モディーハンナは髪飾りの魔導書を奪おうとはしなかった。ただ遠巻きに髪飾りを観察しつつ、他の僧侶と声を潜めて意見を交わすばかりだった。
ジニは持てる魔術を行使して、虎蜂に傷つけられた者たちを癒す手伝いをしている。初春の朝の柔らかな光が傷口を縫い合わせ、夕べの暖炉の温かな光が生きる力を吹き込んでいる。
「レウモラク市の皆さんを助けに来たんじゃないんですか?」魔導書を手に入れる瞬間を見られたユカリは半ば投げやりに、責めるようにモディーハンナに問いかける。「まさか救済機構が市民を神殿に追い詰めているわけじゃないですよね?」
「ええ、まあ、まさかですよ。もちろん助けようとしたんです。でも断られました。今、檻から出てもあの怪物の餌食になるだけ、だそうですよ。まあ、御覧の通り、我々も全員餌食になるところでした」
一瞬、ユカリはモディーハンナの言葉の意味が分からなかった。少しして檻というのは神殿を取り囲む無数の柱のことを言ったのだと気づく。確かに柱と柱の隙間は人が通り抜けることのできない狭さで檻のように機能している。元々檻として建造されたというのだろうか。
「もう大丈夫じゃないですか? 怪物は追い払ったんですし」
「ええ、ユカリさんがね。貴女が彼らを助けた方が良いんじゃないですか?」
観察しようというのだ。どうやって、どういう条件を経て髪飾りの魔導書を手に入れたのか詳しく知るために。
癪だが、人々に話を聞かないわけにもいかない。
魔法少女の変身を解いたユカリが檻に近づくと代表者らしき女が進み出た。腰の曲がった老女だ。捩くれた二本の杖を両手に持ち、何とか体を支えている。見ているだけで心配になる姿だが上等な白服を着たシシュミス教団の神官長だ。微笑みは柔和だが皴の数と深さに苦労が偲ばれる。クヴラフワ衝突を生き抜いた人物の一人だ。
「シシュミス教団は宝剣の檻付き神官長、試練と申します。貴女様は教団のお客人ユカリ様ですね」
老いた喉は声を震わせながらもマイサははっきりと言葉を紡ぐ。
「ええ、お世話になっています。マイサさんにも感謝を。本当に助かっています」とユカリは正直な気持ちを伝える。
もちろんお互いに思惑ありでのことだが助かっているのは事実だ。
「こちらこそ、ユカリ様は命の恩人です。我らを呪いから助けてくださって誠にありがたく、一同心より感謝申し上げます」
堅牢な柱の向こうの人々は遠巻きながらじっとユカリへ眼差しを送っている。しかし感謝というには表情が堅いようにも見える。睨みつけるというほどではないが、見慣れぬ異邦人に向けるような眼差しにはユカリの出方を伺っているような緊張感が籠っている。ユカリは向けられる視線を気にしつつもマイサに視線を戻す。
「メーグレアの、檻って仰いました? 本当に檻なんですか? この柱は」
マイサは震えながら頷く。「ええ、檻です。古来より、私の祖母の祖母が生まれるよりずっと昔から、我らの聖なる虎、メーグレアの一族はこの檻の中で生きていたそうです」
聖獣を降りの中で飼うということがユカリにはいまいち腑に落ちなかったが、今は飲み込む。
「あの、虎蜂……、蜂のような、虎のような存在が聖獣メーグレアなのですか?」
「とんでもない!」マイサの声が力強く波打つ。「奴は呪い、『爛れ爪の邪計』でございます。我らが崇め奉ってきたメーグレアを身の内から喰ってしまいました。つい先日のことです」
「先日? 四十年前、つまりクヴラフワ衝突の当時ではなく?」
「ええ、長らく呪いどもはメーグレアに恐れを成して近づけなかったのです。この四十年、我らはメーグレアに見守られて生きてきました。もちろんそれ以前に比べれば不自由な生でしたが、この街で何とか命にしがみついていたのです。救済機構の呪い除けの結界が街の外に張り巡らされ、希望が湧いてきた矢先のことです。突如呪いが攻め寄せてきて、メーグレアは喰い殺されてしまいました。そしてあろうことか、呪いはメーグレアの毛皮を纏い、逆に我らをこの檻に閉じ込めたのです」
「閉じ込めた!?」ユカリは耳を疑うが誰も訂正しない。「入り口はどこにあるんです?」
「唯一北側に。しかし重い錠に鍵が掛けられております」
「呪いが鍵を!? 『爛れ爪の邪計』には知性があるんですか?」
「詳しいことは私にも……。しかし結局のところ呪いとは人の放ったものです。操り人形が命を宿したように見えるのと同じことなのかもしれません」
そう言われるとそういうこともあるのかもしれない、とユカリは納得する。
救済機構の防呪廊が設置された矢先というのも気にかかるが、さしあたっての問題は彼らを救うことだ。おそらく檻も鍵も壊せるだろう。壊せなかったとしても天井がないので外に出すのは容易い。ただし先にゴアメグ領を解呪しなければ『爛れ爪の邪計』に襲われるだけだ。
だが救済機構の前での変身は極力避けたい。少なくとも檻の中は安全なようなので急ぐ必要もないだろう、とユカリは判断する。幸い解呪の魔導書は五つもあり、ジニ以外が一つずつ持っている。僧侶たちの目をかいくぐって誰かが解呪すればいい。
「もう一ついいですか?」ユカリは声を潜め、僧侶の誰も聞き耳を立てていないことを確認する。「この街か、近くに巨人の遺跡ってあります?」
いまや巨人の遺跡はユカリにとっても重要な目的だ。
あの謎の闇に消えた先こそが魂の次元、深奥であるという仮説がベルニージュによって立てられ、母エイカや透明蛇カーサの肉体、自身の心臓を取り戻すには自在に深奥への闇を現出させる必要がある。かつて深奥へ消え、再び現れた巨人の遺跡、あるいはその周辺は都合の良い場、魔法による混沌が形成されている、とユカリたちは踏んでいる。
できれば機構にも大王国にも知られないよう深奥への闇を開き、エイカを助け、カーサに肉体を取り戻さなくてはならない。それと心臓も。
「モディーハンナ様にも尋ねられました」マイサは関所の衛兵にでも語り掛けるように尋ねる。「ユカリ様も巨人の遺跡を探しておいでなのですか? 救済機構やライゼン大王国と同様に」
「ええ、でも誤解なさらないで下さい。決して遺跡を荒らしたいわけではなく、人助けのために巨人の遺跡、正確には巨人の遺跡という場が必要なんです」
「いいえ、何かを疑っているわけではありません。お気になさらず。ただ私どもも心当たりがないのです。確かに教団を通じて聞いてはいます。クヴラフワのあちらこちらで今まで存在しなかった巨人の遺跡が突如現れた、と。しかし、知る限りですがゴアメグ領では発見されていないはずです」
「そうですか。ありがとうございます」ユカリはマイサを安心させるように力強く話す。「とにかく皆さんを助ける方法を検討するので少し待っていてくださいね。他にも仲間がいますので合流次第話し合ってみます」
「もう魔導書は手に入れたんだろ?」と突然ジニが耳元で囁き、ユカリは小さな悲鳴を上げて跳び退く。「人助けが趣味だったのかい?」
「違います」とユカリは囁き返す。「信仰対象に魔導書が宿るのなら皆さんを失望させるのは避けるべきじゃないですか? 助けないことと同じくらい、神殿である檻を壊すことも慎重にならないと」
「へえ、ちゃんと打算してたんだね」
「自分の得については人並みに考えてますよ。他人が損しない範囲でやれることをやりますとも。それはそれとして人助けは大事です。義母さんだってそう思ってるくせに」
ジニは揶揄う時のように目を細める。見なれぬ若い義母の顔立ちであってもユカリにはよく見覚えのある表情だった。
「ところで巨人の遺跡だけど」と、しかしジニは話を変えた。「機構の、呪い除けの偶像、防呪廊のせいかもね。クヴラフワの魔法の混沌とは要するに呪いのことなんだから。あれのあるところで闇を開くのは難しそうだ」
「よくよく考えれば解呪してしまうと深奥への闇が開けないんですね」
「今頃気づいたのかい!?」
ジニは本当に驚いているらしく、ユカリは顔を仄かに赤く染める。
「だって、それは、その」言い訳はなにも思いつかなかった。「気づきませんでした」
「そうかい。目の前のことばかりにかまけないことだね。言っておくけれど、あたしたちの都合のために解呪を先送りするのは事実だよ。たとえほんの少しの時間であってもね」
ユカリは心臓のない胸をどきりとさせる。義母の方が、その実ずっと他者のことを考えていたのだ。たとえ同じ結論に至ったとしても、そこには大きな差異があるのだろう。
ユカリが後悔と反省の絶え間なく打ち寄せる波の間で揺れていると、突如、魔導書とも違う異様な気配を感じた。
次の瞬間、重苦しく立ち込める暗闇と高笑うような断続的な稲光、そして海をひっくり返したような豪雨に襲われる。瞬きの合間に世界が一変した。なぜそんなことになったのかは分からないが、この災いの正体は分かる。呪われた風、嵐に変異したグリュエーだ。
悲鳴が遠い。救済機構とレウモラク市民、沢山の人々が唐突な災厄に叫んでいるはずだが、雨の音にかき消される。そのためにジニの警告に気づくのが遅れた。
奇妙な影が踊っていた。僧侶の一人が雨の中、まるで舞踏会に招かれた案山子のように優雅に舞い踊っている。ただし絶望の表情を浮かべて。どこかへ駆け出す者は見えない何かの群れを手で払いながら逃げているらしい。怒鳴り散らす者の口は勝手に動いているようで、目だけが助けを訴えている。
ユカリの頭が追い付いていないでいると、突如木の扉が土を掻き分けて生えてくる。まるでジニとエイカから受け継いだ出入り口を移動させる魔術のようだ。扉は少しだけ開き、別のどこかから温かな光を漏らす。その僅かな隙間から出てきた七本の手はまるで木春菊の花弁のように指が花開いていた。
残留呪帯を想起する。すぐにでも解呪するべきだ、と今手に入れたばかりの髪飾りで変身しようとした。その判断は誤りだった、あるいは遅かった。ユカリの気づかないうちに既に髪飾りは強風によって吹き飛ばされていた。
そのうえ花開く手がユカリの口に突っ込まれ、魔法少女に変身するための【笑顔】が奪われる。ユカリはえずくが、禍々しい手を吐き出せず、呼吸もできず、涙で曇る眼が徐々に暗くなる。
次の瞬間、光と熱に視界が白く覆われ、魔性の手が強引に引き抜かれた。
「早く魔法少女に!」
誰の声かも分からないまま、誰かの手に背を撫でられながらユカリは何とか【笑み】を浮かべて魔法少女に変身した。膝をつき、咳き込み、不快感を吐き出す。
誰かの肩を借りて何とか立ち上がる。周囲には各々変身したベルニージュ、ソラマリア、ジニがいて血に飢えた呪いを退けてくれている。グリュエーはソラマリアの背に隠れて雨降る空を仰いでいる。肩を貸してくれたのはレモニカだ。
「わたくしが分かりますか? ユカリさま」とまるでユカリと同じ目にあったかのように涙目のレモニカが心配する。
何とか笑顔を見せてユカリは応える。「ありがとう。お陰で助かったよ」
「扉を焼いたのはベルニージュさまで、腕を引き抜いたのはソラマリアですわ」
「で、介抱してくれて肩を貸してくれたのがレモニカだね」
「恐縮ですわ」
その時、信じられない光景をユカリは目にする。
「グリュエー!」驚くユカリにレモニカもつられる。
「どうかなさいましたか!?」
「なんで変身しないの!? そんな無防備で呪われたらどうするの!?」
グリュエーは確かに腕輪を身に着けているのに、その衣服はいつもの護女の僧衣だった。
「無防備じゃないよ。グリュエーは呪い除けできるって前に言ったでしょ?」
「魔導書なら楽でしょ! ほら、早く着替えなさい」
「いいから放っといて!」
「こんな時に喧嘩なさらないでください!」とレモニカに至極最もなお叱りを受ける。
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