った。
「ならせいぜい生き残れよ。お前が死んだら、時雨が泣く。」
「……あの人が泣く姿、想像できないんだけど。」
「ははっ、だよな。」
二人の笑い声が、静かなアパートの一室に響いた。
時計の針が日付をまたいだころ。
食べ終えたカップ麺の容器がテーブルの上で静かに冷えていた。
「そろそろ帰るわ。」
神薙は立ち上がり、伸びをしながら玄関の方へ向かう。
「わざわざありがとな。……変な時間に来るからビビったけど。」
「はは、夜ってのは落ち着くんだよ。考えごとするにはちょうどいい。」
玄関で靴を履きながら、神薙はふと振り返った。
「なぁ、赤坂。」
「ん?」
「“自分らしい”って言葉、難しく考えんなよ。」
俺は思わず眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
神薙は口の端を上げて言った。
「自分らしいってのは、“こうありたい”って気持ちを誤魔化さねぇことだ。
誰に笑われても、ダセぇって言われても、やりたいように動ける奴が“自分らしい”ってやつだ。」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「……神薙らしいな。」
「だろ?」
神薙はニッと笑い、ドアノブに手をかける。
「ま、焦んな。真名ってのは、お前の中で“これだ”って瞬間に勝手に浮かぶもんだ。
無理して考えた名前じゃ、武器も応えねぇよ。」
「……ありがと。」
「礼はいい。次の仕事で生きて返ってきゃそれで十分だ。」
夜風が吹き込み、神薙の茶色い髪を揺らす。
「じゃあな、赤坂。」
そう言って、軽く片手を上げながら、神薙は静かな夜の街へと消えていった。
残された俺は、机の上のハサミを見つめる。
「……“誤魔化さない自分”、か。」
静まり返った部屋に、俺の小さな呟きだけが響いた。
神薙が帰ってから、部屋は静まり返った。
玄関の扉が閉まる音が、まだ耳の奥に残っている。
「自分らしさってのはよ、他人が決めるもんじゃねぇ。
自分で選んで、自分で守るもんだ。」
そう言って、あいつは笑って帰っていった。
飄々としてるくせに、時々妙に核心を突くことを言う。
「……自分で選んで、か。」
ベッドに腰を下ろし、手の中のハサミを見つめる。
硬質な銀の刃が、蛍光灯の光を鈍く反射した。
選ぶ。
俺は何を選ぶ?
復讐か、それとも……。
思考が巡るたび、胸の奥が重くなる。
まるで、燃え尽きた灰が心臓に絡みついて離れないような感覚。
「灰……鎖……」
気付けば、呟いていた。
言葉の響きが、妙に馴染んだ。
焼けた過去と、逃れられない鎖。
けれど、それでも前に進むために握る刃。
「……仮に、“灰鎖”ってのはどうだ?」
誰にともなく呟いた言葉が、夜の静けさに溶けていく。
それはまだ、正式な名じゃない。
けれど、不思議と心が少しだけ軽くなった。
「ありがとな、神薙。」
ぽつりとそう呟き、ベッドに体を預けた。
まぶたの裏に、あの馬鹿みたいに明るい笑顔が浮かんで、少しだけ笑みが漏れた。
「ねぇ、朱里ちゃん……やめよ? しゃちょうに怒られちゃうよ」
「白亜の言うとおりだ。やめとけ」
「白亜も蒼斗も、やってみなきゃわかんないでしょ!! ……玄真はどっちの味方なの!?」
「えー、俺はどっちでもいいよ〜」
事務所の中から、子供の声が響いていた。
騒がしく、けれどどこか楽しげな声。
まるで放課後の教室みたいな雰囲気だ。
……なぜ、子供がいるんだ?
眉をひそめつつも、俺はドアノブに手をかけた。
この時の俺はまだ知らなかった。
このあと訪れる“地獄のような時間”のことを──。
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