テラーノベル
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昼休み前、教室の空気は、どこか落ち着かない温度を帯びていた。誰も口には出さない。けれど、視線はみな同じ方向を向いている。
蓮司が、何事もなかったようにいつもの席へ向かう。
その隣に、遥が少しだけ間を空けて立った。
「……おはよ」
声は小さかった。
蓮司の反応はなかった。教科書を開き、ページをめくる音だけが返る。
遥はほんの少し迷ってから、机に手を添えて、
わざとらしくならないよう、でも届くように声を出した。
「昨日、ありがとな」
蓮司がちらりと目を向ける。何の話だ、という顔。
「……駅、遅くまで付き合ってくれて。ああいうの、なんか……あんま慣れてないけど」
そこには“付き合っている”という文脈が含まれていた。
聞いた人間が、勝手に繋げるように。
遥の言葉は、いつも少し足りない。その隙間を、周囲が埋めていく。
教室の数人が、目を合わせた。
小さく「……マジか」という声が漏れる。
女子の一人が、机の上でシャーペンを強く握りしめた。
蓮司はページを閉じて、ため息をつく。
「……慣れてないのは俺も一緒だろ」
皮肉混じりに言って、それだけでまた前を向いた。
それを“肯定”と受け取ったのか──
遥は、少しだけ息をついて笑った。
ほんの、少しだけ。
「……な、今日、帰り……寄りたいとこ、あるんだけど」
蓮司はまた顔を上げる。
今度は、ほんの少しだけ興味を示したふりをする。
「どこ?」
「……秘密」
その瞬間、数人が鼻で笑った。
「なにそれ」「バカじゃん」
そんな声が、空気の中にひそんでいる。
けれど遥は聞こえていないふりをしていた。
いや、聞こえていた。全部。
ただ、蓮司の袖口を、何気ないように指先でつかんでいた。
それだけで、精一杯だった。
(大丈夫。ばれてない。──ばれてない)
「なあ、蓮司」
声が震えそうになるのを堪えながら、無理に笑った。
「俺さ、おまえのこと……たぶん、普通より、好きだと思う」
蓮司は、笑わなかった。
その代わりにほんの少し、頭をかしげた。
「“普通”って、どんな?」
遥は答えられなかった。
曖昧に笑ってごまかした。
誰にも見抜かれたくなかった。
けど、すでに半分以上のクラスが「見もの」を見ていた。
──でも、それでよかった。
“あいつは本気で蓮司に惚れてる”
そう思ってもらえれば、それで。
日下部の視線にだけ、遥は気づいていた。
その視線だけが、まともに顔を見られないほど刺さっていた。
(信じなくていい。──でも、俺は、演じきるから)
蓮司の手が、ゆっくりと遥の手に重なる。
「ま、今日の帰り……つきあってやるよ。な?“俺の恋人”」
教室が、またざわついた。
蓮司は平然と笑っていた。
遥は、静かにうなずいた。
その顔には、笑みが貼りついていた。
どこにも本物の感情がない、
“演技のまま生きている人間”の、あまりにも不器用な笑顔だった。
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