テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
かきまぜたまご
387
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ゲンとソウは、蒼穹のただ中を突き進んでいた。 眼下にはどこまでも続く緑の絨毯、上空には綿菓子のような雲が悠然と流れている。
だが、ソウにはその雄大なパノラマを味わう余裕など、微塵もなかった。
「ソウ、お前なぁ……なんだ? その飛び方は。見てるこっちが酔うわ!」
ゲンが顔をしかめて吐き捨てる。
ソウの羽ばたきは支離滅裂だった。パタパタと不格好に動かしたかと思えば、突然硬直して石のように墜落する。慌ててバサバサと産まれたての雛のように羽ばたき、急上昇する――その無様な上下運動を延々と繰り返していた。
空中でぐらぐらと木の葉のように揺れる息子。その不安定さは、見ている者の胃をキリキリとさせる。
「仕方ないだろぉ! こっちは、はじめてなんだよッ!」
必死に叫ぶが、風に声がかき消される。
羽の動きはぎこちなく、気流を掴むどころか、空気に弄ばれている状態だ。それでも彼は、折れそうな心で前へ進もうともがいていた。
「これでぇ……もア、がんばってぇェェェェェアアアアアアアアアアア゛ア゛ア゛ア゛!」
反論しようと意識を口に向けた、その刹那。
集中力の糸がプツリと切れた。
ソウの体は揚力を失い、真っ逆さまに重力へと身を投げ出した。
「ったく、本当に手のかかる野郎だッ!」
――ばさっ! ヒュンッ!
ゲンは一瞬で六枚の羽をV字に折り畳んだ。
フライバエの特性を完全に掌握した無駄のない挙動。空気を切り裂く鋭い音が響き、ゲンは弾丸と化して急降下する。
額に浮かぶ「三つの目」が、落下するソウの座標を精密にロックした。
距離、加速度、風向き、そして落下の放物線。
すべての情報が、異能の脳内で瞬時に演算される。
――ドンッ!
空気が爆ぜた。最高効率の出力で空を蹴り、ゲンは音速に近い速度で空間を跳んだ。
次の瞬間、ゲンの逞しい腕の中には、魂の抜けたような顔をしたソウが収まっていた。
「うわぁぁぁ……し、死ぬかと思った……」
「捕まえたぞ。……まったく、空中で喋る余裕があるなら羽を動かせ」
ゲンは片腕でソウをがっしりと抱えたまま、再び大きく羽を広げる。
墜落のエネルギーを滑らかな旋回へと変換し、滑空へと移行。二人の体は、見えない氷の上を滑るように優雅に空を駆けていく。
「まだ、練習が必要そうだな……」
ため息混じりのゲンの声には、呆れと、そして息子を失わずに済んだ安堵が混ざっていた。
ソウはぐったりと力なくゲンにしがみつき、激しい鼓動を落ち着かせようとしている。
「う、うん……」
肩で息をするソウ。死の恐怖を味わい、かなり堪えたようだ。
だが、やがて彼は震える顔を少しだけ上げ、父親の顔を見上げた。
「でも親父……俺、共鳴したんだぜ」
強がりではない、どこか誇らしげな笑み。
まだ血の気の引いた顔をしながらも、その瞳には「異能者」としての確かな自覚が宿っていた。
「約束、守ってくれよ。……その、首飾り」
ソウが震える指で差したのは、ゲンの胸元。
分厚い胸板の上、Tシャツの下に隠されている――ゲンが肌身離さず身につけている「それ」だ。
「ああ。……そうだな。男に二言はない」
ゲンの声が、ふっと凪いだ。その視線は、息子の向こう側にある遠い「何か」を見つめている。
だが、すぐに厳しい父親の顔に戻り、ソウを小突き返した。
「だが、俺が言ったのは『力を使いこなし、一人前になったら』だ。今の姿を母さんが見たら、腰を抜かして泣き出すぜ」
「えぇー……厳しいなぁ……」
露骨に不満を漏らすソウを見て、ゲンは短く笑った。
風がサァーっと吹き抜け、二人の間を通り抜けていく。それはまるで、過ぎ去った日々の記憶を空へと運んでいくかのようだった。
「それは、分かってるよ」
ソウの声が、少しだけ大人びたトーンに落ちる。
「だけどさ……嬉しかったんだ。やっと俺に、共鳴してくれたって思って」
自分が一族の端くれとして認められたような、確かな手応え。
ゲンはその言葉を受け止め、わずかに目を細めた。
「……ああ、分かっている。なんだかんだ、お前は俺の息子だからな」
ゲンはニヤリと不敵に笑うと、わざとらしく肩をすくめて加速の準備に入った。
「まあ、今は黙って親父の背中でも見てろ。……しがみついとけよッッ!」
「親父、今抱っこされてるから背中見えねえよ!」
「うるせぇ、情緒を解せ!」
ゲンが笑う。その声は風に溶け、青い空へと吸い込まれていく。
そして――。
――ビュンッ!!
爆発的な加速。
景色が線となって後ろへ流れ、ソウは悲鳴を上げる暇もなく父の胸に顔を埋めた。
だが、恐怖を通り越した先に広がった光景に、ソウは息を呑んだ。
深々と生い茂る、緑の大地。
波打つように揺れる、果てしない森。
大地を縦横無尽に引き裂く、大蛇のような巨大な河。
雲を貫き、鋭い牙のようにそびえ立つ連峰。
そこには、ソウが今まで知っていた「村」という小さな箱庭を塗りつぶすほどの、圧倒的な世界が広がっていた。
(……ス、スゲェ……ッ!)
胸の奥が、震える。言葉にならない感動が、フライバエの力とともに全身を駆け巡った。
(フッ、まだまだガキだな)
ソウの瞳に映る輝きを横目で見やり、ゲンは口角を上げる。
だが、その笑みは長くは続かない。
(……だが、本当によく共鳴できた。何がお前を動かしたのか……)
ゲンの視線は、再び遠い過去の残像を追う。
(なあ、リン。見てるか……?)
腕の中の温もりを感じながら、ゲンは空のどこかにいるはずの妻へ語りかけた。
(ソウが、こんなにも元気に育ってる。……お前の分までな)
ゲンの胸元で、首飾りが硬質な音を立てて揺れる。
Tシャツの隙間から覗いたそれは、この中世的な紋様の世界には、およそ存在するはずのない異物。
――「銃弾」。
先端が鈍く変形し、何かに着弾した生々しい痕跡を残した金属の塊。
それが陽の光を浴びて、禍々しく、不気味に反射した。
ソウは、未知なる世界に見惚れている。
ゲンは、呪われた過去を噛みしめている。
親子はそれぞれ異なる未来と過去を見つめながら、空を切り裂いていく。
そして。
一行は、着々と――
「巨」へと近づきつつあった。