洗濯機の音が夜にまわっていた。
時計の針はもう一時を過ぎている。
「まだ回してるの?」
「うん、明日早いし」
「……そう。」
その“そう”のあとに何を言えばよかったのか、いまだに分からない。
彼は夜型、私は朝型。
寝る時間も、食べる時間も、洗うタイミングも、全部ずれていた。
恋をしていた頃は、そのずれがむしろ面白かった。
彼の世界の時間に招かれるようで、夜のコンビニで買うおでんの味さえ少し特別に思えた。
けれど結婚して三年。
その時間差は、笑いではなく疲労になっていた。
――洗濯機の音がする夜は、もう眠れない。
そう気づいたとき、私はベランダに出て深呼吸をした。
冬の空気が冷たくて、涙が少し出た。
泣いているのか、寒いのか、自分でもよく分からなかった。
「別に暮らしてみる?」
朝、コーヒーを淹れながら言った。
「え?」
「試しに。喧嘩とかじゃなくて、“生活の実験”として。」
カップの中の泡が、ゆっくり沈んでいく。
「……本気で言ってる?」
「うん。」
「俺、そんな嫌われてた?」
「嫌いじゃない。むしろ、嫌いになりたくないから。」
沈黙。
流しの中の水が落ちる音だけが響いた。
荷造りの日、午後の光がカーテンの隙間から差しこんでいた。
洗濯機のない部屋は、不自然なほど静かだった。
小さな冷蔵庫のモーター音さえ、胸の奥に刺さる。
一人暮らしは久しぶりだった。
最初の一週間は、解放感と寂しさが交互にやってきた。
夜、スマホの画面を見ていると、彼から短いメッセージが届いた。
「おやすみ」
ただそれだけ。
それでも、その二文字が泣くほど嬉しかった。
別に暮らして二か月。
朝、コンビニのイートインでサンドイッチを食べていたとき、
店内のスピーカーから、彼が好きだったバンドの曲が流れた。
――あ、これ。
思わず口の中で呟いた。
いっしょにいた頃なら、彼が口ずさんで、私が「またそれ?」って笑ってた曲。
あの瞬間を思い出して、胸の奥がやわらかくなった。
夜、久しぶりに電話をかけた。
「最近、夜中に洗濯してる?」
「してない。コインランドリー、朝行くようにした」
「へぇ。成長したね」
「あなたがいないと眠れなかっただけかも」
沈黙。
でも、心の奥では何かがほどけていく音がした。
“いっしょに”って、ただ同じ部屋で暮らすことじゃない。
相手の呼吸を感じて、自分のリズムも乱れずにいられること。
それができなくなったとき、別々の空気を吸うのもきっと悪くない。
次に会う約束をした日の夜、
私は洗濯機をまわした。
回転する音のリズムに耳をすませながら、
彼の家で聴いたあの音を思い出していた。
“まわる”って、悪くない。
同じ場所に戻るようで、少しずつ違うところに進んでいく。
だから、きっと。
「ねぇ、“いっしょに”の形、もう一回つくりなおしてみない?」
送信ボタンを押すと、画面の明かりがふっとあたたかく揺れた。
その光の中で、私はようやく深く息を吸った。
――これが、私たちの“いっしょに”のはじまりかもしれない。
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