テラーノベル
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蓮司が教室に入ってきたとき、すでに「空気」は変わっていた。
笑っている。けれど、目が笑っていない。
軽い口調。なのに、声の芯が、明らかに硬かった。
(──遥が見てる)
それに気づいたのは、蓮司がわざと距離を詰めてきた時だった。
窓の外、教室の戸口、張りつめた気配があった。
(そういうことか)
全部、見せつけるため。
全部、「あいつ」に見せるための芝居。
それが分かっていた。
でも。
「……へぇ、拒否しねぇんだ」
襟をつかまれたとき、反射的に腕が動きそうになった。
けれど、動かせなかった。
(拒絶したら、壊される)
この教室の空気の中では、そう感じた。
何を壊されるのか、自分でもうまく言えなかったけれど──
“拒絶”が火を注ぐ引き金になる、そう確信していた。
ボタンを外され、喉元に触れられる。
蓮司の指先には、明確な“意図”があった。
演技じゃない。挑発でもない。
──遥に見せるための、残酷な「証明」。
それがわかったからこそ、日下部は動けなかった。
(ここで、声を上げたら)
(きっと、遥が──もっと、壊れる)
蓮司の指が首をなぞる。
自分の身体を、触られている感触。
でも、それ以上に感じていたのは──教室の隅で、固まっている遥の気配だった。
(……見てる)
(どうして、こんなときに限って……)
胸の奥で、何かがきしんだ。
(来るなよ……こんな時に)
でも、もう遅かった。
蓮司の言葉が、遥に届くように放たれる。
「“こういう顔”……あいつ(遥)は、見たことねぇんだって」
ぐちゃぐちゃにされたのは、日下部じゃない。
あの瞬間──教室の影にいた遥の心だった。
日下部は、それを知っていた。
その「顔」を、自分は──知ってしまっていたから。
(遥……ごめん)
声にできなかった。
だって、それを口にしたら、すべてが「本当」になる気がした。
「やめろ」も、「違う」も。
一言発すれば、それが遥の心を追い込む刃になる。
蓮司の仕掛けた毒は、「沈黙」しか対抗できない形に、作られていた。
だから。
日下部は、ただ黙っていた。
息を殺して、肩を張って、目を伏せて。
蓮司の指が、顎に触れたときも──何も言えなかった。
自分が、耐えればいい。
自分が、ここで飲み込めば、それ以上のことは起きない。
遥は、それを「拒絶していない」と思ったかもしれない。
「受け入れてる」と誤解したかもしれない。
それが──どれだけ遥を壊すことになるかも、想像できた。
でも。
(それでも、あのとき、言えなかった)
声を出すには、優しさが足りなかった。
自分の中にある微かな臆病と、遥を守ろうとする未熟な焦りが、ただ、口を塞いでいた。
──すべてが終わったあと。
教室の空気が戻ったころ、日下部はひとり、首元に手を当てた。
蓮司の指の痕は、もう残っていない。
でも、遥の目に映った“自分”は──もう、消えないと思った。
(あいつが、どう思ったかは……たぶん、もう変えられねぇ)
だからこそ。
あのときの“沈黙”が、日下部にとってもずっと──喉の奥に引っかかり続けていた。
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