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合宿最終日、正午過ぎ。
体育館の空気は、数日間続いた激戦の余韻を孕みながらも、各校の撤収作業が進む慌ただしさに支配されていた。
使い古されたサポーターの匂いと、最後に流した汗の湿り気。祭りの後のような寂しさと、日常へ戻る安堵感が入り混じった、独特な静寂がフロアに漂っている。
私は、角名先輩に昨夜から今朝にかけて、一分一秒を惜しむように執拗に「教育」された身体の重さを必死に誤魔化しながら、稲荷崎の備品を台車に積み込んでいた。
指先が微かに震える。関節の一つひとつに、彼の大きな掌の感触がこびりついているようで、立っていることさえやっとだった。
「——あの、稲荷崎の四ノ宮さん」
不意に背後から投げかけられたのは、この数日間浴び続けてきた「毒」のような囁きとは正反対の、混じり気のない真っ直ぐで爽やかな声だった。
心臓が跳ね上がり、私はぎこちなく振り返る。そこには、遠征先の中堅校の主将を務める、高橋くんが立っていた。
彼は二日前の練習試合の際、激しいプレーで熱中症になりかけたところを、私が介抱した相手だった。
「あ、高橋くん。お疲れ様です。……もう、出発ですか?」
「お疲れ様。……うん、バスが出る前に、どうしてもこれだけは伝えたくて。……これ、お礼。あと……もしよかったら、俺の連絡先、受け取ってほしい」
彼が差し出してきたのは、丁寧に折り畳まれた一枚の紙。
高橋くんの瞳は、角名先輩の澱んだ三白眼とは対照的な、眩しいほどの善意と、少しの勇気に満ち溢れていた。
周囲の部員たちの動きが、一瞬だけ止まったような気がした。衆人環視の体育館。そこにあるのは、健全な、あまりにも健全で純粋な「好意」の告白だった。
(っ……! だめ、受け取ったら……殺される……っ!)
昨夜、あの暗い空き部屋で角名さんに耳元で噛み付かれながら、「他の男を視界に入れたら、もっと酷いことしてあげる」と断罪された記憶が脳裏をよぎり、全身の血の気が一気に引いていく。
断らなきゃ。すぐに、全力で拒絶しなきゃ。そう思って震える唇を開きかけた、まさにその刹那。
「……へぇ。うちのマネージャーに、随分と熱心だね。……お疲れ様」
背筋を直接、地獄の底から吹き抜ける凍土の風が突き抜けたような凄まじい戦慄。
振り返らなくてもわかる。
地を這うような、聞いたこともないほど低く、ドロりとした殺気そのものを含んだ「角名倫太郎」の声。
彼はいつの間にか私の真後ろに、音もなく、死神のように立ち塞がっていた。そして、私の細い肩に「所有権」を骨の芯まで刻印するように、ゆっくりと、けれど逃げ場を永久に断つ重みで、大きな腕を回した。
「……っ、角名、せんぱ……っ、離して……っ、みんなが……っ」
「あ、角名さん。……すみません、別に変な意味じゃなくて……。助けてもらったお礼を……」
高橋くんが、動物的な本能で致命的な危機を察知したのか、気圧されたように一歩、二歩と後ずさる。
角名さんの三白眼は、今この瞬間、目の前の人間を「今すぐこの世から排除すべき不快なゴミ」として認定したような、絶対零度の冷酷な光で射抜いていた。
朝の食堂で見せていた、あの巧妙に仕立て上げられた「偽りの余裕」の仮面は、もう欠片も残っていない。
「……変な意味? 明らかにあるでしょ。……俺の許可なく、俺の『飼い犬』に汚い手出そうなんて、いい度胸してるよね。……死にたいの?」
「か、飼い犬……!? 角名さん、それは、流石に言い過ぎじゃ……っ」
「……黙っててよ、紬。君は後で、たっぷりと『お仕置き』だから。……期待して待ってて」
角名さんは高橋くんの手から、連絡先の紙を奪い取るようにしてひったくると、衆人環視のど真ん中で、ゆっくりと、見せつけるように粉々に引き裂き、フロアにぶちまけた。
「……二度と近寄らないで。……次は、コートの上で潰すだけじゃ済まさないから。……分かったら、さっさと消えて」
角名さんの瞳には、もはや「理性」なんて一片も残っていなかった。
彼は怯えて震える私の身体を、折れんばかりの力で強引に引き寄せると、宮兄弟や北さん、他校の監督までもが驚愕の表情で見守る体育館のど真ん中で。
私の制服の襟を乱暴に押し下げ、そこにある「昨夜、自分が狂ったように刻み付けた噛み跡」を、他者への威嚇として、指先でねっとりと、執拗になぞってみせた。
「……見ての通り。こいつの身体、もう頭のてっぺんから爪先まで、俺の所有印(しるし)でいっぱいだから。……汚い手で触んないでくれる? 汚れるんだけど」
会場全体が、墓場のような沈黙に包み込まれる。
誰もが言葉を失い、角名倫太郎という男が隠し持っていた、底知れない狂気と独占欲に戦慄していた。
角名くんは私を抱きしめる腕に、骨が軋むほどの力を込め、私の耳元で、甘く残酷に、最後通牒を突きつけた。
「……ねぇ、紬。……そんなに他の男に欲しがられたいなら。……この合宿が終わったら、一生外に出られないようにしてあげるよ。……俺だけの部屋で、一生、俺のことだけ見てればいいから。……ね?」
攻略不可の境界線。
そこから溢れ出し、すべてを飲み込んでしまった彼の「本物の狂気」が、私の平穏だったはずの日常を、完全に、そして美しく破壊した瞬間だった。
l 。 l 🏐