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翌朝起きると念のため通帳や印鑑が無事であることを確認した。――疑っているわけではないが、でも。わたし不在のあいだに、不倫相手を宅にあげる夫の神経が理解出来ない。とはいえ、妻の看病をせず義母をよこした神経の男だ。普通の神経を持っていてはあれは出来ない。いくら平日だったとはいえ――一般的な人間の感覚が夫には欠落している。
そんな夫と何故一緒になったのか――二十代の頃に熱心なアプローチを受けたからだ。ここだけの話、わたしと夫は消費者金融の仕事をしている。いや、わたしは過去形か。していた。わたしの世代は就職氷河期の一番酷いときのちょうど二年後くらいで。周りでも四十社六十社落ちるとかざらだった。なかなか内定が貰えず、結果まったく興味のなかった消費者金融の会社に就職した。――親や、さほど親しくない友人知人には金融関係、と説明している。嘘はついていない。
消費者金融はいまもだが――当時も大量採用をしていた。就職活動中の学生に向けて分厚い先輩のレポートや就職体験談をまとめた冊子を渡したり、セミナーも行っている。入ってみてその理由が分かった。――辞めていく人間の多さといったら。確かに。最初に回される部署は直接個人に督促の電話を行うコールセンターの仕事で、そこで病む人間が続出する。
わたしも、最初の関門は突破したものの、数年で退職した。事情があってお金を返せない事情のある他人に、返してください、と督促し続けることがもう――いやになった。親や知人に堂々と言えない職種にも嫌気がさした。
ともあれ、厳しい環境ゆえに同期間の結束は固く。わたしは何人もの男と飲みに行った。いま思えばあれはモテ期だった。
夫となる乙女紘一とは、研修中はさほど仲良くもなかったのだが、何回目かの同期会のときに隣の席で、喋るようになり――そこから関係が始まった。といっても、さし飲みに行く多数の男のうちのひとりに過ぎなかった。
紘一は、男の飲み友達が多数いる状況に焦ったのか、熱心に口説いた。電話をした。約束をした。五回目のお出かけのときに――告白された。
正直、わたしはこの状況を楽しんでいた。高校時代は彼女のいる男を思い続けることで消費した。多少満足のいく青春は送れたが――大学時代に急にブレイクした。男から誘われ――本当の青春を楽しんだ。
社会人時代はその名残みたいなものだ。大学時代のおまけ。男のレベルはそこそこ、ともあれ、話を聞いていて面白い。――家族が病気で家庭の経済を支えている男もいれば――既に子どものいる男もいたりして。消費者金融に就職する男はそれぞれ事情を抱えていて、興味をそそられるものがあった。
ともあれ、わたしは心身を病んでリタイアしたが、夫はあの会社で仕事を続けている。いまは、マネジメントのポジションだが。営業課の課長。部下を叱咤激励し、評価する立場の人間だ。それなりにストレスが伴う事情も――家庭内でひとりきりになって発散したい事情もよく分かる。わたしは夫に対して――自分が離脱した業界でいまだ戦っている夫に対して、リタイアしたことへの負い目もある。また、あの業界で戦い続ける彼への敬意も芽生えている。――偏見も酷いからね。
結婚前から情愛で結ばれていたはずのわたしたちであるが、妊活をしだした頃から歯車が狂った。セックスは、情愛や感動を伴わない、子を宿すための機械的な手段となった。官能を一切取り除いた義務的な行為と成り果て――無事、円を出産出来たことは僥倖ではあったが、それ相応の苦難を伴った。わたしが出産という大仕事を終えたあとも、夫は独身時代と同じように自分の趣味に没頭し――夫婦の関係は、冷えたものとなった。夫に背を向け、自分の好きなことに没頭することで、一方わたしは――書籍を読み漁り、書評をウェブに載せることで、自分を取り戻した。
以上があんな夫とわたしが一緒になった経緯である。さて新谷美冬は今日も、午前十時きっかりに現れた。インターホンで挨拶をしてから――わたしは引き続き娘の寝室で休んでいたから夫が応対したが、なんだか事務的な口調だった。ふたりっきりのときだけキャピキャピ? 赤ちゃん言葉とか喋ったりするの? メイド服着せたり? ないわー。
「お邪魔します。お昼ご飯の材料、冷蔵庫に仕舞わせて頂きますね」
スーパーは基本十時オープンだが、唯一二十四時間営業のスーパーもある。ふと美冬は……この花見町の事情に詳しいのかなと、疑念が湧いた。この界隈のスーパーの事情を知っていることは。帰りは二十二時まで居座ったし――もしかしてこの近くに住んでいるのか? 夫の不倫相手を、この平和な花見町で見かけかねないという現実を想像すると――ぞっとした。
わたしの胸中知らず、「ありがとう美冬」と言って夫は――ゲームに戻る。戻るのかよ。リビングの巨大なテレビいっぱいに、夫のプレイするゲームが映し出されている。わたしはゲームの事情を知らないが、スマホでも出来るRPGっぽい。モンハンでないのがせめてもの救いだ。
美冬はそんな紘一の様子を気にせずといった様子で、買ってきたものを冷蔵庫に仕舞っている。娘はわたしのテレビでゲームをやっている。村の住人になって貝を拾ったりする平和な遊びだ。――わたし用のテレビなんだけどな、という思いはある。娘は本当はパパの使う大きい方のテレビを使いたいらしいが、円用のゲーム機が接続されているのはわたしのほうのテレビだ。畜生。わたしがドラマを見たいときは我慢しなきゃなのか――と思うと理不尽ではある。
「あっみふゆちゃーん。おはようございます」
ゲームに没頭するあまり、訪問者に気がつかなかったらしい。娘がたたっと走って美冬の元に行くと、ねえ、遊ぼう、と手を引く。――異常事態。頭が真っ白になった。何度見てもこの場面は堪える。最愛の娘を夫の浮気相手に奪われているようで――。
「うん。あとでね」
「分かった」
――しんどい。とにかくしんどい。
しんどいので寝室に戻ろうと思った。体調は、昨日よりまし。でも、最悪だ。夫の不倫相手なんか――しかも自分よりも若くて綺麗な女なんか、朝っぱらから目にしたくない。ところが、美冬は冷蔵庫に仕舞うのを終えたのか、オレンジを洗い始めている。美冬はわたしの視線に気づいてか、わたしに目を向け、
「――美味しそうなオレンジがあったので。食べませんか」
YESと答えるわたしも異常なのだろう。残念ながらわたしは――頷いていた。
* * *
「あっ口がさっぱりする。すっごく美味しい……!」
「ですよねー」
夫の浮気相手と顔を突き合わせて果物を食べる事態をなんと形容しようか。滑稽。それとも異常? いったいわたしの身になにが起こっているのか――どうすればいいのか、まったく分からない。
「円ちゃんもオレンジ食べる?」
コントローラーから手を離し、円が頷いた。「みふゆちゃん。それ、おいしい?」
――わたしではなく美冬に尋ねたことに地味に傷ついた。勿論、そんな感情は顔に出さない。出せるはずがない。
美冬はもう一個のオレンジを切りに台所に行き、円はわたしの隣に座った。――そう。そこが定位置だもの。
キッチンに出入りすることの多いわたしがカウンターキッチンに背を向けるかたちで下座に座り、円はその隣。対面する椅子は夫の定位置ではあるが、そこに、美冬が座っている。夫の居場所を奪われたかのような複雑な思いを噛み締める。
わたしは急いでオレンジを食べ終え、寝室で休んだ。これ以上――娘と美冬が仲良くする姿なんか見たくなかった。
眠れなかった。布団に入っても――ゲームの声は聞こえないのだが、時折円や美冬の笑う声が聞こえてくる。悔しい。悲しい。風邪なんか――悪化しているのかよく分からない。風邪薬を三日以上飲むと大概わたしはお腹を下すので、トイレに行ったり来たりしていた。
美冬がそれに気づいた。「……篤子さん。お腹の調子がよくないのですか」
「気にしないで」とわたしは円と美冬が神経衰弱をしているのをなるだけ見ないようにして答えた。いや、がっつり見てますけど。「風邪薬飲むとお腹ごろごろになるの」
「お昼は……やさしいものにしたほうがいいですね」
「昼ぅ?」こちらに背を向けてひとり高級ソファーに座る、会話に無関心だったかに見えた夫が声を発した。「そんなの。おれと美冬と円で外で食いに行けばいいじゃないか」
……はあ?
目が点になるとはこのことだ。どこの世界に――妻が風邪を引いているあいだに、浮気相手と子どもを連れて外食する男がいるのだ?
「そもそも篤子は風邪引いてんだし。美冬だって仕事があるんだから移ったら大変だろ?」だからわたしはマスクをしていますし、それにそもそも、美冬さんに来てくれと頼んだのはあなたでしょう。「気分転換に、外でご飯食べるのもいいんじゃない? ほらあそこ行こうよ。円の好きな……」
円が好きすぎてたまらないハンバーグ屋の名前を出しやがった。この野郎。お陰で円は、わーハンバーグ! と上機嫌だ。美冬はどう出るのか見守れば、
「お昼ご飯は皆さんがなにを食べたいか聞いてから買いだすつもりでした。……紘一さんがそのおつもりでしたらわたしはそれで……」
行くのかよ。げっ。……あのハンバーグ屋は美味しくてちょっとだけお高いから娘のお気に入りで……うちは夫婦別財布だから、夫と娘が時々行っていた……聖域なのに。
またひとつ聖域が犯される。具合が悪いのは風邪なのか――精神的なものなのか、段々分からなくなってきていた。
*