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夕暮れの光が、教室のガラスを赤く染めていた。
遥は誰もいない教室の隅で、背を丸めるようにして座っていた。頬杖をついたまま、何も見ていない視線を落とす。頭の中では、さっきの〈触れられた記憶〉が、何度も繰り返されていた。
──あんな顔、されたのは初めてだった。
あの瞬間、日下部の目の奥にあったのは、恐怖ではなかった。疑いでもなかった。ただただ「信じたい」という、まっすぐな光だった。
……だからこそ、怖かった。
(あれは、壊れる)
遥がそう思ったとき、静かに背後のドアが開く音がした。
「……ここにいると思った」
蓮司だった。
遥は動かない。
「日下部、いないんだ。さっき、誰かと揉めてたっぽくて。……なんか、手出しそうだったから、止めたけど」
嘘か本当かわからない情報を、何気ない口調で放る。その声はあくまで柔らかかった。
「……あいつ、たぶん、自分の中で勝手に“戦ってる”つもりなんだよ。おまえのために、って。勝手に“正義”やって、勝手に苦しんで、勝手に……壊れていく」
遥は何も返さない。
「でもさ。誰も頼んでないんだよ、そんなの。あいつが勝手に思い込んで、勝手にやってることだろ?」
蓮司は近づきながら、机の端に腰を下ろす。
その距離は、日下部よりもずっと近いのに、なぜか遥の身体は硬直しなかった。
「おまえがやったこと。……俺だけは、わかってるよ」
遥の目がわずかに動く。
「“望んでなかった”こと、“自分で止められなかった”こと、“でも誰にも見せたくなかった”こと。……全部」
蓮司は笑う。声は低く、穏やかで、残酷だった。
「……大丈夫。俺も、見たから。知ってる。
あのとき、あいつに“触れられた瞬間”、おまえの目、濁ったろ。
“また壊す”って思ったよな?」
遥の喉が、ごくりと鳴った。
「でもさ、それでいいんだよ。……俺も、そう思ってるから。
汚れてんのは、おまえだけじゃない。
俺とおまえ、ふたりで壊れていけばいいんだよ」
まるで、それが救いであるかのように。
「“あいつは何もわかってない”。──それだけ、ふたりしか知らない秘密にしよう」
その言葉の中に、安堵と毒が同時に仕込まれていた。
遥はそのとき、自分が──
誰にも言えない“共犯者”になったような気がした。
そう思わせることこそが、蓮司の狙いだった。