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#ハッピーエンド
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初日。
時間は測れない。時計も窓もない。煉瓦と酒樽とテーブルしかない。
オットーは大きく息を吐いた。吐いた息が壁に当たって返ってくる。
「へへ……たった二週間だ」
笑ってみせる。口角だけが動き、声が乾く。
「落ち着いて深呼吸すりゃ……耐えられる……」
吸う。酒の匂いが肺の奥まで入ってくる。
吐く。喉の奥に残った感覚が、舌の上へ戻ってくる。味はないのに、輪郭だけがある。
オットーは壁に背を預け、目を閉じた。肩を落として、呼吸の数を指で刻む。
(俺は……変わったんだ。前みたいに、酒に全部持ってかれるような真似は、もうしねぇ……)
一回。二回。三回。
数えるたびに、樽の中で液体が揺れた気がする。耳が勝手に拾ってしまう。
*
三日後。
何度、眠ろうとして目を閉じただろう。
横になっても、頭だけが冴えたままだ。目の裏が熱く、まぶたが乾く。
眠れても二時間。浅い夢で跳ね起きる。
床に手をついて起き上がるたび、指が震えているのが分かる。
目の下に隈が濃い。頬がこけている。
口の中は乾くのに、唾を飲むたびに残り香が蘇る。喉が勝手に鳴る。
「大丈夫だ……」
ふらつく脚で立ち上がり、樽に背を向けた。
煉瓦の壁へ額を押し付ける。冷たいはずなのに、皮膚が熱い。
「大丈夫だ……俺は変わったんだ……昔のようにはならねぇ……」
声に芯がない。
それでも言葉にしないと、腕が勝手に振り返りそうだった。
手の震えは隠せない。指先が空を掴むみたいに開いては握る。何度も繰り返す。
胸が落ち着かない。呼吸が浅い。肩が上がったまま戻らない。
頭では分かっている。
それでも、グラスに口をつける自分の動きが、やけに具体的に浮かんでしまう。
オットーは歯を食いしばり、震える両手を胸に押し当てた。爪が鎧の下の皮膚に当たる。
「……変わったんだ……っ」
*
七日後。
オットーは煉瓦の部屋を歩き回っていた。止まると負ける気がする。
樽と壁の間を往復するたび、足音が乾いた音で跳ね返る。
腹が鳴らない。喉は乾く。
それでも体は疲れていく。まぶたが重いのに閉じられない。
「あんな美味い酒……飲んだことがなかったな……」
誰に向けた声でもない。口の奥から漏れた。
「あの酒……もう一度飲みたいな……」
唾液がじわりと溜まる。舌の上に甘みと酸味が戻る。
匂いだけで、喉がまた鳴る。
「飲みたい……飲みたい飲みたい飲みたい飲みたい……!」
早歩きが早足になり、肩で息をする。樽の列の前を何度も往復する。
木目。樽の口。栓。グラス。頭の中で順番に並ぶ。
不意に足が止まった。
テーブルの上に空のグラスがある。
指先が勝手に伸び、縁に触れた。
「……っ」
掴んだ瞬間、視界が揺れた。喉の奥がせり上がる。
「……ぉ……おぇっ……!」
胃がひっくり返る。
オットーはテーブルから離れ、煉瓦の隅に膝をつく。何も食べていないはずなのに、胃液が喉を焼いた。
えずくたびに背中が攣り、腹が痙攣する。額から汗が落ちる。床に黒く染みる。
吐き終えても胃がきしむ。目の端で樽が揺れて見える。
(……飲めば……楽になるのか……?)
呼吸の隙間に、そういう考えが割り込む。
オットーはかすれた声で呟いた。唇の端に胃液が残り、舌で拭う。
「……だったら……なおさら……飲めねぇだろうが……」
震える手で口元を拭い、うつ伏せに崩れる。歯を食いしばり、床を拳で叩きかけてやめた。
部屋には樽の香りと酸っぱい匂いが混ざり、息だけが残る。
*
十日後。
「……一杯だけなら, いいよな」
床に座り込んだまま呟く。声はかすれているのに、言葉だけははっきりしていた。
「少し記憶を持っていかれるだけで……アレを飲めるんだ……」
テーブルの上には空っぽのグラス。
すぐそばに樽がある。距離が近すぎる。
手を伸ばす。指先が栓に触れた。
カタカタカタ……。
震えが止まらない。抜こうとしても滑る。何度も外れる。
オットーは歯を食いしばり、両手で栓を掴んだ。腕に力を入れ、肩が持ち上がる。
ぐい、と引く。
ようやく抜けた。
ふわり。
香りが鼻先を撫でた。頭の芯が痺れる。肩が落ち、喉が勝手に鳴る。
「……たまんねぇな……」
声が漏れる。
グラスをつかむ。注ごうとするが手が震え、液面が踊る。こぼれそうになって慌てて角度を直す。
とく……とく……とくとく……。
鼻先に近づける。吸い込む。
喉が鳴った。
ごくり——。
飛び起きた。
「……っ!! ……はっ!!!??」
ぐしゃぐしゃの寝床の上で上体を起こす。息が荒い。胸が痛い。
視界に飛び込んでくるのは煉瓦と酒樽とテーブルだけ。
手には何もない。
グラスも酒も、口の中の味もない。
「……夢か……」
呟いた声がひどくかすれていた。
ここ数日、毎晩この夢を見ていた。注いで口をつけるところまで行って、飛び起きる。
それを何度も繰り返す。
眠った気がしない。
睡眠時間は三十分を切っている。
汗が止まらず、シャツが肌に張り付く。
瞳が開いたままになり、視界の端がにじむ。震えは手だけじゃなく、肩や顎にも出る。
オットーは髪をかきむしった。指が頭皮を引っ掻き、痛みが遅れてくる。
「……くそ……」
息を吐くと酒の匂いを嗅いだ気になる。
ここには何もないのに、脳が勝手に補ってくる。
(ダメだな……こりゃ……)
笑おうとして喉が鳴り、咳みたいな音だけが出た。
*
十三日後。
オットーは床に倒れ込んだまま動けなくなっていた。
頬がこけ、目の下の隈が深い。汗でびっしょりなのに寒気で震える。歯が鳴る。
手足に力が入らない。
指先が痙攣して、床を掻く。立ち上がる前に息が切れる。
「……やったぜ……」
乾いた唇がかすかに動く。
「試練とやらも……あと一日……」
声は息に近い。
それでも言い切ろうとする。
「……俺の勝ちだ……馬鹿野郎が……」
口の端だけがぴくりと上がる。笑いに届かない。
(あと一日……あと一日耐えりゃ……)
思考がぶれる。
酒の匂いが割り込んでくる。視界の端で樽が呼んでいる気がして、首を振って否定する。
それでも“あと一日”だけは消えない。
オットーは床に爪を立て、四つん這いになる。膝が笑う。肩が揺れる。
テーブルの脚へ手を伸ばし、指が木に滑り、やっと縁を掴んで体を引き上げた。
テーブルの上にはいつものグラス。輪郭が二重に見える。
オットーは息を吸い、吐けずに咳き込む。喉が焼ける。
「……試練の……達成に……」
笑ったつもりで口を開く。脂汗と涙が混ざる。
「勝利の……美酒だ……」
立ち上がろうとして足がもつれ、肩をテーブルにぶつけた。木がきしむ。
倒れない。倒れたら終わる気がした。
樽へ近づく。
グラスを持つ手が震え、ガチガチ音を立てる。歯も鳴る。喉が鳴る。
栓を抜く。空振りする。指が滑る。
何度もやり直し、ようやく抜けた。
とく……とく……。
液体がグラスに満ちていく。
香りが濃い。甘い。重い。今はそれがやけに魅力的に感じられる。
オットーはふらつく足で一歩下がり、グラスを胸の前まで持ち上げる。
腕が震え、液面が波打つ。
「……これで……終わりだ……」
口元へ近づける。
ガラスが唇に触れる、その瞬間。
濁っていた瞳の奥に光が戻った。
オットーは酒の色を見つめた。長い。瞬きが遅い。
唇がわずかに開き、息が漏れる。
次の瞬間。
ガシャンッ!!
グラスを床へ叩きつけた。破片が散り、酒が床を濡らす。
足元が甘い匂いで満ちる。
「だめだ……」
血の混じった声が漏れる。喉が裂けそうだ。
「だめだ……だめだ……!」
歯をむき出しにして叫ぶ。
「美味い酒……こんな酒全然うまくねぇえええぞおおおお, クソ野郎!!!!」
靴で酒を踏み潰す。ぐちゃりと濡れ、破片が靴底に当たって痛い。
オットーは息を吸い込み、また叫ぶ。声が裏返る。
「本当に……本当に……美味い酒ってのはなぁ……!」
頭の中に光景が走る。
湯気の立つコーヒー。薄い酒。ジョッキ。酒場の匂い。笑い声。
喉が詰まり、鼻がつんとする。
「難敵を倒したあと……仲間と飲む酒だぁあああ!!!」
足元が揺れる。まっすぐ立てない。
それでも声だけは出る。腹から搾り出す。
「本当に沁みる酒ってのはなぁ……!」
墓の前。名前。涙。喉へ落ちる熱。
言葉が震え、息が途切れる。
「仲間がおっ死んだ時だぁあああ!!!」
涙と汗と鼻水が混ざり、顔がぐちゃぐちゃになる。
それでも叫ぶ。
「本当に楽しい酒ってのはなぁ……!」
四十を過ぎた身体。もう無茶はしないと言いながら、それでも潜ると決めた夜。
怖さと高揚が同時に来て、笑って乾杯した。
「四十超えてダンジョン潜った時だぁああああ!!!」
最後は言葉にならない音に近い。
樽は黙って香りを吐き続ける。壁も何も返さない。
床には割れたグラスと、踏み潰された酒が広がっている。
オットーの息は荒い。身体は震え続けている。
だが目は逸れなかった。
*
十四日目。
震えは止まらない。歯がカチカチ鳴る。汗が滴り続ける。
熱が高い。呼吸が浅く早い。肺が擦れる音が耳の内側で響く。
時間感覚が壊れている。
何日目か、何をしているか、問いかけても答えが定まらない。
それでも目だけは曇らなかった。
樽ではなく、その先の何かを睨む。
(……負けねぇ。ここまで来て……今さら, 負けてたまるか)
『おめでとう。合格だ』
声が落ちてきた。
次の瞬間、オットーの身体が眩い光に包まれる。
煉瓦が遠ざかり、樽の列が白く溶けていく。足元が抜ける。
*
「——オットー!?」
真っ白な儀式の間。
台座の前で待っていたダリウスが目を見開く。
光の粒が集まり、形を取り、
ドサッ、と。
オットーが床に崩れ落ちた。
「もう帰ってきたのか……!? どうした, オットー!!」
ダリウスは駆け寄り、巨体を抱え起こす。腕に重みがのしかかる。
熱い。皮膚が焼けるようだ。
ミラも隣へ膝をつき、覗き込む。唇が震え、指が迷いなく胸元へ伸びる。
エドガーは指先で脈を取った。間が長い。喉が鳴る。
「生きてます。……ギリギリですが」
ダリウスが大きく息を吐く。肩が落ちる。
「オットー!」
呼びかけると、まぶたがかすかに動いた。
「……へ, へっ……」
乾いた笑いが漏れる。
「やったぜ……お前ら……」
かすれた声。
それでも、いつもの調子を無理やり作っているのが分かる。
「とりあえず……乾杯でも……しようや……」
そこで意識が途切れた。頭が落ち、腕がだらりと垂れる。
「オットー!!」
ミラが回復魔法の詠唱に入り、エドガーがポーションを取り出す。瓶の栓が指に引っかかり、焦って開け直す。
ダリウスは巨体を床へそっと寝かせた。頭が石に当たらないように手を添える。
そのとき。
ゴウン……。
低く重たい音が白い空間に響いた。
四人の視線が一斉に正面へ向く。
いつの間にか現れていた巨大な扉が、ゆっくり内側へ開いていく。
風はない。匂いもない。
それでも扉の向こうの暗さだけが濃い。