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第一章:剥製にされた喧騒
目覚まし時計が午前八時を告げた。
かつて、この時刻は「宣戦布告」の合図だった。
窓の外からは、鼓膜を震わせるメガホンのハウリング音と、「視覚的エチケット違反だ!」という理不尽な怒号が響いていたはずだ。
しかし、今の田中を包んでいるのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
コンプライアンスおじさんは、絶滅した。
あの日、ラペリング降下でブラック企業を壊滅させたのを最後に、おじさんは光の中に消えた。
あるいは、この平行世界には最初から存在しなかったのかもしれない。
田中はベッドから這い出し、恐る恐る窓を開けた。
庭には脚立の跡もなく、植え込みに潜む親戚の叔父さんもいない。
ただ、朝の柔らかな光が、無防備な寝癖姿の田中を照らしているだけだった。
「……自由、なんだな」
田中は、独り言を呟いた。その声は、空っぽの部屋に虚しく吸い込まれていった。
第二章:砂の味の自由
一週間後、田中の部屋は「自由」という名の廃墟と化していた。
机の上には、空になったカップ麺の容器が地層のように積み重なり、床には脱ぎ捨てられた服が散乱している。
PCのモニターには、かつてなら窓ガラスを割って侵入されるレベルの「不浄な画像」が堂々と表示されていた。
「……誰も、来ない」
田中は、背脂マシマシの冷え切ったラーメンを啜りながら、マウスをクリックした。
指先は油でギトギトになり、目は充血している。心臓は不規則なリズムを刻み、胃のあたりには鈍い痛みが居座っていた。
かつて、あのメガホン越しに投げ込まれた「減塩味噌汁」の、あの忌々しいほど薄い味が、なぜか不意に思い出された。
「血圧を測れ!」
「奥さんに感謝しろ!」
「夜食のラーメンは健康管理義務違反だ!」
耳元で鳴り響いていたあの罵声は、今思えば、自分をこの現世(うつしよ)に繋ぎ止めるための「命綱」だったのではないか。
第三章:継承の儀式
田中は、ふらつく足取りでクローゼットの奥を漁った。
ガラクタの底から見つけ出したのは、前の世界から唯一持ち越してしまった遺物——、薄汚れた**「コンプライアンス」の腕章**だった。
彼はそれを、震える手で二の腕に巻いた。
安全ピンが指に刺さり、小さな血の玉が浮いたが、その痛みすらも心地よかった。
鏡の前に立つ田中は、ひどい顔をしていた。
彼は、鏡の中の自分を、おじさんのような鋭い眼光で見つめ返した。
「……それは、ダメですよ、田中くん」
掠れた声で、自分に言い聞かせる。
「深夜二時に、そんな脂っこいものを食べるのは……コンプライアンス、違反だ……」
その瞬間、田中の頬を熱いものが伝った。
自分の意志で自分を律することの、なんと孤独で、なんと重いことか。
おじさんは、この重圧を一人で背負い、メガホンに込めて叫び続けていたのだ。
第四章:静かなるレジスタンス
翌朝。田中は、おじさんから教わった「ラジオ体操」を、一人で始めた。
「腕を前から上に上げて、大きく背伸びの運動……」
音楽はない。メガホンの音割れした指示もない。
ただ、自分の関節が鳴る音と、整っていく呼吸の音だけが聞こえる。
おじさんはもう、この世界のどこにもいない。
けれど、田中が背筋を伸ばすたび、その腕章の感触が、かつての「お節介な愛」を思い出させた。
田中は、適度に煩悩を愛し、適度に背脂を楽しみながらも、夜十二時には自ら進んでPCの電源を落とすようになった。
それが、彼に遺された唯一の、そして最高の「供養」だったからだ。
風の強い夜、窓の外で「……だぞ……」という幻聴が聞こえる気がする。
田中はそれを聞き流しながら、少しだけ誇らしげに、温かいほうじ茶を啜るのだった。