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きれいな顔だと思って、ずっとその寝顔を見つめている。
寝る前は不機嫌というか、茫然自失といった感じだったが、この安らかな表情といったら。
「幸せそうに寝てるよなぁ」
放っておいたらこの男、昼まで寝こけるのは分かっている。
だが、起こす気にはなれない。
薄く微笑みながらベッドの縁に手をかけて恋人を見つめる──それが幾ヶ瀬の朝イチの日課であった。
「ぅん……」
圧迫感を覚えたのだろう。
有夏の眉間が険しく寄せられた。
呼吸が早くなり、睫毛が揺れる。
これは……お目覚めだなと、幾ヶ瀬はベッドから身を引いた。
昨夜、疲労が蓄積されていたせいか、相当弾けてしまったことは覚えている。
中高、そして同棲(?)生活と、ずっと抱えていたイケナイ秘密を暴露して、なんだか今朝は心が軽い。
片思いが高じたが故のこととはいえ、人の笛や体操服を盗むというのは立派な変態による、立派な窃盗である。
申し訳ないという気持ちが心の奥にわだかまっていたのは本当だ。
「ありかーっ、おはーっ! きょうは……ぐはぁっ!」
明るい声が不意に潰れる。
有夏の掌底が幾ヶ瀬のこめかみに炸裂したのだ。
「おはーじゃねぇわ。いちいち重ぇんだよ、お前の秘密は!」
「いや、はは……」
「夕べの何だ! 目ぇ覚めた時は一瞬、夢かと思ったけど違ぇわ。お前は放課後になると、ピロピロと有夏の笛吹いてたってのか。ピロピロピロピロと人の笛を!」
「アハハっ。朝から元気だねぇ、有夏。ピロピロピロピロって流行りそう~」
「流行るかっ!」
ヒラヒラ手を振ると、ギロリと睨まれた。
「元気なわけねぇだろ。寿命が縮まったわ。2年……いや、1年半くらい?」
「何で半年刻んだの? だいじょぶ。有夏、絶対長生きするから。そういうタイプだから。大丈夫。うん」
「……どういうタイプだよ」
誤魔化すように幾ヶ瀬は笑い、キッチンへ立った。
洗濯機を回しながら、朝食の準備を始めるのだ。
有夏も、のそのそ起きて洗面所へ消える。
ここ数週間、朝の光景はこうであった。
SNS映えする春恋なんちゃらメニューを店長が考案したせいで、幾ヶ瀬の勤めるレストランはこのところ客足が途切れることのない繁盛振りという。
激務が続くにつれ幾ヶ瀬の精神状態も不安定になり、さしもの有夏も気を遣うようになったらしい。
普段なら出勤する幾ヶ瀬になんか気付きもせずにグーグー寝こけているのに、こうやって起きて朝食を共にする。
まぁ、いつまで続くか分からないのだが。
「ああ、早起きしてくれる有夏やさしいぃ。かわいいぃ」
なんて繰り返しながらおにぎりとヨーグルトと果物という、いつもの朝食メニューを食卓に並べる。
座卓を前に座り込んでいた有夏は尚も浮かぬ顔だ。
「いただきまぁす。有夏、たくさん食べてね。そうだ、今日の夜にでも朝ご飯用のスープを作ろう。いっぱい作って冷凍しとけば朝も簡単だし……有夏?」
おにぎりを持つ手が止まっている。
きれいな顔は訝し気に歪められ、その視線が幾ヶ瀬のそれと絡むことはない。
有夏?
名を呼ぶとようやく、じとっとこちらを見た。
「……なんだ」
「え、何?」
「中学ん時……お前と別に友だちでもなかった気がするんだけど」
「あらやだ、有夏サン。まだその話引きずってるんだ」
「あらやだじゃねぇわ。よく考えたらドロボウじゃねぇか。この笛ドロボウ!」
「……泥棒って認識なんだ。良かった。変態より泥棒のほうがダメージ少ないもんね。よかった、有夏がバカで本当によかった」
「えっ、何か言ったか?」
「イエ、ナニモ?」
幾ヶ瀬の顔面に笑みが張り付く。接客業なので愛想笑いは得意なのだ。
その笑顔に翻弄されたか。夕べの衝撃の告白を引きずっているはずの有夏がポカンと虚空を見つめだした。
脳味噌フル回転といった表情である。
どんな怒りも、寝たらケロッと忘れてしまう有夏としては珍しい。
だが、哀しいかな。フルで回転したとしても、彼の脳味噌は小さいのだ。
「そ、そうだ。コンビニに有夏が好きなゲームのグッズが置いてあって。ホラ、モンスターをハンティングしていくやつ」
「えっ、どんな?」
幾ヶ瀬、ほくそ笑む。
ほら、小さな脳味噌がもうゲームのことでいっぱいだ。
「ほら、有夏が今育ててるって言ってた笛の武器の……」
「……笛?」
「アッ、シマッタ!」
脳味噌が弱っていたのは自分の方だったと幾ヶ瀬、唇を噛む。
「そうだ、笛ドロボウの話だった。有夏の笛を盗んでピロピロピロピロ吹いて街を回ってたヘンタイ幾ヶ瀬の話だ」
「あ、有夏?」
ピロピロ吹いてなんかないのに。
街を練り歩いたりなんかしてないのに。
ヘンタイなんかじゃないのに。
機嫌をとるつもりもあって、今朝のおにぎりは有夏が好きな鮭むすびにしたのに。
いや、立派なヘンタイだろと遠くからツッコミが入るが気にしない。
「ま、まぁまぁ。今となってはこういう仲になったんだし。もういいでしょ」
「いくないし」
「あはは。今は有夏の笛を俺が咥えてるんだから、ねッ☆」
「……上手くもねぇし」
沈黙。
おにぎりやリンゴを咀嚼する音だけが食卓を支配し、双方気まずそうに視線を泳がせている。
口を開いたのは有夏からだった。
「それに幾ヶ瀬、体操服も盗んだって」
「ぬ、盗んでないよ! ちゃんと洗って返したでしょ。ちょっと匂い嗅いだりしたけど」
「うっわ……」
再びの沈黙。
「……お願い。黙るのやめて。ヘンタイってなじって。罵倒されたほうがずっといい」
「あっ、はい。大丈夫です」
「なんで急に敬語……!?」
絶句する幾ヶ瀬。
「い、いいもん。有夏のせいで俺、こんな変態になったんだもん。有夏に責任とってもらうし!」
開き直ったか、堂々としたものだ。
「あっ、はい。責任とりま……えっ、セキニンって?」
幾ヶ瀬のふてぶてしさに、逆に有夏が戸惑った様子。
もともと朝が弱いからか、頭がいつも以上に回らないのかもしれない。
オカネだったら、1エンもナイ──なんて、可哀想なことを告白している。