「お前に――
石崎和香という人間に恋をしたんだと」
そう言われた和香は、胸が、ぎゅうっとなっていた。
あまり今まで感じたことがない、ぎゅうっとだ。
一家離散したときの、胃の底がぎゅうっとなる感じとは全然違う。
私、今、どうしたらいいんだろう?
今まで誰も、そんなことは教えてくれなかった。
自分がいた国の組織や、他の国の機関の構成や運用を学びに行っていたFBIで教えてもらったことを応用するなら。
いきなり、手をつかまれて振りほどけなくなったら――
手を捻って相手の腕をつかみ。
ひじの上を叩いて身体を反転させ、押さえ込むっ。
……いや、それ、やっちゃ駄目だろう、今。
テンパってても、さすがにそれだけはわかったので、じっとしていた。
「和香。
お前に、あの晩、なにもなかったから関係ないと言われたが。
お前を自宅に招き入れたことが気になると言って、俺は、お前との関係が切れないよう、粘った。
……たぶん。
一回目を覚まし、お前の腕をつかんだ瞬間。
俺を見下ろしたお前の表情がいつもと全然違っていて。
気になったんだ」
熱烈な告白の途中で、耀は何故か眉をひそめた。
「今思えば……、お前は、いきなり腕をつかまれたから。
昔のくせで、反射的に殺気を出しただけだったのかもしれないが……。
ともかく、俺はそんなお前をミステリアスに感じ、ときめいたんだ」
ありがとうございます。
私に護身術や体術を仕込んでくださった指導員の皆様っ、
と和香は恋のはじまりの思いがけない理由に、組織の武術系指導員の皆様に感謝する。
和香、と耀は和香を見つめた。
「あの夜をやり直したい。
二人でここで眠ったのに、なにもなかったあの夜を」
いや……、と耀は言い直した。
「あの夜をやり直したいんじゃないな。
あのときの気持ちと今はもう違うから。
今の方が百万倍お前が好きだ。
あのとき、なにもなくてよかった。
今――
お前を大好きな今、お前と一夜を共に過ごしたい。
一晩だけじゃなくて。
永遠につづく恋にしたいから」
耀がそっと口づけてくる。
手は耀に握られたままだったが。
和香は耀の腕をつかみ、ひじの上を叩いて押さえ込んだりはしなかった。
そのまま素直に耀に押さえ込まれる。
「姉も公務員なんですよね」
耀のベッドで目を覚ました和香はそう呟いた。
目覚めて見知らぬ天井を見ても、自分の横で眠っている耀の顔を見ても。
あのときと感じることはまるで違う。
「何処の公安だ?」
それとも、FBIか、と笑う耀に、
「CIAの職員ですよ」
と言うと、
「……いや、お前、姉には好きな人がいるので、普通に幸せになって欲しいって言わなかったかっ!?」
と言われるが。
「いえいえ。
ただの事務員です。
何処の組織にも事務っているんですよ。
経理もね」
我々、経理の達人なので、と和香は言った。
「経理大事ですよ。
細かな秘密を調べ、仕掛ければ、どんな大きな組織も企業も、国家だって転覆できるかもしれない」
「……お前、今、企画事業部じゃないか」
「いや~、アイディア買われて、予想外の部署で。
っていうか、私、専務と常務の個人を狙ってるだけで、会社を転覆させたいわけじゃないですからね。
みんな、いい人ですし」
でも、また、わからなくなりました、と和香は天井を見て、呟く。
「あの会社にいると、わからなくなります。
そして、課長といると、もっとわからなくなります。
……私、昔から記憶力良くて。
きゅるるるっと過去の映像も鮮明に頭の中で再生できるんです。
無実の罪で悔し涙を流した父の背中とか。
私たちに累が及ばぬよう、知り合いに預けて消えた母親の最後の笑顔とか。
辛いけど、何度も思い出して、胸にその悔しさを焼き付けました。
いつの日か、復讐を遂げるために。
そのために、知り合いのツテで、いろんな英才教育を施してくれるあの組織にも入れてもらった。
でも――
最近、その鮮明だったはずの記憶が遠いんです。
きゅるっと巻き戻せるのは、課長と入ったトンカツ屋とか。
二人で行った図書館とか。
寒い中歩いた海岸とか。
そんなことばっかりで」
和香は黙って天井を見ていた。
振り向かなくても、耀がずっと自分を見つめてくれているのを感じる。
「私、駄目な人間になったなって思うんです。
あれだけ胸に刻みつけていたものは何処に行ったんでしょう?
あのときは、明日にも復讐したいと思っていたのに。
今は――
その瞬間を先延ばしにして、ここにいたい、自分がいます」
「……いればいいだろ、ここに」
耀を振り向くと、やはり、彼は瞬きもせず、自分を見つめていた。
目を離したら、消えてしまうんじゃないかと思っているような顔で――。
「専務たちには俺が嫌がらせをしてやる」
「嫌がらせ?
どんな?」
特に誰にも嫌がらせなんかしたことないだろう耀は黙った。
「……専務のデスクのボールペンをインクが切れてるのとすり替える」
和香はちょっと笑った。
「常務の部屋に入るとき、蚊を連れて入る」
和香がまた笑うと、
「おっと、蚊を連れて入るのは、お前の専売特許だったな」
そう言い、耀は和香の頬に触れてきた。
そのまま、ゆっくり口づけてくる。
また記憶が遠くなるな、と和香は思った。
このまま、ここにいたら、憎しみの記憶が遠くなる――。
次の日はおやすみだった。
和香は、ここにいたら、ダメ人間になるなあ、と思いながら、耀が入れてくれたコーヒーを手にリビングで、ぼんやりしていた。
すると、ちょうどスマホを見ながら、窓際を歩いていた耀が、む、という顔をする。
「この近くに専務がいる」
「えっ?
なんでわかるんです?」
と和香が身を乗り出すと、耀はスマホを見つめて言う。
「専務が、ここを通っているっ。
今、可愛いお前の写真が撮れたんで。
エアドロップで、お前にお前の写真を送ろうとしたら、専務のプライベートなメールアドレスが表示されたんだっ」
……いや、私に私の写真送ってどうするんですか。
そして、専務のプライベートのメールアドレスとかもご存知なんですね。
もしや、課長は専務の腹心だとか?
敵なのだろうか、課長。
課長の寝首、今なら簡単にかけるんですが……と、かく予定はないが思ったとき、耀が悲鳴を上げた。
「専務は表示されるが、お前のスマホは表示されないぞっ。
和香っ、俺を拒んでいるのかっ」
「いや、なに昨夜、鍵が開かなかったときの私みたいなこと言ってるんです。
安全のために、誰も受け付けないようにしてるだけですよ」
と言いながら、和香はエアドロップをオンにしてみた。
ん? とその画面を見る。
「どうかしたのか? 和香」
ああいえ、なんでもないです、と言いながら、和香がスマホを閉じた。
なんだ。
何故、スマホを閉じる。
また俺を拒絶したのか?
耀は和香のスマホの表示が消えた、おのれのスマホの画面を見たあとで、窓の外を見た。
専務がウォーキング風の格好で歩いている。
職場での顔つきとはまったく違い、孫の手を引き、楽しそうだ。
そのまま上のコンビニに消えていく。
いつの間にか横に和香が立っていて、それを見ていた。
「復讐……。
そうだ。
あの専務のお孫さんを……」
と呟く。
まさかっ。
専務の孫を誘拐するとかっ?
こ、ここに匿って大量のお菓子と本を与え、楽しそうな動画でも見せとけば大丈夫かっ?
耀が共犯になる覚悟を決めたとき、和香が言った。
「お孫さん、専務にかなり懐いているようですね」
「和香……」
かつて国の組織にいたという和香は鋭い視線で、専務とその孫を観察していた。
「専務の孫をこの家に誘い込み――」
耀は、ごくりと唾を呑み込む。
「楽しく遊んでやって、私に懐かせるのはどうでしょう?
専務以上に私に孫が懐くのを見たら、専務、きーっ、悔しい~ってなるはずですよっ」
「お前の復讐は、きーっ、悔しい~っ、程度でいいのか」
「……専務には恩もあるので」
「だから、もう復讐やめろよ……」
と耀は言った。
「俺たちもウォーキングでもして、コンビニの向こうの団地にある洋菓子店でなにか買ってきてお茶にしよう」
和香が、わあい、という顔をする。
一瞬で切り替わったな。
しょうもない復讐も忘れさせる、スイーツの威力すごいな……。
そう耀は思っていたが。
和香はスイーツだけでなく。
休日に、耀とお散歩してスイーツ、という流れにときめいていたのだった。
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