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夜は、まるで息を潜めるように沈黙していた。神殿の崩壊は止まり、風さえも凪いでいる。
世界が、何かを「見逃した」かのようだった。
リシアはセラフィエルの腕の中にいた。
その胸は、もうわずかにしか上下していない。
白と黒の羽根が彼女の周りに散り、
まるで天と地が混ざり合って、新しい空を描こうとしているかのようだった。
「どうして……どうしてあなたばかりが、こんなに痛むの……」
彼女の声は、夜の闇に溶ける。
その唇は血のように赤く、
けれど、その目には“光”しか映っていなかった。
セラフィエルは微かに笑う。
「痛みは、代償だ。けれど、後悔ではない。」
「代償……?」
「お前を救うと決めた時に、すでに……この結末は、決まっていた。」
リシアはその言葉を否定しようとした。
けれど、胸の奥にある“何か”が震えた。
黒い紋章が熱を帯び、
まるで、彼の心臓の鼓動を自分の中で感じているかのように。
「セラフィエル……」
彼の名を呼ぶと、金と黒の光が彼女の掌から滲み出た。
それは血ではなく、
“魂の液体”──光の残滓だった。
セラフィエルは、リシアの頬に手を伸ばす。
「リシア。……俺は、お前に喰われたい。」
その言葉に、世界が一瞬、止まった。
「……なにを、言って……?」
「お前の中の闇が、俺を呼んでいる。
ならば、抗うことは、愛を拒むことになる。」
リシアの心に、黒い風が吹いた。
その奥底から、誰かの声が囁く。
――“食べて、リシア。彼をあなたの中へ。
そうすれば、あなたはもう、二度と失わない。”
それは、女神ネレイアの声だった。
封じられていたはずの闇が、再び目覚めはじめていた。
リシアは震える指で、セラフィエルの胸元に触れる。
そこには、彼女が吸い取った“罰の光”の痕がまだ残っていた。
その光が、彼女の指先に反応して脈動を始める。
「……あなたを、壊してしまうかもしれない。」
「それでもいい。
俺の光が、お前の闇に溶けるなら。
それは“喪失”じゃない、“融合”だ。」
言葉が落ちるたびに、
リシアの中の何かが形を変えていく。
罪と祈り、愛と飢え、そして光と闇。
それらすべてが、区別を失い、一つに溶けていく。
彼の胸に額を寄せ、彼女は静かに囁いた。
「……だったら、あなたを喰らうわ。
すべて、私の中で生きて。」
そして、彼女は唇を重ねた。
世界が、反転した。
天が叫び、海が泣き、星が崩れた。
それでも、二人の間には“静けさ”しかなかった。
セラフィエルの光が、ゆっくりとリシアの中へ吸い込まれていく。
彼の輪郭が薄れ、羽根が光の粒となって舞う。
金と黒の残響が、空を満たす。
「ありがとう、リシア。」
最後にそう言って、セラフィエルの声が消えた。
リシアの体が震え、涙が頬を伝う。
それは悲しみではなく、熱の涙だった。
彼が、自分の中で“生きている”のを感じたから。
けれどその瞬間、
彼女の背中に、黒い羽根が生えた。
漆黒の中に金の光脈が走る、美しくも禍々しい翼。
天が、彼女を拒んだ。
地が、彼女を恐れた。
——リシアは、覚醒した。
それは“救い”ではなく、“再誕”だった。
彼女は夜空を見上げる。
黒い月が、再び昇る。
その中央には、セラフィエルの光の欠片が淡く瞬いていた。
「あなたの光、私が全部、抱いてみせる。」
リシアの声は、祈りではなく、誓いだった。
その瞬間、彼女の足元に、天界の光が落ちる。
神々の怒りが始まった。
彼女が、神の秩序に抗う“異端”となった瞬間だった。