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──キィ⋯⋯
まるで誰かの囁き声のように
寝室への階段とリビングを隔てる扉が
小さな音を立てて開いた。
細く生まれたその隙間から
闇に沈む一対の瞳がじっと覗く。
──蘇芳色。
どこか警戒しながらも
射抜くようなその眼差しに
時也はすぐに微笑を向けた。
「⋯⋯おや?
エルネストさん、どうされましたか?」
名を呼ばれた瞬間
エルネストは音もなく駆け寄ってくる。
足音を立てずに近付くその様子は
まるで影そのものだった。
「お前⋯⋯あの男に、いじめられたのか?」
低く、掠れた声。
その中には、怒りとも執着ともつかぬ
鋭利な棘が含まれている。
時也はふっと肩の力を抜き
やわらかく目を細めた。
「アラインさんのことですか?
ふふ。
心配していただいてありがとうございます。
大丈夫ですよ。
少し揶揄われただけです」
しかしエルネストの視線は緩まない。
まるで
信じることを前提としていないように──
「⋯⋯あの男に、俺の虫、つけておいた。
巣にあいつが戻ったら⋯⋯
皆殺しに、するか?」
言葉は静かだが
そこにあるのは〝本気〟だ。
その語気に込められた執念は
確かに命を奪う決意に似ていた。
けれど、時也は静かに首を横に振る。
その微笑は変わらず
凪いだ湖面のように静かだった。
「おやおやおや⋯⋯
本当に、大丈夫ですよ。
彼も、なんだかんだ、心強い味方ですから。
それに、貴方が言う〝彼の巣〟には
たくさんの恵まれない子どもたちが
保護されているのです。
彼がいなくなったら⋯⋯
その子たちがまた、路頭に迷ってしまう」
その言葉に
エルネストの表情がわずかに揺れた。
口元が引き攣り
瞼の奥に隠された何かが軋む音を立てる。
「⋯⋯⋯やめる」
短く、しかし確かな言葉。
時也は、ふと笑みに優しい光を宿した。
「はい。ありがとうございます」
そして──
不意に差し出された、少年の掌。
その中央には
小さな、淡い白の塊が蠢いていた。
「⋯⋯食べろ」
エルネストの低い声がそう命じると同時に
それは時也の掌に落ちる。
ぷに、とした感触。
体温を持つ幼虫の重み。
「⋯⋯え、えぇっと⋯⋯これは⋯⋯」
「蜂の幼虫だ。食え。
お前⋯⋯顔、疲れてる」
その一言に、時也は目を瞬かせた。
冗談や、揶揄いではない。
エルネストの表情には
疑う余地すらなかった。
「確かに、蜂の子には
栄養滋養が豊富ですが⋯⋯」
言い淀む時也を見て
エルネストは首を傾げた。
その目は問いかけている。
なぜ、躊躇う?──と
「俺が飢えて死にそうになると⋯⋯
虫たちが、自ら口に入ってくるんだ。
普段、俺も、そいつを食っている」
(ああ⋯⋯
仲間を食べることに躊躇っていると
思われてますね⋯⋯。
しかし、これも彼なりの〝好意〟)
時也はそっと息を吐き
意を決して幼虫を口に運ぶ。
柔らかな皮が舌の上で蕩け
噛んだ瞬間──
中から独特の油分がじゅわりと広がる。
「⋯⋯ん、これは⋯⋯」
木の実にも似た甘みと
ナッツに近い香ばしさ。
しかしそれを覆い隠すように
土を思わせるほのかな苦味と
青臭い余韻が残る。
決して悪くない──
けれど、万人には薦められない
そんな味わい。
「⋯⋯たしかに、滋養がありそうな⋯⋯
深いコクがありますね⋯⋯。
何と言いますか⋯⋯
生きるための味が、します」
小さくそう呟いた時也の隣に
エルネストが音もなく腰を下ろす。
そして、静かに指を動かすと──
再び、彼の周囲に虫たちが現れ始める。
その羽音はかすかに風鈴のように耳を擽り
やがてリビングに
不思議な〝調べ〟を生み出した。
「ふふ⋯⋯良い音色ですね。
おかげで、癒されそうです」
時也の言葉に
エルネストは小さく目を伏せる。
それは、照れを隠す仕草なのか
それとも単に
虫の気配に集中しているだけなのか──
どちらとも取れぬ静けさが
彼らの間に静かに流れていた。
「ほぉ⋯⋯
鈴虫の良い音色でございますね」
その声は、風に混じるように優しく響いた。
時也とエルネストのもとに姿を現したのは
小さな和装の少年──青龍であった。
幼子の姿でありながら
その背筋は正しく伸び
言葉遣いには確かな威厳が宿る。
薄墨色の床に小さく影を落としながら
彼はゆっくりと歩み寄る。
手には、空になった膳。
陶器の器には米粒一つ残っていない。
「青龍。
レイチェルさんの看病
ありがとうございました。
⋯⋯ご様子は?」
声をかけた時也の表情に
ようやくほんの少し柔らかさが戻っていた。
青龍は膳を静かに掲げ、恭しく頷く。
「食欲もあり
今はぐっすり眠っておられます。
粥も、味噌汁も
この通り、きれいに召し上がられました」
それを聞いた時也は、そっと目を伏せ
胸の奥でひとつ深く息をついた。
「良かった⋯⋯
では貴方も、しっかり休んでください。
夜は長いですから」
「⋯⋯は。失礼いたします」
一礼し、膳を胸に抱いた青龍が
再び背を向けかけたその時──
隣に座るエルネストが、ぽつりと呟いた。
「あの子供⋯⋯人間じゃない」
その瞳は細く
しかし見逃さない目をしていた。
ただの子供ではない
と、本能が告げていたのだろう。
否定ではなく
確認するような、静かな確信。
時也は頷いた。
「よく、お気付きになりましたね。
はい、彼は青龍。僕の式神です。
水と風を司る、精霊のような存在だと
思っていただいて構いません」
「⋯⋯⋯わかった」
それ以上、詮索しようともしないその返答に
時也は少しだけ瞳を細めた。
(この方は⋯⋯
人間が嫌いというより、きっと⋯⋯
人間の〝在り方〟が解らないだけ
なんでしょうね)
一見冷たいようでいて
その実ただ〝どう触れていいか分からない〟
そんな戸惑いの気配が
エルネストの言葉の端々に見え隠れしていた
鈴虫の音が静かに夜を染める中
時也は、膝に置いた両手を静かに組む。
「⋯⋯さっきの彼、アラインさんも。
もし生きてきた環境が違っていたなら
ああではなかったと思うんです」
エルネストは横目でちらりと見る。
時也の語りは
誰かを弁護するためではない。
ただ、事実を淡々と見つめ、語る声だった。
「彼も、ずっと孤独でした。
愛されることも、愛することも知らず
血を血で洗う環境を生き延びてきた方です」
静かに言葉が紡がれていく。
その一つ一つが
まるで誰かの輪郭をなぞるようだった。
「貴方が最初に警戒していた
ソーレンさんも、そうですね。
乱暴で、無口で⋯⋯
でも、誰よりも痛みを知っていて
誰よりも人を守ろうとする。
それは彼が〝愛された事がなかったから〟
どう守ればいいか
手探りで模索してきたから、なんです」
エルネストは黙っていた。
だが
その掌に止まった虫がひとつ、羽を鳴らす。
彼の心が少しだけ揺れたことを
敏感な小さな命が
感じ取ったのかもしれなかった。
「──そして、僕自身も。
僕もまた、大切なものを守るために
人を傷つけることを選んできました。
だからこそ
もう誰一人、見捨てたくはないんです」
それは決意ではなく
静かな〝祈り〟のようだった。
罪を許すためではない。
全てを受け止めるための、天使の願い──
エルネストは小さく、虫を撫でた。
その動作に、言葉はない。
だが、夜の静寂の中で響く羽音が
わずかにその答えを代弁していた。