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冬の朝は夏と違ってなかなか太陽が昇らないため、季節を通していつも同じ時間に目を覚ましてもまだ世界は闇の底に沈んでいた。
その中を白いBMWのヘッドライトが闇の底から浮かび上がるように小高い丘の上にあるアパートに反射する。
住人である事を示すものを眠そうな顔で詰所に座っている警備員に見せたのは、早朝の寝起きのせいかそれとも別の理由からか、顔色があまり良くないウーヴェだった。
警備員も少し心配そうな顔になるほどの顔色だとルームミラーで己の顔を見て自嘲したウーヴェは、車からステッキをついて降り立ち、ふらつきそうになる己の足を叱咤しつつエレベーターに乗り込んで自宅のドアを開ける。
玄関の壁にあるフックに車のキーを引っかけて知らず知らずのうちに零れる溜息を足元に落とした時、鈍く光る指輪が視界にすっと入り込む。
それが限界だった。
「……っ!!」
壁に背中をぶつけながらずるずるとその場に座り込みながらフックに引っかけてあったリングを通したネックレスも一緒に引っ張ってしまったのか、頭を抱えるように座り込んだウーヴェの視界に粉々にちぎれてしまったネックレスの残骸とそこから零れ落ちた指輪が転がりながら入り込む。
「……あ……っ……!」
昨日己は何をしたのか。
久しぶりに酒を飲んだ事や心の奥底でずっと逢いたいと願っているリオンと良く似た面持ちのノアに久しぶりに会ったからなど、総てはただの言い訳にしか過ぎなかった。
教会で神や家族の前で永遠の愛を誓ったリオンへの思いは変わらなかったが、声を聞く事も出来なければ顔を見る事も出来ない寂寥感から何をしたと抱え込んだ頭の中で声が響き、酒の力を借りたとしても消すことの出来ない、己を抱いていたノアの息づかいや見下ろす視線も思い出してしまい、無意識のように指輪を手に握り込み手摺りを掴んで腕の力だけで身体を引き起こすが、廊下の先のベッドルームやリビングのドアが永遠に届かない蜃気楼の向こうにあるような錯覚に囚われる。
足元も覚束無いまま考えること無く手摺りを伝ってウーヴェが向かったのは、リオンが出て行ってからは殆ど足を踏み入れることの無かった部屋だった。
床の上に散らかる雑誌や某かの資料、脱ぎ捨てたままの形で淋しく存在するシャツやハーフパンツなど、夏の気配を纏ったままの部屋に入り、昼寝か何かをした後の乱れたままのベッドに何とか辿り着くと、身体を支えることが限界だったようにベッドに倒れ込む。
「…………っ」
倒れ込んだ枕から感じるリオンのものとしか言えない匂い-タバコの匂いや香水のものが入り混じり、時間の経過とともに薄らいでいるそれにウーヴェが唇を噛み締め、手に握りしめた指輪を胸元に抱え込んで身体を丸める。
リオンに逢いたい、だが逢えないのならばという抑え切れない欲望から隣にいたノアを使って胸の寂寥感を埋めたのだろうという己を嘲笑いながら指さしているような声に耳を塞いで否定したかったが、最愛のリオンを裏切ったという指摘の声に息が出来ないほど胸が痛み出す。
己の欲望を満たすためにノアを利用し、リオンを裏切ってしまった。
それは許されることの無い罪だった。
己が犯してしまった罪の重さにただ身体を丸めて許しを請うように指輪を握りしめることしか今のウーヴェには出来ず、出勤の準備もしなければならない事も思い出せないほど自責の念に囚われてしまうのだった。
閉めていなかったカーテンの隙間から朝とは到底思えない闇の底に沈む街の明かりが増え始め、闇の中でも朝が来たことを感じさせていたがぼんやりとベッドの中で目を覚ましたノアは、引っ越しをし今は自宅になっている元倉庫に置いたベッドでは感じることの出来ないコンフォーターやシーツの高級感に再度目を閉じそうになるが、その手触りからここが何処であるかを思い出し、それと同時に昨夜の出来事の一部始終も思い出して飛び起きる。
「……っ!!」
昨日、初めて見た涙が悲しくてただそれを止めたい一心でウーヴェを抱いたが、朝を迎えた今、己がしでかした罪の重さに気がついて身体に走る震えを止めることが出来なかった。
ウーヴェの涙を見たくない思いだけだったが、冷静になった今、ウーヴェのパートナーであり己と血の繋がった兄であるリオンの顔が思い浮かび、全身に嫌な汗が噴き出す。
リオンとの関係を認めない両親と心身ともに距離を取って身を寄せたのは、そのリオンが父によって捨てられた教会だった。
誰の心にも重くのし掛かる過去を知りながらもそれでも笑顔で己を迎え入れてくれた教会の人々と、この街で知り合いがいないからと何かと世話を焼いてくれたウーヴェにいつしか自然と抱いたのは尊敬よりも情愛の気持ちだった。
酒の力を借りてかそれとも借りたフリをしたウーヴェの目から流れ落ちた、リオンに対する心の奥底の思い。
それを目の当たりにしたとき、そんな悲しい顔で泣くなと言葉にしたい思いと、ウーヴェを泣かせるリオンに対する言葉に出来ない思いが綯い交ぜになり、抱えていた情愛に行動する理由を与えてしまったのだ。
思いを持つことは誰にも止められないが、行動に移してはいけないことだった。
ガマンしなければならないことだった。
昨夜、ここで当初とは違う意味を持ったような涙を流しながら己の背中を抱いたウーヴェだったが、熱の籠もった声の合間に混ざり込んだのは己の名前では無くウーヴェが本当に求めている男の名前だった。
リオンの名を呼びながら己に抱かれるウーヴェとそれを理解しつつも止めることが出来ない己の、そんな誰も救われることの無い関係を直視するには辛すぎて、劣情としか言い表せない思いを吐露した後、己の顔にリオンの面影を重ねていたウーヴェを見れば目を閉じていて、一種の狂騒の時が終わった後にどのような言葉を交わせば良いのかが分からなかったノアは、ウーヴェが目を閉じている事に少しだけ安堵した心のまま眠りに落ちたのだ。
だからウーヴェがその時本当に眠っていたのかそれとも目を閉じているだけだったのかも分からず、それどころかいつホテルを出て帰ったのかも分からなかった。
ウーヴェがいた痕跡を手探りでベッドの中で探しても見つからず、ふぅと溜息を一つ落とした時、サイドテーブルの明かりを最小に落としたランプの下に眼鏡が残されている事に気付く。
それは昨夜己の手で外してそこに置いたウーヴェの眼鏡で、直接渡しに行って良いものかどうか激しく悩んでしまうが、昨夜の関係が例え後ろ暗いものだったとしてもウーヴェに逢いたい思いは強く、クリニックに持って行けばウーヴェに直接会えなくてもリアに預けることが出来るだろうと苦笑し、緊張と不安に凝り固まった身体を解すように伸びをする。
リオンに対して今まで知らなかったとは言え両親と一緒になって苦しめてきた罪に、リオンが不在の時にパートナーであるウーヴェと関係を持つというもう一つ新たな罪が重なってしまったが、今までも罪を犯していたのだ、その古い罪に新たなものがまた一つ積み重なっただけだと苦く笑い、ベッドから抜け出してシャワーを浴びて自宅に戻る準備をするのだった。
今にも倒れそうな顔色のままクリニックに出勤したウーヴェだったが、心配そうに見つめてくるリアに顔色の悪さを説明する自信もなく、いずれちゃんと話をするから今日は何も聞かずにいてくれと懇願するような声で伝え、心配しつつもウーヴェの思いを優先してくれる彼女に胸の裡で感謝の言葉を伝えた。
午前の診察を死ぬ気で乗り越え午後の診察はほぼ無意識と義務感で終えたウーヴェは、疲労困憊の顔でお気に入りのチェアに腰を下ろして目元を腕で覆い隠していたが、ドアがノックされて気怠げに返事をする。
「……随分と疲れているようだね、ウーヴェ。大丈夫かい?」
シャツの布地で視界が覆われているために流れ込んできた穏やかな声に驚きチェアの上で姿勢を正すと、マウリッツが駆けつけたものの本当に良かったのかと言う不安を顔に滲ませながら所在なげに立っていた。
「ルッツ……!?」
どうした、何かあったのかとこんな時でもやはり友人のことが気がかりで問いかけたウーヴェにマウリッツがアイスブルーの双眸を細めて頭をゆっくりと左右に振る。
「僕は何も無いよ……何かあったのはきみだろう、ウーヴェ」
「!!」
その言葉に咄嗟に返事が出来ずに目を見張って友人の端正な顔を見つめることしか出来なかったウーヴェは、静かに近付きいつもリオンがしていたようにウーヴェが座っているチェアの肘置きに遠慮がちに座ると、顔色が随分悪いとウーヴェの体調を思っての言葉を伝えながら血色の悪い頬を手の甲で撫でる。
「……っ……!」
「ウーヴェ、何があった?」
何があったと今きみに聞くのはおかしいことだが本当に何があったと問われたウーヴェは、頭を一つ振ることで頬を撫でていた優しい手をそっと振り払い、震える手で目元を覆い隠す。
「……リアがね、きみの様子がおかしくて心配だからって電話をくれたんだ」
だから今僕はここにいるが連絡を貰って良かったと安堵の溜息を零しつつウーヴェの髪を遠慮がちに撫でたマウリッツだったが、ウーヴェの肩が一つ上下したことに気付き、髪を撫でた手で震え始めた肩を抱き寄せて覆い隠されている顔を胸元に抱き寄せる。
「……雪が降り出したよ。今日はもう家に帰ろう」
「ルッツ……っ」
「うん。あとはリアに頼んでさ、今日ぐらい早く帰っても誰も何も言わないよ」
だからもう今日は帰ろう、きみのための運転手にも相談相手にもなる、そのために僕が来たのだからと、ウーヴェを思う気持ちだけで胸を張ったマウリッツにウーヴェが唇を噛み締めて顔を伏せる。
「……うん」
「良し。じゃあリアに頼んでくるから少しだけ待っていてくれ」
ウーヴェの背中を撫でて立ち上がったマウリッツが診察室を出て行き己の言葉通りにすぐに戻って来ると、立ち上がる気力がなくぐったりしたままのウーヴェの前に膝をついて伏せられている顔を覗き込む。
「ウーヴェ。ここにこのままいるのも辛いだろ?」
だから少しだけ頑張って車に乗って家に帰ろうと、己の患者である子供達に言い聞かせている時と同じ口調でウーヴェの顔をあげさせたマウリッツだったが、その顔を見た瞬間、ああ、リオンがきみを守りたくなる理由が分かると呟きながらウーヴェの手を取って立ち上がらせ、己の身体で痩躯を支えながらステッキを握らせる。
「きみのことだ、食事は出来ないだろうね」
「……要らない」
「うん。分かった」
今から帰る事だけ実行してくれたら一食ぐらい抜いても構わない、だから何度も言っているが家に帰ろうと笑いかけ、ステッキを使いながらも頼って来るウーヴェをしっかりと支えながら診察室を出ると、リアが心配だけを顔に浮かべて二人が出て来るのを待っていた。
そのリアに視線を向けたものの言葉がいつものように出て来ずに情けないと自嘲に顔を歪めると、何かを読み取ったリアが頭を横に振って気にしなくていいと頷いてくれる。
本当ならば自分がやらなければならない事を任せられる存在がいる事、また一人悩み苦しんでいる時にこうして支えてくれる友人がいることに今まで感じたことがないほどの感謝を覚えたウーヴェは、マウリッツに帰ると意思表示をしリアには後を頼むとだけ気力で伝えると、二人がそんなウーヴェを安心させるように頷く。
「じゃあリア、お先に」
「ええ。ルッツ……私が言うのも変だけど、ウーヴェをお願い」
「うん。明日はもう少しマシな顔で出勤出来ると思うよ」
普段あまり軽口を叩かないマウリッツの精一杯のそれにリアが泣き笑いの顔で頷きあとは任せてちょうだいと頼り甲斐のある顔で二人を送り出すが、本当に何があったのかと溜息を零してクリニックを締める準備にとりかかるのだった。
彼女がウーヴェを心配しつつも明日の診察の準備を終え、あとは鍵を掛ければ今日の業務は終わりというときに両開きのドアがそっと開き、こんな時に営業かもしくは飛び込みの患者かと内心汗を浮かべるが、何やら意を決したような顔付きで入って来たのはホームで生活するようになってからは時々食事をすることがあったノアだった。
ウーヴェを交えての食事などは行くもののノアがここに顔を出したのは初めて訪れた時以来で、どうしたのと笑みを浮かべて出迎える。
「……もう帰る所だった?」
「ええ。ちょっと今日は早く終わったから帰ろうと思っていたの」
ノアの問い掛けに苦笑しながら頷き、そんな訳でウーヴェは一足先に帰ったわ、もしかして入れ違いになったかしらと首を傾げると、ノアの蒼い目が左右に泳ぐ。
「……そうか」
「ウーヴェに用でもあったの?」
「あ、ああ、うん……これを渡そうと思って」
リアの問い掛けに躊躇いがちに返事をしたノアはベストのポケットからレンズクリーナーに包んだものを取り出すと彼女に手渡す。
「ウーヴェの眼鏡?」
「そう。昨日、ホテルで一緒に飲んでたんだけど、その時に忘れて帰ったんだ」
本当なら朝のうちに持ってこようと思っていたがこんな時間になった、ウーヴェに渡しておいて欲しいと口早に伝えたノアは、意外そうな顔で目を見張るリアが昨日のことに気がついてしまう恐怖を覚え、口を開く前に手を挙げて踵を返そうとする。
「あ、ノア、ちょっと……!」
「ごめん、リア、ウーヴェに渡しておいて欲しい!」
その言葉を肩越しに告げる事しか出来ずに小走りになってクリニックを出て行ったノアを呆然と見送ったリアだったが、手の中に残されたウーヴェの眼鏡をじっと見下ろした時、何かが引っかかると腕を組む。
リオンがいなくなってからは一滴も酒を飲んでいないウーヴェがノアとホテルで久しぶりに酒を飲んだのかとの疑問は何も問題はないことだと答えを出せたが、今己の手の中にあるウーヴェの眼鏡の存在が何かが違うと教えていた。
今までウーヴェやその友人達と何度も飲みに行き、メンバーの誰かが酔い潰れて大変だったりウーヴェ自身が飲みすぎてリオンに説教を食らう珍しい場面なら幾度も見た事があったが、彼女の脳裏に浮かんでは流れて行くそのどんな場面でもウーヴェが眼鏡を外したことなどなかった。
クリニックでもウーヴェが眼鏡をかけていることは当然の事で、外すのは汚れや曇りが気になった時ぐらいだった。
その眼鏡をウーヴェが忘れて帰るなどあり得るだろうかと思案した時、まるで天啓のように脳裏に一つの場面が浮かび、咄嗟に掌で口元を覆い隠してしまう。
「まさか……!」
ホテルで一緒に飲んでいた、そこに眼鏡を忘れて帰ったウーヴェの様子が今日一日今まで見た事がないほど憔悴していた事、そしてノアの今の焦りようから導き出されたのは、昨夜ノアとウーヴェが関係を持ったのではと言う疑問だった。
もし今想像した通りならば今日一日ウーヴェの様子がおかしかった事も納得できると目を見張るが、今までウーヴェの側にいてリオンとの関係を見守っていた彼女の脳裏に自らの想像を否定する言葉が思い浮かぶ。
そうよ、ウーヴェに限ってそんなことはないわ、久しぶりに酒を飲んで調子が悪くて眼鏡を外しただけよと自らに言い聞かせたリアは、預かった眼鏡をデスクにそっと置き、予想外の理由から早く帰ることになった為に最近よく一緒に出かけているダニエラに連絡を入れ、可能なら食事に行こうと己の疑問に蓋をしてしまうのだった。
シートでぐったりしているウーヴェをなんとか励ましながら車から降ろしたマウリッツは、ウーヴェの家のドアを開けて帰ってきたことに安堵の溜息を零すが、足元にちぎれてしまったネックレスの残骸を見つけ、ウーヴェの胸元にいつもぶら下がっていたリングを通していたものだと思い出す。
「ウーヴェ、ネックレス切れちゃったのか?」
「……!」
その言葉はマウリッツにしてみれば当然の疑問だったがウーヴェにとっては別の何かを連想させたものだったようで、支えていた身体が緊張に強張ってしまう。
ウーヴェの様子から何があったのかまで想像出来ないがとにかく今はウーヴェが抱えている事を吐き出させて気持ちを楽にさせたいと強く思い、長い廊下を何とか進んでリビングに入りソファにウーヴェを座らせてその横に同じように腰を下ろすとウーヴェがソファに横臥して体を丸めてしまう。
「ウーヴェ、何があった?」
クリニックでも聞いた事だが本当にどうしたと再度問いかけながらウーヴェの肩を撫でると触れられた場所に痛みを覚えたように身体が竦んでしまうが、ウーヴェの口からなんらかの言葉が流れ出すことはなかった。
そんなウーヴェを根気よく見守っていたマウリッツだったが、一つ溜息を零した後、白とも銀ともつかない髪を撫でながら微苦笑する。
「……黙ったままだとずっと苦しいよ、ウーヴェ。だから何があったか言って。誰にも言わないって約束する」
きみを今そんなに苦しめていることは何なのかどうか教えてくれ、そしてきみの心が少しでも軽くなる手助けをさせてくれと、自分のワガママから一時期は離れてしまったがそれでも今はまた以前のように付き合ってくれるきみの力になりたいと、ただそれを願ってウーヴェを抱きしめたマウリッツは、ウーヴェの手が腰に回されてしがみついてきた事に気付いて今度は腕をそっと撫でる。
「……俺、は、リオンを……っ!」
リオンに決して消すことの出来ない傷を付けてしまった、裏切ってしまったと後悔に染まる声に告白されて驚きに目を見張ったマウリッツだったが、きみがリオンを傷付けるなど考えられないと返すと、腕に力が込められ拳が握りしめられる。
「……リオンがいない事に我慢できなくて……」
ノアと寝てしまったとくぐもった声で告白されたマウリッツだったが、さすがに聞かされたそれに驚き言葉を失ってしまう。
リオンが家を出たあと二人の間で手紙の遣り取りをしていることは聞かされていた為、リオンからの手紙が届かなくなり不安に感じたウーヴェがメッセージを送ってそこで口論にでもなったのか、それとも休職扱いにしてくれているバルツァーの本社でリオンの処遇に関する嫌な話を聞かされて父や兄と口論にでもなったのかと思っていたが、まさかリオンの弟だと教えられたノアと関係を持ってしまったと教えられるなど想像も出来ないことだった。
その衝撃から立ち直るのに少し時間を要したマウリッツは、己の腹に向けてあいつを裏切ってしまったと繰り返すウーヴェに覆い被さるように肩を抱きしめるが、感じた事をどのように伝えようか脳味噌をフル回転させる。
「ルッツ……! 俺は、リオンに……っ! 許して、くれ……っ」
「……うん。それは確かにウーヴェが悪いね」
「!!」
リオンがいない寂寥感からだろうが、他の人とそれもよりによってリオンの弟と関係を持ってしまったことはどれだけ正当な理由があろうと言い訳にしかならないとウーヴェの心に届くように願いつつ目を伏せたマウリッツは、だがそれは僕にではなくリオンが戻ってきたときに謝罪をして許して貰わなければならないことだねと囁き、緊張に強ばるウーヴェの背中を優しく撫でる。
「許して……くれ……な……」
「リオンが許してくれない?……う、ん、正直な話、普段のリオンを見てるとそう感じるね。でも、リオンは許せないって言えるだろうか」
己の罪と後悔の重さに項垂れるウーヴェの耳に本当にそうだろうかという疑問の声が流れ込み、マウリッツの下から顔を上げたウーヴェは、沈思の顔で見下ろす端正な顔に気付き、ルッツと声を掛ける。
「うん……あまりこんなことは言いたくないけど、そもそもリオンが家を出なければきみはノアと関係を持つことは無かった、そうだろう?」
今回の事はリオンの家出が発端になっている、その原因さえ無ければ結果も無かったはずだ、リオンはそれを分かるだろうからきみを責めたりするだろうかとウーヴェの目をしっかりと覗き込みながら問いかけたマウリッツは、後悔に染まっていた双眸に少しだけ別の色が浮かんだ事に気付き、ウーヴェに起き上がってくれと告げて向かい合わせに座ると、後悔の涙が滲む目尻を親指の腹でぐいと拭う。
「リオンが帰ってきたらちゃんと事情を説明する。そして謝罪をする。それは出来るよね?」
さっきも言ったがきみがしたことはリオンに謝罪をしなければならないことだ、ただ、その先の未来についてはリオンと二人で話し合うことであり、今ここできみ一人が後悔に押しつぶされながら考えることじゃないとウーヴェの心が少しでも軽くなるための言葉をゆっくりと伝えながら目を細めたマウリッツは、驚きに目を見張るウーヴェに頷いて小さく笑みを浮かべる。
「ノアと関係を持ったけど、きみが本当に愛しているのはリオンだよね?」
その思いは今も変わらずきみの胸にあるのだろう、そしてそれはリオンの胸にもあるはずだ、それまで疑ってはいけないと笑って再度頷くと、見開かれた双眸がにじみ始め、堪えることも出来ずに涙が溢れ出してマウリッツの指が撫でた頬を伝い落ちていく。
二日続けてリオンや家族以外の前で涙を流すなど子どもの頃以来経験していないウーヴェが慌ててそれを止めようとするが、マウリッツがウーヴェの手をそっと掴んで首を左右に振ってその行動を押し止める。
リオンが出て行って半年近く、彼に対する思いを一人で堪えていたであろうウーヴェを思うとただ胸が苦しくて、前のめりになって再度抱きしめたマウリッツは、肩に口元を押し当てて声を押し殺すウーヴェの背中を抱きしめ、そうすることでしか堪えられない嗚咽が自然と治まるまでただ抱きしめ続けるのだった。
二日続けて子供のように泣くなどいい年をした大人の男がすることではないと気恥ずかしさに耳まで赤くなりながらすぐそばにある端正な顔に告げると、小さく欠伸をしたマウリッツが僕もいつだったかここでその経験をしたから特に恥ずかしいとは思わない、感情を思いっきり出すことも時には必要だと前髪を掻き上げて安心させるように笑い、ウーヴェの口から安堵のため息が零れ落ちる。
二人が今いるのはリビングでもウーヴェが一人で寝るのは嫌だと昨日ノアに告げた寝室のベッドでもなく、今朝久しぶりに足を踏み入れたリオンの部屋のベッドで、友人同士が入るには近すぎる距離で顔を合わせていた。
感情の露出の後は居た堪れない時間だったが、必要以上にそれを感じさせないマウリッツの気配りにもう少しだけ甘えても良いかと許可をとったウーヴェが、友人をリオンのベッドに引っ張り込んだのだ。
最初は戸惑うマウリッツだったが、赤面しつつダメかと上目遣いに見つめられ、ああ、この顔は確かにダメだ、きみの言葉を疑って悪かったリオンと息を飲み、僕もリオンに怒られてしまいそうだと呟くと、事情を唯一理解していないウーヴェが首を傾げる。
その仕草ですら危険だと呟きたいのをグッと堪え、セントラルヒーティングのおかげで部屋が暖まっているからパジャマなどいらないなと笑い合い、二人同時に今時の幼稚園児でさえも入らない時間にベッドに潜り込んだのだ。
そこで向かい合いながら交わした言葉はリオンが戻って来た時にウーヴェの背中をそっと優しく押してくれるもので、マウリッツに本当に救われたと後日感謝するのだが、その中でももう一人きみは謝らなければならないと告げられて誰のことを指しているのかに気付いたウーヴェの顔が青くなる。
「ノア……」
「うん、そう。ノアにも謝らなければならないね」
ノアがどんなつもりで君と関係を持ったのかは分からないが、きみは明らかにリオンの代用として彼と関係を持った、それは彼に対して誠実ではない事だねと優しく諭されて頷いたウーヴェは、許してくれるだろうかと不安を口にするが、彼がゲイと公言していたのならば一夜の関係にそこまで重きを置くとは思えない、ノンケだった場合はきっと昨夜の事にきみが考える以上の思いを持っているはずだ、だから許さない訳はないと思うと自信なさげに返されてウーヴェが開きかけた口を閉ざす。
「昔、リオンにオーヴェは恋愛について鈍いと言われたことがあるが……ノアは俺を好きなのか?」
「う、ん、直接会ったことがないから何とも言えないけど、弱っているとは言え同じ男と関係を持ちたいと思ったんだ、好きな相手でないと考えられない」
僕は元々ゲイだったけれど、それでも一夜限りの相手や好意のない相手とそんな関係になりたいかと言われたら絶対に嫌だと肩を竦めるマウリッツにウーヴェが目を伏せ、うんと素直に頷いた後、明日ノアに連絡を取りちゃんと向かい合って話す事を約束をすると、今日一日の疲労が一気に出てきたのか、あくびを一つして目を閉じそうになる。
「……ルッツ」
「ん?」
「うん……ダンケ、ルッツ」
お前がいてくれて本当に良かった、ありがとうと思いを伝えて目を閉じたウーヴェは、額に濡れた感触を覚えて薄く目を開けるが、僕もこのまま寝てしまうから明日の朝ごはんを楽しみにしても良いかなと片目を閉じる端正な顔を発見し、うんとこれまた素直に頷くが、ふと何かを思い出して楽しそうな笑い声をこぼす。
「誰かの為に朝食を作るのなんて……いつ以来かな」
「……一緒に作ろうか」
朝起きたときの気分で構わない、起こしてくれたら一緒に作るよと笑うマウリッツの手を口元に引き寄せたウーヴェはそこにそっとキスをした後、お休みと呟いて今度こそ目を閉じるのだった。
程なくして聞こえてきたウーヴェの穏やかな寝息にマウリッツが肺の中を空にするような息を吐いて胸を撫で下ろす。
ウーヴェの涙が止まった後に断片的な言葉で聞かされたノアと過ごした夜。その話を聞く限りではノアは間違いなくウーヴェに好意を寄せているだろう。
さっきも言ったが性的嗜好が同性ではない男が同性に対して興奮するというのは中々考えられず、興奮したというのならばそこには好意が存在しているはずだった。
ノアが一夜の出来事を軽く流してくれる人であれば良いのにと願いつつも本気でウーヴェを愛しているのならばまた別の問題が出てくると、どうか自制心を働かせてくれとも願い、あまり疲れてはいなかったが隣から聞こえてくる寝息が穏やかだった為、それに釣られてマウリッツもあくびを一つし、ウーヴェの後を追いかけるように目を閉じるのだった。
その日の夜、リオンがいなくなってから初めてウーヴェは夢も見なければ夜中に飛び起きる事なく朝まで深い眠りに就くことが出来、目を覚ました時には驚くほど身体も脳味噌もすっきりとしているのだった。
その感謝の思いをウーヴェより少しだけ遅く起きたマウリッツに言葉とハグする事で伝えた後、言葉通り二人で朝食の準備をし、マウリッツの車でクリニックに送って貰うのだった。