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重田💋(omoda)
316
Sea Otter2026
67
ゆろଳ/𝕣𝕦𝕓𝕖也
#現代ファンタジー
耐え内
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うわあ、読み終わってしばらく息が止まってた……。 「風鈴を外す町」という冒頭の一文から、もう引き込まれた。 風鈴の音が「夜に鳴るから」って、それだけで十分怖いのに、そこから祖母の家の納戸、海の底の町、呼び声に返事をしてはいけないルール――全部が緻密に繋がっていく構成が本当に巧い。 特に好きだったのは「名前を呼ばれても振り向かない」というルールの使い方。祖母が最後まで本物のままでいようとした場面、泣きそうになった。 それと、時計が全部12時17分で止まってるのも、何か意味がありそうで気になる…。 健一の「逃げて」の口パク、あれも効いてたなあ。 まだ連載中なんですよね?これは続きが気になりすぎる……。
その町では、夏になると風鈴を外す。
軒先からも、縁側からも、商店街の店先からも、風鈴はひとつ残らず取り外される。祭りの飾りに使うものまで、箱にしまわれる。
理由を尋ねると、町の人々は決まってこう答えた。
「夜に鳴るから」
それ以上は、誰も説明しなかった。
山と海に挟まれた小さな町だった。駅は一日に六本しか電車が停まらず、駅前のロータリーには、夏になるとひまわりの鉢植えが並んだ。海岸には古い防波堤があり、堤防の向こう側には、地図に載っていない入り江があった。
入り江の名は、白波ヶ浦。
けれど、海はいつも灰色で、波が白く立つことはほとんどなかった。
私は小学五年生の夏休みを、その町で過ごすことになった。
母が入院したからだ。
父は仕事を休めず、私は母方の祖母の家に預けられた。祖母の家は、海から徒歩十五分ほどの場所にある古い木造住宅だった。屋根は濃い灰色で、庭には柿の木と、枯れかけた紫陽花が植わっていた。
駅まで迎えに来た祖母は、以前よりずっと小さく見えた。
「暑いねえ」
そう言って、私の荷物を受け取る。
「おばあちゃん、風鈴は?」
家に着いたとき、私は玄関の軒先を見上げて言った。
以前、祖母の家には、青いガラスの風鈴が掛かっていた。子どものころ、私はその音が好きだった。風が吹くたびに、ちりん、ちりん、と澄んだ音が鳴り、夏の庭が少しだけ涼しく感じられた。
けれど、その風鈴はなかった。
「壊れたの」
祖母はすぐに答えた。
「いつ?」
「ずっと前」
祖母は靴を脱ぎながら、こちらを見なかった。
その夜、私は二階の客間で眠った。
窓を開けると、遠くから海の音が聞こえた。ざあ、ざあ、と、暗い底で何か大きなものが息をしているような音だった。
蝉が鳴いていた。
庭の木で、何十匹もの蝉が一斉に鳴いている。耳を塞ぎたくなるほどの大合唱だった。
けれど、夜の十一時を過ぎたころ、蝉の声が突然止まった。
あまりに急だった。
ひとつ、またひとつと消えるのではない。すべての蝉が、誰かに合図されたように、同時に口を閉じた。
部屋が静かになった。
その静けさの中で、音がした。
ちりん。
風鈴の音だった。
私は布団から起き上がった。
窓の外を見たが、やはり軒先に風鈴はない。風も吹いていない。木の葉は一枚も揺れていなかった。
ちりん。
今度は、少し近かった。
音は、家の中から聞こえた。
私は廊下に出た。
暗い廊下の突き当たりに、古い納戸がある。昼間、祖母に「入ってはいけない」と言われた部屋だった。
その納戸の中から、風鈴の音が響いていた。
ちりん。
ちりん。
私は戸の前まで歩いた。
近づくにつれて、音ははっきりしてきた。風鈴だけではない。小さな声も聞こえた。
誰かが、泣いている。
「……おねえちゃん」
私は息を止めた。
「おねえちゃん、そこにいるの?」
声は、納戸の中から聞こえた。
幼い女の子の声だった。
私は返事をしなかった。
すると、戸の向こうで爪を立てるような音がした。
かり、かり、かり。
「暑いよ」
女の子が言った。
「ここ、暑いよ。開けて」
私は後ずさった。
祖母を起こさなければと思った。けれど、足が動かなかった。納戸の戸に貼られた小さな紙が、暗闇の中で浮かび上がって見えた。
赤い筆で、こう書かれていた。
声を返すな。
かり、かり、かり。
「おねえちゃん」
声が、今度は私のすぐ後ろから聞こえた。
振り向くと、廊下には誰もいなかった。
私は叫び声を上げて、祖母の部屋へ走った。
翌朝、祖母は何も聞かなかった。
「風鈴の音がした」
私が言うと、祖母は味噌汁をよそっていた手を止めた。
「どこで?」
「納戸から。女の子の声もした」
祖母の顔から血の気が引いた。
けれど、すぐに平静を装い、味噌汁を置いた。
「夢だよ」
「夢じゃない」
「夏は変な音がするからねえ。海の音が家の中に響いただけ」
「女の子が、おねえちゃんって言った」
祖母は黙った。
長い沈黙のあと、祖母は私の目を見た。
「今夜、音がしても、絶対に返事をしちゃいけないよ」
「返事をしたらどうなるの?」
「返事をした人の声を、あれは覚える」
「あれって何?」
「何でもないよ」
「おばあちゃん」
「何でもない」
祖母は強い口調で言った。
その日から、町の様子を注意して見るようになった。
確かに、風鈴はどこにもなかった。
隣の家の軒下にも、駅前の駄菓子屋にも、神社の社務所にもない。町の電柱には、夏祭りの提灯が吊られていたが、その下にあったはずの風鈴だけが取り外されていた。
海へ続く道の途中に、古い時計店がある。
店先に座っていた老人に、私は風鈴のことを尋ねた。
「風鈴? ああ、白波の風鈴か」
老人は、片方の目を細めた。
「昔はどこの家にもあったよ。だが、今じゃ誰も吊るさん」
「どうして?」
「鳴るからだ」
「風が吹けば鳴るでしょう」
「風が吹かなくても鳴る」
老人はそう言って、奥の暗い店内を見た。
壁には時計がいくつも掛かっていた。どれも針が止まっている。十二時十七分を指していた。
「夏の夜、風のない日に風鈴が鳴ったら、窓を閉める。戸を閉める。明かりを消す。声を出さない」
「それだけ?」
「それでも聞こえてくる声に、自分の名前を呼ばれても、返事をしない」
老人は、乾いた唇を舐めた。
「返事をすると、翌朝、その人は海のほうへ歩いていく」
「海へ?」
「行ったきり、帰ってこない」
私は笑おうとしたが、笑えなかった。
老人の背後に、古びた写真が飾られていた。
白黒写真だった。
海辺に大勢の子どもたちが並んでいる。中央には浴衣姿の少女が立っていた。少女の胸元には、青いガラスの風鈴が吊るされている。
その少女の顔だけが、黒く塗りつぶされていた。
「この子は誰?」
私が尋ねると、老人は写真を裏返した。
「帰りなさい」
声が急に低くなった。
「海には近づくな」
私は店を出た。
昼間の海は、薄い鉛色だった。夏の太陽が照りつけているのに、白波ヶ浦の海面だけは暗く、風もないのに細かく揺れている。
防波堤の上に、同い年くらいの男の子が座っていた。
短い髪に、焼けた肌。青いTシャツを着ている。
「町の外から来た?」
男の子は、こちらを見ずに言った。
「うん。おばあちゃんの家に」
「夜、風鈴聞いた?」
私は黙った。
男の子は笑った。
「聞いたんだ」
「あなたも?」
「毎年聞く」
「毎年?」
「俺、去年ここで死んだから」
冗談だと思った。
でも、男の子は笑っていなかった。
「名前は?」
私が尋ねると、男の子は海を見つめた。
「名前を聞くのはやめたほうがいいよ」
「どうして?」
「名前を知ると、呼ばれるから」
彼は防波堤から降りた。
「夜になったら、家の中で一番古い部屋を探して。そこに、風鈴がある」
「納戸?」
「開けちゃだめだよ」
「中に何がいるの?」
「中にいるんじゃない」
男の子は、海を指差した。
「外にいるものが、中から呼んでるだけ」
そのとき、海の沖で何かが動いた。
大きな黒い影が、水面の下を横切った。
魚にしては大きすぎる。船にしては速すぎる。
私は目を凝らした。
影は防波堤の真下まで来て、ぴたりと止まった。
水面に、白い手が浮かんだ。
五本の指が、ゆっくりと開いた。
男の子は私の腕を掴んだ。
「見るな」
その声だけは、震えていた。
私は目を逸らした。
もう一度見たとき、海は何事もなかったように静かだった。
「今の、何?」
「だから、見るなって言ったのに」
男の子は走り出した。
「明日、また来る!」
私はその背中を見送りながら、奇妙な違和感を覚えた。
彼の足元には、影がなかった。
夕方、祖母の家に戻ると、祖母は庭先で何かを燃やしていた。
紙の束だった。
紙には、子どもの名前が書かれている。
私は一枚拾い上げた。
佐伯 真理
その下に、日付があった。
昭和五十八年八月十二日。
別の紙には、
高木 健一
昭和六十一年八月十五日。
さらに別の紙には、
大森 千夏
平成三年八月十日。
どれも子どもの名前だった。
「これ、何?」
祖母は慌てて紙を取り返した。
「見たのかい」
「誰の名前?」
「昔の子どもたちだよ」
「死んだの?」
祖母は答えなかった。
火の中で紙が丸まり、黒くなっていく。
「おばあちゃんも、風鈴のことを知ってるんだね」
「知ってるよ」
「女の子は誰?」
祖母は、火ばさみを落とした。
金属音が庭に響く。
「どんな声だった?」
「幼い女の子。おねえちゃんって呼んでた」
祖母の顔が歪んだ。
「その声は、聞き間違いじゃないかい?」
「違う」
「何と言っていた?」
「暑いって。ここ、暑いよって」
祖母は目を閉じた。
「そうかい」
「誰なの?」
「昔、私の妹が死んだ」
祖母はゆっくりと話し始めた。
「名前は澄江。私より三つ下だった。夏祭りの夜、海で溺れた」
「海で?」
「みんなは、そう思っていた」
祖母は燃え残った紙を見つめた。
「澄江は、海に落ちたんじゃない。海から呼ばれたんだよ」
町には、昔から言い伝えがあった。
白波ヶ浦には、海の底にもうひとつの町がある。
その町では、夏の夜になると祭りが開かれる。提灯が灯り、屋台が並び、死んだ人たちが歩いている。
けれど、そこへ行くには、こちら側の誰かが呼びかけに答えなくてはならない。
「風鈴は、海の底の祭りを知らせる音だった」
祖母は言った。
「海の底にいるものが、こちら側の人間を呼ぶために鳴らす。声を返した人間は、音の向こうへ行ってしまう」
「澄江も?」
「澄江は、私の声を聞いた」
「おばあちゃんが呼んだの?」
「違う。私の声を真似たものが、澄江を呼んだ」
祖母の手が震えていた。
「私たちは祭りから帰る途中だった。私は先に家へ戻って、澄江が後ろからついてくると思っていた。けれど、澄江は海辺で立ち止まった」
『おねえちゃん』
祖母は、自分の妹の声を真似た。
『待って』
「私が振り返ると、澄江は海のほうを見ていた。そこに、私がいた」
私は息を呑んだ。
「海の中に、私と同じ顔をしたものが立っていた。濡れた髪を垂らして、笑っていた」
「おばあちゃんは?」
「私は澄江の手を掴んで、逃げた。けれど、澄江は私の手を振りほどいて、海へ入っていった」
祖母は、自分の右手を見た。
「最後に聞いたのは、風鈴の音だった」
その夜、祖母は私の部屋の前に布団を敷いた。
「今夜はここで寝る」
「一緒に?」
「そうだよ」
「どうして?」
「風鈴が鳴るから」
祖母は、窓を閉め、雨戸まで締めた。部屋の四隅に塩を置き、玄関には古いお札を貼った。
「もし、誰かが呼んでも返事をしてはいけない。私の声でもだよ」
「おばあちゃんの声でも?」
「そうだよ」
「どうして?」
祖母は、しばらく黙っていた。
「本物の私なら、絶対におまえを呼ばないから」
午後十時。
家中の時計が、同時に止まった。
十二時十七分。
それから、音がした。
ちりん。
風鈴の音。
家の外ではない。
天井裏から聞こえた。
ちりん。
祖母が私の手を握った。
彼女の手は冷たかった。
「声を出すな」
私は頷いた。
天井の上を、何かが歩いている。
ずる、ずる、と、濡れた足を引きずる音。
やがて、それは階段を下り始めた。
一段。
また一段。
軋む音が、暗い家の中に響く。
廊下を何かが歩いてくる。
ずる、ずる。
納戸の前で、足音が止まった。
風鈴が鳴った。
ちりん。
戸の向こうから、祖母の声がした。
「開けなさい」
祖母が私の手を強く握った。
声は続けた。
「そこにいるんだろう。開けなさい」
祖母は黙っている。
私は声の主を見ようとして、戸の隙間に目を向けた。
廊下の暗がりに、誰かが立っている。
濡れた白い服。
長く垂れた髪。
顔は見えない。
「おばあちゃん」
私は思わず囁いた。
祖母が私の口を塞いだ。
けれど、遅かった。
廊下のものが、顔を上げた。
髪の隙間から、こちらを見た。
顔が二つあった。
一つは祖母の顔。
もう一つは、私の顔。
それらが重なったり離れたりしながら、口を開いた。
「返事をしたね」
祖母が私を抱きしめた。
廊下に、風鈴がいくつも現れた。
天井から。
壁から。
床下から。
青、赤、黄色、透明なガラスの風鈴が、空中に吊り下がっている。風などないのに、すべてが一斉に鳴った。
ちりん、ちりん、ちりん。
音の中に、たくさんの声が混じっていた。
お母さん。
お父さん。
おねえちゃん。
助けて。
暑い。
暗い。
帰りたい。
帰りたくない。
その中に、母の声があった。
「大丈夫? お母さんだよ」
私は顔を上げた。
母は病院にいる。ここにいるはずがない。
「あなたを迎えに来たよ」
声は、私の母そのものだった。
祖母は私の耳を塞いだ。
だが、声は頭の中に直接響いた。
「寂しかったでしょう。こっちに来れば、ずっと一緒にいられるよ」
納戸の戸が、ゆっくり開いた。
中には古い家具や段ボールが積まれているはずだった。
けれど、そこには海があった。
暗い水面が、納戸の奥に広がっていた。
月明かりもないのに、水面だけがぼんやりと光っている。
海の向こうに、町が見えた。
家々の軒先に風鈴が吊られ、赤い提灯が灯っている。道路は濡れていて、浴衣姿の人々が歩いていた。
その中に、子どもたちがいた。
写真に写っていた子どもたち。
みんなこちらを見ている。
その中に、青いTシャツの男の子もいた。
男の子は口を動かしていた。
逃げて。
声は聞こえなかった。
その隣に、小さな女の子が立っていた。
胸元に、青い風鈴を吊るしている。
顔は、祖母によく似ていた。
「澄江……」
祖母が呟いた。
女の子は笑った。
そして、手を振った。
「おねえちゃん」
祖母は立ち上がった。
「だめ!」
私は祖母の服を掴んだ。
けれど祖母は、納戸の海へ歩き出した。
「澄江が待ってる」
「おばあちゃん、行っちゃだめ!」
「ずっと、待たせたから」
「おばあちゃん!」
祖母の足が、水面に触れた。
水は納戸の中にあるはずなのに、畳を濡らさなかった。ただ、祖母の足元だけが深い水の中へ沈んでいく。
私は必死で祖母の腕を掴んだ。
向こう側から、無数の手が伸びてきた。
白くふやけた手。
細い子どもの手。
祖母の手首を掴む。
「離して」
祖母が言った。
「おまえまで来てはいけない」
「離さない!」
「この町では、誰かが残らないといけないんだよ」
「何のこと?」
祖母は泣いていた。
「毎年、風鈴を鳴らすために、誰かが向こうへ行く。そうしないと、町中の人間が呼ばれる」
「そんなの嘘だ!」
「嘘じゃない」
海の向こうで、澄江が笑っている。
「私がずっと、澄江の代わりをしていたんだよ」
「代わり?」
「風鈴を外して、声を返さないようにして、誰も海へ近づかないようにしてきた。でも、もう長くは保たない」
祖母の身体が、少しずつ水の中へ引かれていく。
「おまえが来たから、あれは新しい声を覚えた」
「私の声?」
「そうだよ」
祖母は私の手を撫でた。
「だから、今夜中に私が行けば、おまえは助かる」
「いやだ!」
「大丈夫。向こうには、死んだ人がみんないる。澄江もいる。寂しくない」
「そんなの、おばあちゃんじゃない!」
私は叫んだ。
すると、納戸の海が大きく揺れた。
海の中から、別の祖母が顔を出した。
濡れた髪を張りつかせ、にっこり笑っている。
「そうだよ」
その顔が言った。
「今の私は、おばあちゃんじゃない」
私は凍りついた。
腕を掴んでいる祖母は、まだこちら側にいる。
だが、海の中の祖母は、手を伸ばしていた。
「こっちへおいで」
祖母の声。
「こっちが本当の家だよ」
私は何が本物なのかわからなくなった。
私の隣にいる祖母も、海の中にいる祖母も、同じ顔をしている。同じ声で、同じように泣いている。
そのとき、風鈴の音がひとつだけ響いた。
ちりん。
海の中の町にいる男の子が、口を開いた。
今度は声が聞こえた。
「名前を呼んで」
私は男の子を見た。
「誰の?」
「おばあちゃんの名前」
祖母がこちらを見た。
「呼ぶんじゃないよ」
海の中の祖母が笑った。
「呼んでごらん。すぐにわかるから」
男の子が首を振る。
「本当の人は、自分の名前を呼ばれても、振り向かない」
私は祖母の名前を知らなかった。
いつも祖母と呼んでいた。母も祖母を名前で呼ばない。
「名前は?」
私は、こちら側の祖母に尋ねた。
祖母は答えなかった。
海の中の祖母が答えた。
「絹子」
こちら側の祖母は、目を閉じた。
私は海の中の祖母を指差した。
「あなたが呼んで」
海の中の祖母は、笑顔のまま言った。
「絹子」
こちら側の祖母は振り向かなかった。
海の中の祖母がもう一度呼んだ。
「絹子」
祖母は私の手を握ったまま、動かなかった。
三度目。
「絹子」
その瞬間、海の中の祖母の顔が崩れた。
目が、口が、鼻が、濡れた紙のように流れ落ちる。
その下から現れたのは、真っ黒な穴だった。
穴の奥で、無数の歯が鳴っている。
ちりん。
風鈴が鳴った。
納戸の海が、こちらへ押し寄せてくる。
「走りなさい!」
祖母が叫んだ。
私は腕を引かれ、廊下を走った。
後ろから、水の音が追ってくる。
ずる、ずる、ずる。
玄関へ向かう。
けれど、玄関の戸を開けると、そこにも海があった。
庭も、道路も、町も、すべて水の底に沈んでいる。
家の外は海だった。
深い海の底に、家だけが浮かんでいる。
「どうすればいいの?」
私は叫んだ。
「神社へ行くんだよ」
祖母が言った。
「山の上の神社に、古い鐘がある。あれを鳴らせば、向こうの祭りが終わる」
「どうやって?」
「海の底まで行く」
「無理だよ!」
「大丈夫。今夜の海は、歩ける」
祖母は玄関を開けた。
水が家の中へ入ってくるはずだった。
けれど、水は戸口で止まった。
水面の上に、細い道が伸びている。海の中を、山の神社まで続く道だった。
道の両側には、風鈴が吊るされていた。
ちりん。
ちりん。
祖母は私の手を握って、海の中へ足を踏み入れた。
水は冷たくなかった。
むしろ、夏の風呂のようにぬるかった。
水面は私の腰の高さまであるのに、息が苦しくない。海の中には、町の家々が沈んでいた。窓の奥から、誰かがこちらを見ている。
知らない人たち。
昔の服を着た人たち。
顔のない人たち。
道の先で、青いTシャツの男の子が待っていた。
「急いで」
「あなたは誰?」
「健一」
彼はそう答えた。
「三年前、ここへ来た」
「どうして帰らないの?」
「帰る道を忘れた」
「神社に行けば帰れる?」
「鐘を鳴らせば、君だけは帰れる」
祖母が言った。
「健一はもう、こちら側には戻れない」
男の子は頷いた。
「俺は、返事をしたから」
道の向こうから、大勢の足音が聞こえた。
水の中を、人々が歩いてくる。
浴衣姿の男女。
顔のない子ども。
首の長い老婆。
その先頭に、私の母がいた。
「お母さん!」
私は叫びそうになった。
母は病院の寝間着姿で、海の上を歩いている。
「帰ろう」
母が手を伸ばした。
「一緒に帰ろう。病院に戻らなきゃ」
祖母が私の前に立った。
「見るんじゃない」
「でも、お母さんが」
「本物のおまえの母親は、病院のベッドにいる」
母が微笑んだ。
「おばあちゃんは嘘をついてるよ」
「そうだよ」
祖母が答えた。
「私は嘘をついている。だが、おまえの母親の声を真似るものは、もっと上手に嘘をつく」
母の顔が少しずつ変わった。
目が大きくなり、口が横に裂ける。
「おいで」
母ではない声がした。
「おまえの本当の家は、海の底だ」
健一が足元の石を拾い、母の影へ投げた。
石は水面を跳ねず、影の中へ沈んだ。
母の身体が大きく揺らいだ。
「走って!」
私たちは山へ向かって走った。
海の中なのに、足は地面を踏んでいる。道の両脇の家から、手が伸びてくる。足首を掴まれ、服を引かれ、髪を引っ張られる。
「返事をして」
「名前を呼んで」
「こっちを見て」
声が次々に聞こえた。
私は歯を食いしばった。
山の麓に着いたとき、祖母が転んだ。
足に、白い手が絡みついている。
「先に行きなさい」
「嫌だ!」
「鐘を鳴らすんだよ」
祖母は手を振りほどこうとした。
しかし、海の向こうから澄江の声がした。
「おねえちゃん」
祖母の動きが止まった。
「今度こそ、一緒に帰ろう」
澄江が道の先に立っている。
青い風鈴を胸に吊るし、濡れた髪を垂らしている。
祖母は、私の手を離した。
「おばあちゃん!」
「行きなさい」
祖母は笑った。
「振り返らないで」
私は山道を駆け上がった。
背後から、風鈴の音が追いかけてくる。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
やがて、祖母の声が聞こえた。
「大丈夫だよ」
私は振り返らなかった。
「先に行きなさい」
さらに走る。
「おまえは、私の大事な孫だよ」
走る。
「振り返ってごらん」
私は目を閉じたまま、山道を登った。
蝉の声が聞こえ始めた。
夜なのに、山全体が蝉の声で満たされている。
その音の中に、祖母の声が混ざった。
「お願いだから、振り返って」
私は耳を塞いだ。
神社の鳥居が見えた。
けれど、その鳥居の向こうには、こちら側の神社ではなく、海の底の祭りが広がっていた。
赤い提灯。
濡れた石畳。
屋台の並ぶ参道。
神社の拝殿の前に、大きな鐘が吊られている。
鐘の下に、澄江が立っていた。
その隣に祖母がいる。
祖母は私を見ていた。
顔が青ざめている。
口を動かしている。
逃げて。
声は聞こえなかった。
澄江が私に近づいてくる。
「おねえちゃん」
私は返事をしなかった。
「どうして返事をしてくれないの?」
私は鐘へ走った。
澄江の手が伸びる。
その指は異様に長く、爪の先から黒い水が滴っていた。
私は鐘の綱を掴んだ。
綱は濡れていて、ひどく冷たかった。
澄江が背後から抱きついた。
「一緒に鳴らそう?」
首筋に、冷たい息がかかる。
「鳴らしたら、みんな帰れるよ」
私は力いっぱい綱を引いた。
鐘が鳴った。
ごうん――。
音は大きくなかった。
けれど、世界そのものが揺れた。
提灯の火が一斉に消えた。
海の底の町が崩れた。
家が倒れ、道路が割れ、屋台が水に溶けていく。
人々が叫んだ。
顔のない者たちが、口を開き、何千もの声で私の名前を呼んだ。
私は耳を塞いだ。
ごうん――。
二度目の鐘が鳴った。
澄江の腕が、私の身体から離れた。
彼女の顔が、祖母の顔になった。
次に母の顔になり、最後に私自身の顔になった。
「どうして」
それは言った。
「どうして帰るの?」
私は答えなかった。
三度目の鐘を鳴らした。
音が海を割った。
足元の地面が消え、私は暗い水の中へ落ちた。
冷たい。
息ができない。
上も下もわからない。
水の中では、音が遠くなった。
鐘の音も、蝉の声も、風鈴の音も、すべてが厚い布に包まれたようにぼやけている。
私は手足をばたつかせた。
けれど、水面はどこにも見えなかった。
上も下もわからない。目を開けても、暗い青色が広がっているだけだ。身体はゆっくりと沈み続け、指先から冷たさが這い上がってくる。
息が苦しい。
もう限界だった。
肺が焼けるように痛む。
口を開けば、水が入ってくる。鼻の奥がつんとし、頭の中が白くなっていく。
そのとき、何かが足首を掴んだ。
細い指だった。
私は必死に振りほどこうとしたが、指は離れない。もう一方の足にも、別の手が絡みつく。
水の底から、声が聞こえた。
「帰らないで」
幼い声。
「ひとりにしないで」
澄江の声だった。
私は水を飲み込んだ。
喉がひきつり、目の前が暗くなる。
「おねえちゃん」
今度は、すぐそばで声がした。
「こっちに来て」
目の前に、澄江の顔が浮かんだ。
長い髪が水の中で広がっている。顔は青白く、唇は紫色だった。それでも、笑っていた。
私は手を伸ばさなかった。
澄江の背後に、祖母が見えたからだ。
祖母は、水底に立っていた。
白い服を着て、両手を胸の前で組んでいる。目を閉じているように見えたが、顔を覆う髪の隙間から、こちらを見ていた。
その口が動く。
――息を吐きなさい。
祖母の声は聞こえなかった。
けれど、唇の動きがそう言っていた。
息を吐く?
そんなことをしたら、死んでしまう。
私は首を横に振った。
祖母は、もう一度口を動かした。
――吐いて。水の流れにまかせて。
足首を掴む手が強くなった。
私は残っていた息を、少しずつ吐き出した。
ごぼごぼと泡が出る。
すると、不思議なことに身体が沈まなくなった。
水の中に、細い流れが生まれていた。
流れは私の背中を押し、身体を横へ運んでいく。澄江の手が足から離れた。
「いや」
澄江が言った。
「行かないで」
私は流れに身を任せた。
暗い水の中を、どこかへ運ばれていく。
遠くに、光が見えた。
黄色い光だった。
夏の午後に見る、古い電球のような色。
私は残った力を振り絞り、その光へ手を伸ばした。
指先が何かに触れた。
木の板だった。
板に爪を立て、必死にしがみつく。
次の瞬間、身体が水面へ引き上げられた。
私は大きく息を吸い込んだ。
肺に空気が入る。
咳き込み、吐き、涙を流した。
そこは、納戸の床だった。
私は畳の上に倒れていた。
窓の外では、朝の蝉が鳴いている。
雨戸は開いていた。東の空から、白い光が差し込んでいる。
納戸の中には、段ボールも古い家具もなかった。
ただ、床の中央に、青い風鈴がひとつ落ちていた。
ガラスは割れていない。
細い糸で吊られた短冊が、濡れている。
短冊には、赤い字で名前が書かれていた。
絹子
私は立ち上がろうとした。
足に力が入らない。
「おばあちゃん……?」
返事はなかった。
家中を探した。
一階の居間にも、台所にも、庭にも、祖母はいなかった。
玄関は開いていた。
靴は残っている。
祖母がいつも履いていた黒いサンダルも、玄関脇に揃えて置かれていた。
その代わり、床には濡れた足跡があった。
納戸から玄関へ。
大人の足跡が、二列。
一列は祖母のものだろう。
もう一列は、子どもの足跡だった。
裸足の、小さな足跡。
私は外へ出た。
庭は濡れていなかった。雨が降った形跡もない。
けれど、柿の木の枝に、青い風鈴が吊られていた。
風はない。
それなのに、風鈴は鳴った。
ちりん。
私はその音を聞いた瞬間、背後を振り返った。
誰もいない。
ただ、納戸の暗い入口に、小さな女の子が立っていた。
澄江だった。
彼女は笑っていなかった。
私を見て、悲しそうに首を振っている。
そして、唇を動かした。
――まだ終わっていない。
私は目を閉じた。
もう一度開いたとき、女の子はいなくなっていた。
納戸の戸には、赤い紙が貼られている。
昨夜までなかった文字が、そこに書かれていた。
ひとり返した。あと三人。
私は走って、町の時計店へ向かった。
朝の町は、何事もなかったように動いていた。
魚屋の主人が店先に水を撒き、郵便配達の人が自転車を走らせている。駅前では、子どもたちがラジオ体操をしていた。
誰も祖母のことを話していない。
私は時計店の老人を見つけた。
老人は店先の椅子に座り、止まっていた時計を一つずつ巻き直していた。
「おじさん!」
私が駆け寄ると、老人は顔を上げた。
「絹子さんは?」
老人の手が止まった。
「絹子?」
「おばあちゃんがいなくなった。海の底に連れていかれた」
老人は、じっと私を見た。
しばらくして、深く息を吐いた。
「そうか」
「助けて」
「無理だ」
「どうして?」
「一度、向こうへ渡った者は戻れない」
「でも、私を返してくれた!」
「返した?」
「鐘を鳴らしたら、海から戻れた」
老人は立ち上がり、店の奥へ入っていった。
しばらくして、古い箱を抱えて戻ってくる。
箱の中には、紙の束と、錆びた鍵が入っていた。
「三人というのは、何のことだ?」
私は赤い紙に書かれていた言葉を伝えた。
老人は紙の束をめくった。
そこには、町の地図があった。
赤い丸が三つ描かれている。
海岸。
駅。
そして、私の祖母の家。
「三人、じゃない」
老人は呟いた。
「三つの家だ」
「家?」
「海の底の町へ通じる場所が、三つある。白波ヶ浦の防波堤、駅の古い地下道、それから……」
老人は私の家のほうを見た。
「絹子さんの家の納戸だ」
「あと二つの場所に、誰かがいるの?」
「もういるだろう」
老人は地図の海岸を指で叩いた。
「昨夜、おまえが鐘を鳴らしたことで、向こうの門が開いた。海岸と駅の地下道から、こちらへ戻ってくる者が出る」
「戻ってくる?」
「死んだ者たちがな」
そのとき、駅の方向から、風鈴の音がした。
ちりん。
こんな朝に、風鈴?
私と老人は同時に駅を見た。
駅前の時計塔が、十二時十七分を指している。
朝の八時なのに。
時計塔の下に、人が立っていた。
白い浴衣を着た女の人だった。
長い髪が顔を覆っている。
その足元には、濡れた水たまりが広がっていた。
駅前を歩く人々は、誰もその女に気づいていない。
女は、ゆっくりとこちらを向いた。
髪の隙間から、顔が見える。
私の母だった。
病院にいるはずの母が、駅前に立っている。
母は、にっこり笑った。
「迎えに来たよ」
老人が私の肩を掴んだ。
「見るな!」
しかし、女はもうこちらへ歩き始めていた。
一歩。
また一歩。
足跡が、駅前の舗装道路に黒い水を残していく。
老人は箱から錆びた鍵を取り出した。
「地下道へ行く」
「どうして?」
「門を閉じる」
「閉じられるの?」
「閉じなければ、町中が海になる」
駅の古い地下道は、長いあいだ封鎖されていた。
入口には金属製の柵があり、「危険・立入禁止」と書かれた札が下がっている。
老人は鍵を差し込んだ。
鍵穴の奥から、風鈴の音がした。
ちりん。
鍵を回す。
柵が開いた。
地下道の階段は、暗く湿っていた。
壁には、昔の祭りのポスターが何枚も貼られている。
八月十二日。
八月十五日。
八月十日。
老人が懐中電灯を点ける。
「この地下道は、昔は海へ続いていた」
「海へ?」
「戦争中に埋めたんだ。だが、海の底の町は、道を覚えている」
階段を下りる。
下りるほど、潮の匂いが強くなっていく。
壁の隙間から、水が染み出していた。
地下道の奥に、古い駅員室があった。
扉には、赤い文字で名前が書かれている。
高木 健一
私はその名前を見た。
防波堤で会った男の子の名前。
「健一は、ここから来たの?」
老人は答えなかった。
駅員室の中には、古い机と椅子がある。
机の上に、黒い電話が置かれていた。
電話が鳴った。
ジリリリリリ。
老人が顔をしかめる。
「取るな」
けれど、私は受話器の向こうから、母の声を聞いた。
「もしもし?」
声は小さく、震えている。
「聞こえる? お母さんだよ」
私は受話器に手を伸ばした。
老人が腕を掴む。
「取るなと言った」
「本当にお母さんかもしれない」
「違う」
「どうしてわかるの?」
電話の向こうで、母が泣き始めた。
「怖いよ。助けて。早く来て」
私は受話器を見つめた。
その声は、確かに母だった。
でも、母は私を呼ぶとき、いつも私の名前を言う。
電話の向こうの声は、一度も私の名前を呼ばなかった。
私は手を引っ込めた。
電話が止まる。
その直後、駅員室の壁が膨らんだ。
内側から、誰かが押している。
壁紙が裂け、その隙間から、濡れた髪が覗いた。
老人が叫ぶ。
「走れ!」
私たちは駅員室を飛び出した。
地下道の先に、出口の光が見える。
しかし、階段の上に誰かが立っていた。
白い浴衣の女。
母の顔をしたもの。
「どうして電話に出なかったの?」
女は言った。
「お母さん、寂しかったのに」
老人が懐中電灯を向ける。
光が女の顔に当たった。
顔がなかった。
髪の奥には、真っ黒な空洞があるだけだった。
その空洞の中で、風鈴が鳴っている。
ちりん。
「健一を返して」
老人が言った。
女が首を傾げる。
「健一は、もう返したよ」
「嘘をつくな」
「あなたの息子を返した」
老人の顔が凍った。
女は笑った。
「あなたが海へ捨てた子を」
老人が一歩下がった。
懐中電灯が床に落ちる。
「違う」
「違わない」
「俺は……仕方なかった」
「だから、毎年ひとりずつ、こちらへ送った」
私は老人を見た。
「どういうこと?」
老人は答えなかった。
女が言った。
「この町の人間は、海の底の町と約束をしたの。ひと夏にひとり、子どもを渡す。そうすれば、海は町を呑まない」
「嘘だ!」
私は叫んだ。
女の空洞のような顔が、こちらを向いた。
「でも、おばあちゃんは違った」
「おばあちゃん?」
「絹子は、妹を渡したあと、約束を破ろうとした。だから、ずっと風鈴を外していた。声を返さないように、誰にも海を見せないように」
女の身体が、ゆっくりと階段を下りてくる。
「でも、約束を破るには、代わりが必要なの」
「私が?」
「そう。あなたの声は、とてもよく響く」
女が手を伸ばした。
「もう、町じゅうに届いている」
その瞬間、地下道の奥から、たくさんの声が返ってきた。
私の声だった。
「おばあちゃん」
「お母さん」
「助けて」
「ここにいるよ」
私がこれまで発した言葉が、地下道の中を反響している。
声は次第に増えていった。
何十人もの私。
何百人もの私。
それぞれが別の方向から、私を呼んでいる。
老人が、私の背中を押した。
「海岸へ戻るんだ!」
「おじさんは?」
「俺はここで、あれを止める」
「無理だよ!」
「健一が待っている」
老人は、床に落ちた懐中電灯を拾った。
「俺は、あの子に謝らなきゃならない」
女が老人の前に立つ。
彼は懐中電灯を女の顔へ向けた。
光の中で、女の顔が次々に変わる。
健一。
澄江。
祖母。
そして、老人自身の幼いころの顔。
「父さん」
老人が呟いた。
女は、少年の顔で笑った。
「帰ろう」
老人は目を閉じ、懐中電灯を消した。
「すまなかった」
それが最後に聞いた声だった。
私は階段を駆け上がった。
駅のホームに出ると、太陽がまぶしかった。
けれど、駅には誰もいなかった。
電車も来ていない。
ホームのベンチに、濡れた浴衣の子どもたちが座っている。
みんな、こちらを見ている。
駅のスピーカーから、雑音が流れた。
『まもなく、二番線に、白波ヶ浦行きの列車が到着します』
白波ヶ浦行きの列車など、存在しない。
線路の向こうから、電車がやってきた。
古い木造車両だった。
窓はすべて黒く、車内には風鈴が吊られている。
ちりん、ちりん、と音を立てながら、列車はゆっくり停車した。
ドアが開く。
中に、祖母が立っていた。
「おまえも乗りなさい」
祖母は、優しく微笑んでいた。
「おばあちゃん!」
私はホームの端まで走った。
祖母の顔は、本物に見えた。
けれど、その胸元には青い風鈴が吊られている。
私は立ち止まった。
「おばあちゃんは、名前を呼ばれても振り向かなかった」
祖母が笑顔のまま、首を傾げる。
「何のことだい?」
「本物のおばあちゃんは、風鈴を持っていない」
祖母の笑顔が消えた。
「おまえが持ってきたんだよ」
「違う」
「納戸の風鈴を」
「違う!」
私は駅の柱に貼られた時刻表を見た。
すべての列車の到着時刻が、十二時十七分になっている。
その下に、小さな手書きの文字があった。
鐘を鳴らした者は、最後に自分の声を返される。
私は理解した。
まだ終わっていない。
私が鐘を鳴らしたことで、海の底の町をこちらへ開いてしまった。
祖母を連れ戻せないなら、せめて、私の声だけでも返さなければならない。
私はホームの端から、線路へ飛び降りた。
列車の女が叫んだ。
その声は、私の声だった。
「危ない!」
線路の間に、黒い水が流れている。
私は水の中へ手を入れた。
冷たくない。
水の底に、何かが沈んでいた。
青い風鈴。
短冊には、私の名前が書かれている。
私はそれを掴んだ。
風鈴が激しく鳴る。
ちりん、ちりん、ちりん、ちりん――。
列車の中から、無数の手が伸びてきた。
私は風鈴を線路へ叩きつけた。
ガラスが割れた。
音が途切れた。
世界が、しんと静まった。
列車も、子どもたちも、濡れた浴衣の女も消えている。
線路には、ただ割れたガラスだけが残っていた。
私は気を失った。
目を覚ましたとき、病院のベッドにいた。
母が泣きながら私の手を握っている。
「よかった……本当によかった」
私は母の顔を見た。
「おばあちゃんは?」
母は答えなかった。
しばらくして、医師が入ってきた。
「君は駅の近くで倒れていたんだ。ひどい熱だった。脱水症状もある」
「おばあちゃんは?」
母が目を伏せた。
「警察の人が探している。でも、まだ見つかっていない」
町では、私が一晩行方不明になっていたことになっていた。
祖母の家から駅まで、私はずぶ濡れの状態で歩いていたらしい。
けれど、駅の監視カメラには、私がひとりで歩いている姿しか映っていなかった。
時計店の老人も見つからなかった。
地下道は、入口から先が完全に崩落していた。
誰も、海の底の町の話を信じなかった。
夏休みの終わり、私は母と一緒に町を出た。
祖母の家は取り壊されることになった。
納戸から見つかったのは、古い家具と段ボールだけだった。
青い風鈴は、どこにもなかった。
私は駅のホームで、最後に海を見た。
白波ヶ浦は、いつもと同じ灰色だった。
防波堤の上に、青いTシャツの男の子が立っている。
健一だった。
彼は、私に向かって手を振った。
私は手を振り返そうとした。
けれど、健一は首を横に振った。
手を下げろ。
そう言っているように見えた。
私は海から目を逸らした。
電車が来た。
ドアが開き、母と一緒に乗り込む。
車内は冷房が効いていて、誰も風鈴を吊るしていない。
私は席に座り、窓の外を見た。
電車が動き出す。
海岸が遠ざかる。
防波堤も、駅も、町の家々も、少しずつ小さくなる。
そのとき、車内に音が響いた。
ちりん。
私は凍りついた。
乗客たちが一斉にこちらを見た。
母も振り返る。
「今、何か聞こえなかった?」
私は答えなかった。
窓ガラスに、私の姿が映っている。
その背後に、もうひとりの私が立っていた。
濡れた髪。
青白い顔。
胸元に、割れていない青い風鈴。
もうひとりの私は、窓の中から口を動かした。
――次は、あなたのお母さん。
私は目を閉じた。
耳を塞いだ。
けれど、風鈴の音は消えなかった。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
電車は町を離れ、トンネルへ入っていく。
暗闇の中で、母が私の手を握った。
「ねえ」
母が言った。
「あなた、今、何か言った?」
私は首を横に振った。
「言ってないよ」
母は不思議そうに、私の顔を見た。
「でも、今、あなたの声で……」
その先を、母は言わなかった。
電車の照明が、一つずつ消えた。
車内が暗くなる。
窓ガラスの中で、もうひとりの私が笑った。
そして、暗闇の向こうから、誰かが母の名前を呼んだ。
私は母の手を強く握った。
母は、返事をしなかった。
しばらくして、電車がトンネルを抜けた。
照明が戻る。
乗客たちは、何事もなかったように座っている。
母も、目を閉じて眠っていた。
私は窓の外を見た。
そこには、夏の青空と、遠い山々が広がっている。
もう、風鈴の音は聞こえない。
そう思った。
その夜、自宅へ戻ると、母は疲れてすぐに眠った。
私は自分の部屋へ入り、机の引き出しを開けた。
中には、見覚えのないものが入っていた。
小さな青いガラス片。
風鈴の破片だった。
ガラス片には、赤い文字が浮かんでいる。
あと二人。
私はそれを床へ落とした。
ガラス片は割れなかった。
代わりに、部屋の隅で風鈴が鳴った。
ちりん。
私はゆっくり振り返った。
窓は閉まっている。
カーテンも動いていない。
それなのに、窓辺に青い風鈴が吊られていた。
短冊に書かれていた名前は、母のものではなかった。
私の名前。
風鈴の向こうに、海が見えた。
家の外ではない。
窓の向こうでもない。
風鈴の小さなガラスの中に、海の底の町が映っていた。
赤い提灯。
濡れた石畳。
並んで待つ、顔のない人々。
その先頭に、祖母が立っている。
祖母は、私に向かって手を振っていた。
隣には、澄江がいる。
さらにその隣には、健一がいる。
健一だけが、こちらを見て首を横に振っていた。
来るな。
逃げろ。
声を返すな。
私は窓を開けた。
風は吹いていない。
それでも、風鈴は鳴り続けている。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
町から遠く離れたこの家で、誰かが私を呼んでいる。
私の名前を。
何度も。
何度も。
私は唇を噛み、声を出さないようにした。
そのとき、背後から母の声が聞こえた。
「ねえ」
私は振り返らなかった。
「そこにいるの?」
私は答えなかった。
「どうして返事をしてくれないの?」
母の声が、少しずつ低くなる。
「お母さんだよ」
私は窓の外を見つめた。
風鈴のガラスに映った海の底で、母の姿がゆっくりと立ち上がっている。
病院の寝間着を着た母。
濡れた髪。
青白い顔。
その胸元には、青い風鈴。
「ねえ」
背後の声が、すぐ耳元で囁いた。
「こっちを見て」
私は目を閉じた。
けれど、風鈴の音だけは聞こえた。
ちりん。
そして、窓ガラスの向こうで、祖母が口を動かした。
――まだ、三人目が決まっていない。
私はその意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
あと二人ではなかった。
ひとりは祖母。
ひとりは私。
残りのひとりは――。
母だった。
風鈴の音が、部屋中に広がった。
母の声が、背後で笑った。
「さあ、誰を呼ぶ?」
私は振り返らなかった。
名前を呼ばなかった。
ただ、窓辺の風鈴を掴み、思いきり握りつぶした。
ガラスが手のひらに食い込む。
血が流れる。
風鈴は割れなかった。
むしろ、私の手の中で大きくなった。
小さなガラスの器が、私の腕を包み、肩を包み、身体全体を包んでいく。
部屋の床が水に変わった。
壁が遠ざかる。
天井が消える。
私は、海の中に立っていた。
目の前に、祖母がいる。
澄江がいる。
健一がいる。
そして、その後ろに、町の人々がいる。
何百人もの人たちが、風鈴を胸に吊るして、私を待っている。
祖母が、悲しそうに笑った。
「おかえり」
私は答えなかった。
海の底で、風鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
その音は、もう夏の音ではなかった。
夏が終わるたびに、ひとりずつ増えていく。
海の底の町で、誰かが新しい風鈴を吊るす。
そして、こちら側に残った人たちは、次の夏を待つ。
風のない夜に、誰かの声が聞こえるのを。
自分の名前が呼ばれるのを。
返事をしてくれる人が、現れるのを。