テラーノベル
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白鎧のゴブリンを討伐後、一同は当然のように進軍を再開した。
明確なゴールを定めてはいないが、ひたすらに西を目指す。
この地は東西に伸びる渓谷であり、東から訪れた以上、進行方向は西以外にありえない。
川伝いに進み、時に橋を渡り、山道を登る。
その過程で多数のゴブリンに襲われるも、軍人達は怯まない。彼らは数の上では劣勢ながらも、戦闘は一方的だ。
上位の攻撃魔法で多数を蹴散らす、第二遠征部隊隊長のダブル。
魔法を潜り抜けた強敵を切り伏せる、第一遠征部隊隊長のジーター。
そして、魔物の位置を事細かに伝える傭兵。
盤石の布陣だ。
さらには、後方に百を越える部下を待機させており、三人の強者が万が一にも倒し損ねたとしても、ゴブリンに逃げ場など存在しない。
この軍事作戦は、ゴブリンがケイロー渓谷に集結したからこそ実行された。
その掃討は、たった三日で完遂される。
初日は朝から晩まで戦い続けた。
正しくは一方的な蹂躙であり、ダブルの魔法が轟音を響かせる度、魔物の命が十単位で消えていく。
魔法の詠唱には魔源が必要だ。上位の攻撃魔法は消耗が激しいため、いかにダブルと言えども無限に撃ち続けることは叶わない。
それでもなお問題ない理由は、魔源の補充が休憩で事足りるためだ。
川辺に座り、昼食を食べながら。
山道に座り込み、景観を楽しみながら。
場所や状況はどうあれ、疲れた体を休ませれば、そのついでに魔源も癒えてくれる。
ゆえに、ダブルの活躍は必然だ。エウィンの指示通りに魔法を撃ち込めば、ゴブリンは次々と息絶える。
その結果、陽が沈む頃合いでこの地の勢力図は三分の一も塗り替わる。
しかし、初日はそこまでだ。いかに王国軍と言えども、真っ暗な山道を進むわけにはいかない。
そのはずだが、ダブルは早めの夕食をかき込むと、エウィンの首根っこを掴んで歩き出す。
いかにランプをかざそうと、夜道は何も見えない。
それでも嬉々として殲滅戦を続ける理由は、エウィンさえいればそれが可能だからだ。
二人は爆音と共にゴブリンを狩り続ける。
もっとも、これのおかげで安全は確保された。ケイロー渓谷で二つの部隊は野営をしたのだが、ゴブリンに襲われることは朝までなかった。
数時間の仮眠であっさりと叩き起こされたエウィンだが、この少年の起床が進軍再開の合図だ。
二日目、三日目共に軍事作戦は成功を収める。多少のアクシデントはあったが、王国軍側に死者が出なかった以上、胸を張れる程度には圧勝だ。
「アゲハさんにも見せてあげたかったです、ダブルさんの攻撃魔法」
山脈から零れ落ちた風が、若葉色の髪を揺らす。
長袖も緑色をしており、大きなリュックサックはパンパンだ。その姿は登山者のようだが、腰の短剣は護身用ではない。
つまりは傭兵であり、急こう配な山道においても呼吸が乱れない程度には体力に自信がある。
エウィン・ナービス。十八歳。半年前までは草原ウサギしか狩れなかった弱者だが、今はゴブリンにすら決して負けない。
そうであると裏付けるように、今回の殲滅戦でも多数の魔物を屠ってみせた。
尽きない話題に対し、同行者も楽しくて仕方ない。
「山火事みたいな跡って、魔法だったんだ」
長い黒髪は摩訶不思議だ。毛先だけが青いのだが、染色ではなく転生時からそのようになっていた。
丈が短いワンピースはリネンチュニックと呼ばれる防具であり、味気ない灰色ながらも豊満な胸がアクセントになっていることから、野暮ったさは感じられない。
一方で、黒いズボンはただの庶民着だ。歩く度に脚部の内側がチラチラ露出しており、動きやすさを重視した結果なのだが、これを選んだのはエウィンゆえ下心もまた垣間見える。
坂口あげは。二十四歳の日本人。自宅の火事に巻き込まれ、その若さでこの世界に転生を果たした。
そして、エウィンと出会うのだが、今はこうしてケイロー渓谷を右へ左へ曲がりながら進んでいる。
小さな背負い鞄には彼女の荷物が収納されており、持ちきれない分や調理器具はエウィンの担当だ。身体能力の差は如何ともしがたく、自然とそのような分担に落ち着いた。
「上位の攻撃魔法って本当にやばいんですよ。炎の柱が辺り一面を焼き払ったり、氷の針が地面からいっぱい飛び出したり、大きな岩が空から降ってきたり、ってこれはアゲハさんもご存じでしたね」
「うん、グラットン、だよね。エウィンさんも、すごく活躍したって、聞いたよ」
「なんだかんだ三、四十くらいは倒しましたかもしれません。ただまぁ、ダブルさんやジーターさんと比べちゃうと、微々たる量です。いやまぁ、競うようなことじゃないんですけど……」
エウィンの言う通りだ。
この傭兵の役割は魔物の位置を把握、二人の隊長に伝えること。討伐は二の次と言っても過言ではない。
それでも何十ものゴブリンを屠ったことは称賛に値する。本人は謙遜するも、実力があっての貢献だ。
「兵隊さんも、みんな、褒めてたよ。エウィンさんの、おかげで、予定よりも早く、仕事が終わったって」
お世辞ではない。
全方位を障害物に関係なく索敵出来る能力は、今回のような大規模戦闘において大いに役立つ。
ましてやここは、死角だらけの谷だ。
ゴブリンは高い位置に陣取るだけで侵入者を一方的に監視出来るのだが、エウィンは低地にいながら同様のことが可能だ。
この傭兵はまさしく切り札であり、その働きによって殲滅戦は予定よりも早く完了した。
「僕としては、三日もかかるとは思ってなかったです。なんだかんか二日目の朝には、くらいの軽い気持ちでいました。いやまぁ、何の根拠もなかったんですけど。アゲハさんには長々と留守番をさせてしまって、申し訳ないです」
「ううん、気にしないで。川でお洗濯したり、調理道具とか、磨いてたから。あ、地理学の本も、読み返したよ。エウィンさんほどじゃ、ないけど、シイダン耕地とか、こことかの特徴は、覚えられたかな」
第一遠征部隊と第二遠征部隊が掃討したゴブリンの総数は、千五百体を上回った。この規模は紛れもなく戦争のそれなのだが、期間がたったの三日間ゆえ、エウィンとしても実感が湧かない。
決して平坦ではない地面を踏みしめながら、二人は険しい山道を登り、そして下る。
「さすがアゲハさん。あ、ここの道案内は任せてください。地図なしでもスイスイ進めますよ。そう言いながら、さっき道間違えましたけど」
「ほんと、すごいよね。一度、通った道なら、暗記出来ちゃうなんて……。空間認識能力が、すごく、発達してる、証拠」
「いやー、それほどでもー」
アゲハへ笑顔を向けるエウィンだが、実は単語の意味まではわかっていない。
(空間……粘着、能力? こういうところで、学の有り無しを痛感させられるな。そうは言ってもアゲハさんは異世界の人だから、それ以前なのかもだけど……)
六歳で両親と死別したこの少年は、独学ながらも教養はある方だ。
それでも、本物には敵わない。アゲハは大学に通っていた日本人ゆえ、退学しようとその知識は平均以上だ。
樹木が乏しい山の中を歩きながら、彼女はもう一つの山脈を眺めつつ目を細める。
「魔物が、本当にいないね。まるで、地球みたい」
故郷を思い出す程度には、ゴブリンが見当たらない。
実際には河川付近にカニの魔物が闊歩するも、その数は非常に少なく、平和なことに変わりない。
もっとも、周囲の風景は戦場の跡地だ。
山道はえぐれており、傾斜はあちこちが黒く煤けている。
黒い鎧をまとった死体はその大半が放置されたままだ。二つの部隊が後始末に従事している最中なのだが、一日二日で片付く量ではない。
「地球と言えば、今朝食べたあれ、美味しかったです。何でしたっけ?」
「タルタルソース?」
「それそれ。無限にキャベツが食べられました」
エウィン達が昨晩帰還したことを受け、アゲハは今朝の調理に参加した。
その際に彼女はマヨネーズや持ち込まれた食材を用いてタルタルソースを披露するも、この世界には存在しない料理ゆえ、エウィンだけでなく多数の軍人達を感動させた。
「昨日、卵やお野菜が、補充されたから。手も、空いてたしね」
「コクとかがすごかったです。もっと食べたいなぁ」
「うん、次は、ウサギのから揚げに、かけて、チキン南蛮風とかも、いいかもね」
「か、から揚げに⁉ それは、大発明では……」
アゲハの提案が、エウィンを大きくよろめかせる。
今朝のタルタルソースは、キャベツの千切りにかけた。それだけでも別格だったのだから、から揚げの進化具合は想像すら困難だ。
このやり取りを受けて、アゲハはこの世界の違和感について新説を唱える。
「あ、地球の料理が、多い理由って、わたし以外にも、生まれ変わった人が、いたのかも……」
「ほほう?」
「お寿司とか、うどんとか、完全に日本料理だし、カレーとか、カルボナーラも、味付けが完全に、再現されてるから……」
彼女の予想が正しいか否かは定かではないが、それ以外に考えられないことも事実だ。
誰かがこの世界に、地球の料理を持ち込んだとしか考えられない。
アゲハが朝食作りに参加したことで、タルタルソースが知られてしまったように。
それ自体は悪いことではないのだが、転生者特有の介入であり、これが繰り返されたことでイダンリネア王国の食文化が形成されたと予想出来る。
「あー、なるほど。ありえる話ですね。探せば今も、地球の人がどこかにいるのかな? 顔見たら、アゲハさんなら判別出来るもんなんですか?」
「う、ううん、どうだろう? その、なんと言うか、エウィンさんも含めて、みんな、日本人と大差ない顔立ちだから……」
明確な差異は髪の色か。
日本人は黒がベースだが、ウルフィエナの人間はバラエティに富んでいる。
エウィンは若葉のような緑色をしており、茶色や黄色だけでなく、赤や青も決して珍しくない。
大きなリュックサックを軽そうに担ぎながら、傭兵は思ったことを口にする。
「ふーん。あ、そうなると、僕が地球に行っても違和感なく溶け込めるのかな? なんちゃって」
単なる思い付きであり、実際には地球へ渡るつもりなど毛頭ない。
なぜなら、そこには魔物がいない。誰かを庇って死ねないのだから、自分の発言ながらもこの案は却下だ。
そうであろうと、アゲハが勘違いするには十分過ぎる失言と言えよう。
(え……、一緒に、来てくれる? だったら、やっぱり帰った方が……。お母さん……)
この世界に転生を果たした直後、アゲハは日本への帰還を願う。
極度の人見知りゆえ、見知らぬ世界に順応出来るとは思えなかった。
また、引きこもって以降も仕送りを続けてくれた母親に対し、感謝の気持ちを伝えたかった。
もしくは、謝罪か。
どちらにせよ、地球に戻らなければ果たされない願望だ。
しかし、彼女の第一優先は時間経過によって変化を遂げる。
エウィンだ。
この恩人と出会い、同じ時間を共有することで、アゲハは共に居続けたいと思うようになった。
恋心であり、依存だ。
自身の気持ちを伝えられていない理由は、勇気がないからこそだが、エウィンがこの世界に残ることを察していることも要因の一つと言える。
地球への帰還とエウィン。
どちらかを選ぶのなら、アゲハはエウィンを選ぶつもりだ。
しかし、先ほどの発言が真実ならば、その考え方は揺らいでしまう。
彼女だけが悶々と黙る中、少年の方は新たな話題を思いつく。
「そうだ、ダブルさんとジーターさんの腹筋見ました? 本当にすごくて、そりゃもうバッキバキでしたよ」
「あ、ううん、そんな感じは、してたけど……」
食文化の成り立ちと比べると低俗な議題ながらも、エウィンは気にせず話を進める。
「傭兵の中にもムキムキな人はいますけど、あの人達はさすが隊長って感じでしたね。いやはや、男の僕ですら魅入っちゃいました。あ、ちなみに僕の腹筋も、触ったらほんのりとわかる程度には分かれてしますよ」
「え、そ、そうなんだ……」
(痛いぐらい視線を感じるな。ここまで食いつくとは思ってもみなかった)
話しの本筋は隊長二人の腹筋なのだが、アゲハはエウィンの腹部を凝視し続ける。緑色のカーディガンしか見えないはずだが、彼女の大きな瞳は爛々と開いたまま動かない。
ゆえに、この提案は必然だった。
「腹筋に興味あるなら、触ってみ……」
「触る!」
「声でかっ!」
らしくない大声量に怯んだその時だ。
アゲハの細腕が躊躇なく動くと、エウィンの腹部へ伸びる。
そして、遠慮なくまさぐり始めるも、二人の反応は対照的だ。
「あ、ほんのりと、硬い。ガタガタもしてる。あへぇ」
(久しぶりに見たな、アゲハさんの変な顔。美人さんなのに、この瞬間だけは残念というかなんというか……)
自分で招いた状況ながらも、エウィンは立ち止まったまま空を見上げる。
アゲハは今なお腹をさすっており、涎を垂らす程度には喜んでいることから、邪魔するわけにはいかない。
そう悟った矢先に、ある真実に気づかされてしまう。
(あー、野良猫撫でてる僕も、こんな感じなのかも? だとしたら、うん、今後は改めねば……)
自身の気持ち悪さに気づけた瞬間だ。
眼下では反面教師が嬉々として右腕を動かしており、腹部が摩擦熱のせいで発火しそうだが、被害は長袖が燃えるだけで済むだろう。
休憩も兼ねて、二人はその場に留まり続ける。ここはまだ中間地点ですらないのだが、そこまで急ぐ必要もない。
昼食を望むほどの空腹は感じておらず、ゆえに時間はまだまだ残されている。
死体だらけのケイロー渓谷。この地を越えることが、今日の目標だ。
◆
「これが、プリムさん達が言ってた大穴です」
川辺で簡素な昼食を済ませた後、エウィンとアゲハは改めて西を目指した。
そして現在に至るのだが、二人の足元にはありえないほどに大きな穴が、その口を開いている。
「本当に、底が見えない。さすがに、ちょっと怖いね」
「ビックリですよね。それだけ深いってことなのかな? と言うか、穴と呼ぶにはデカ過ぎる」
直系は十メートルを上回るほどだ。一軒家がそのまま飲まれてしまいそうだが、それを試す術はない。
エウィン達にとっては通過点でしかないのだが、つい先日、三人の傭兵がこの穴を目指してケイロー渓谷に足を踏み入れた。
プリム。
チコ。
そして、ヨグルン。
女性三人の傭兵チームが大穴調査のために訪れるも、想定を上回るゴブリン達に襲われた結果、命を落としかける。
「道路の陥没とか、そういう次元じゃ、ない。隕石の落下とも、違う。真下に、掘り続けたみたいな……」
アゲハの知識にも、見当たらない大穴だ。
「場所が場所ですし、状況的にゴブリンの仕業なんでしょうけど、じゃあ、何のために? って感じで何もかもがさっぱりです」
「魔物の体力で、掘り進めれば、あるいは……。だけど……」
「僕の予想では、この穴はゴブリンの通り道です。ここを通って大集結、みたいな」
大胆な仮説だ。
短期間で千以上のゴブリンがこの地に集ったことから、軍人や傭兵の目を盗んで大移動を行うとなると、エウィンの予想にも一理あるように思える。
しかし、それでもなお不明な点はそのままだ。
なぜ、この地に集ったのか?
それがわからない以上、王国軍は調査を継続せねばならない。
「なるほど。ここに、基地を築いてから、シイダン村、ルルーブ港に攻め込んで、最終的にはイダンリネア王国を……」
「そんな感じなんでしょうねー。それがまさか、たった三日で滅ぼされるとは。敵ながら、同情しちゃいますね。いや、親の仇なんでしませんけど」
笑えない冗談だ。
ゆえにアゲハも押し黙るしかないのだが、視線は真っ暗な地下世界を凝視し続ける。
もしも足を滑らせ、落下した場合、果たして何秒間浮いていられるのか?
もはや想像すらも困難だ。
そのはずだが、アゲハは元大学生としての知識を披露する。
「石ころとかを、落として、一番下にぶつかった時の、時間が音とかで、わかれば、だいたいの深さが、計れるけど……」
「え、何それすごい。あ、もしかして、物理学ってやつですか?」
「うん、速度かける時間……は、今回省けて、だから、二分の一かける、加速度かける、時間の自乗で、求められるよ」
もはや呪文だ。エウィンは大穴を見下ろしながら、精一杯の言葉を絞り出す。
「ふむふむ、た、例えば?」
「石ころを落として、一秒でコツンて聞こえた場合、底の深さは、えっと、重力加速度をざっくり十として、半分だから五、時間は一秒だから、一のまま。だから、深さは五メートル、かな?」
「て、天才だー! それとも日本の人達はみんなこうなんですか⁉」
手品のような芸当に、エウィンは仰け反りながら恐れおののく。
浮浪者と言えども、この少年も簡単な暗算は可能だ。
六十イールの素おにぎりを三個買う場合、百八十イールを支払わなければならない。
この程度の計算なら一瞬で行えるも、アゲハはより高度なことをやってのけたため、エウィンとしても素直に驚くしかない。
「理系の人なら、あるいは……。わたしは、文系なんだけど、高校レベルまでなら、何とかって感じ……」
「どっひぇー、すごい。一秒で五メートルなら、二秒なら十メートル?」
「ううん、二秒かかったら、二十メートルくらい」
「なるほど、わからん……。じゃあ、十秒かかったら?」
「空気抵抗を、考慮しないから、五百メートルだよ」
アゲハの計算は概ね正しい。
重力加速度が地球と同等かは検証の余地があるのだが、仮に近似値を取ると過程した場合、大まかな深さを言い当てている。
「て、天才過ぎる。アゲハさん、王国の学校で先生をやれるんじゃ?」
エウィンの率直な感想だ。
科学技術が進んだ地球の知識を持ち合わせているのだから、そう思うこと自体は間違いではないのだろう。
しかし、この案は彼女自身が否定する。
「ううん、こっちの世界も、物理学は進んでるから、わたしなんて、全然だよ。さすがに、相対論とか、量子論は、まだみたいだけど……。わたしも、そこまでは、わからないし……」
その代わりに発展している分野が、魔道具の研究だ。
魔法の力で動く技術であり、ランプや洗濯機等、様々な日用品が開発、製造されている。
「はぁ、上には上がいるんですね。僕は紛れもなく底辺なんで、違いすらもわかりませんけど」
自虐的な言い回しだ。
しかし、自身の立ち位置を正確に言い当てており、エウィンの悪い癖が表に出た瞬間でもある。
この少年は自分を蔑んでおり、他者からそのように扱われてきたがゆえの結果なのだが、自虐的な思考は母親を見捨てた段階で芽生えてしまった。
己を攻めなければ自我が保てない。
つまりはそういうことであり、この性格の是正はきっかけがない限りは困難だろう。
もっとも、この瞬間の感心ごとは別にある。
「んじゃ、そこら辺の石でも投げ入れてみますか」
穴の深さを測りたい。
そうすることに何の意味もないのだが、アゲハが導き出してくれる以上、試さないという選択肢もありえない。
周囲には魔物の姿は見当たらず、ゆえにこの辺りは安全地帯だ。大穴から魔物が飛び出さない限り、警戒すらも不要だろう。
有言実行と言わんばかりに適切な石を探すエウィンだが、このタイミングで新たな疑問が頭をよぎる。
「大きい石だと早く落ちるから、小さい方が良いとかってありますか?」
「ううん、大きさや重さは、落ちる速度に、関係ないよ」
「え……、何それこわい……」
怖くはないが、常識が根底から覆された瞬間だ。
物の落下速度は、経過時間と空気抵抗のみに起因する。
つまりは、サイズや重量に左右されない。
それを踏まえて、アゲハはアドバイスを送る。
「あ、そこの丸い石が、いいかも」
「了解です」
エウィンが拾った石ころは、草餅程度の大きさだ。形も似通っており、これが灰色でなければ美味しそうに見えただろう。
大きなリュックサックは既に降ろしており、身軽さを取り戻した体で大穴を目指す。
もっとも、たったの数歩で到着だ。あと一歩で自身が落ちる程度には近寄ったタイミングで、アゲハに確認することから始める。
「こいつを、ビュンって投げ入れればいいんですか?」
「ううん、そっと落とす、感じで」
初速を与えることは厳禁だ。落下時間の算出にその速度を加味していれば問題ないのだが、それが出来ない以上、落下の開始は静止状態が相応しい。
なるほど、と頷きながら、エウィンは目一杯右腕を伸ばす。
「もっと乗り出さないと途中でぶつかりそうですね」
「気を付けて……」
「大丈夫大丈夫、多分。う、これはさすがにちょっと怖い……」
エウィンでさえ怯むほどには、眼下の穴は底なしだ。陽射しが途切れるほどには深く、この高さから落ちた場合、決して無事では済まない。
もっとも、足が震えることはなく、エウィンは限界まで右腕を伸ばしながら身を乗り出す。
「では、落としますよー。せーの」
合図と共にに手のひらが開かれると、丸石がゆるりと降下する。
ここからは無言の時間だ。
一、二、三。
心の中で数えるも、二人の顔は徐々に青ざめる。
(音が……しない?)
(五秒を越えた? だとしたら、百メートル以上……)
六、七、八。
この秒数は数え間違いではない。既に十秒以上が過ぎ去るも、石と底の衝突音は届かないままだ。
予想外の実験結果に、エウィンが仮説を唱える。
「そんなに、深いってことですか?」
十秒経過の時点で、深さは五百メートルに達する。
魔物であろうと、掘り進めるには困難過ぎる労働量のはずだ。
アゲハは別の角度から、異なる説を提言する。
「あるいは、柔らかい何かにぶつあって、音が響かなかった、とか……」
どちらが正解かまでは、わからない。
両方の可能性もあるのだが、エウィンは思い出したように神経を研ぎ澄ませる。穴の中を探るためであり、このタイミングでとある事実に気づかされる。
「いや、まさか、そんな……、けっこう深い位置に、消え去りそうな気配が、魔物の気配が感じられます」
まるで死にかけているような、あるいは眠っているように、穴の奥底に何かが潜んでいる。
そう判明した以上、エウィンの情報開示は止まらない。
「こいつ、かなりの大きさかも? 気配の輪郭がぼやけてるから、何とも言えませんけど……」
「そういうことって、あるの?」
「いえ、ここまで掴みにくいケースは初めてで、だけど……、だからこそ、言えることが一つだけあります」
言い終えると同時に息を飲むエウィンだが、アゲハとしても不安でいっぱいだ。
二人は後ずさるように大穴を眺めながら、一刻の沈黙に身を委ねる。
渓谷に朝陽が降り注ぐ中、少年の決断はオーソドックスなものだった。
「僕達の手には負えない、そんな気がします。だから、ダブルさんかジーターさんに報告しましょう」
「そう、だね。一旦、戻る?」
「はい。たいした距離、進んでませんしね」
ゴブリンの生き残りを警戒していたため。
体力を温存するため。
二人は緩やかなペースで進み続けた。
ゆえにケイロー渓谷全体で見た場合、進行具合は三分の一と言ったところか。
王国軍は死体を片付けるためにじわじわと進軍しており、合流は容易い。このタイミングで戻るという判断は、悪手ではないはずだ。
アゲハを連れて来た道を逆走する最中、エウィンの脳裏に新たな仮説が浮かび上がる。
(大量のゴブリンと穴の中の魔物……、何か関係が?)
現時点で、答えを知る術はない。
ゆえに、調査が必要だ。
その大役を背負えるほど、傭兵は権力と財力を持ち合わせていない。
イダンリネア王国が主体となって動くべきであり、そうであると認識したからこそ、エウィンは別れを告げた彼らとの再会を願う。
王国軍。四つのカテゴリーに分類される、巨大な軍事組織。
この地には遠征討伐軍が派遣されており、第一遠征部隊と第二遠征部隊が該当する。
(とりあえず報告だけは済ませて、時間的に余裕はあるから、改めて出発か? あ、だけど、穴の調査を手伝わされるかもしれないから、ダブルさん達の出方次第か)
予定が狂った瞬間だ。
しかし、ナイーブに捉える必要などない。
ここはケイロー渓谷。東にはシイダン耕地が広がっており、エウィン達はこちらから訪れた。
反対の西側には、山をえぐるような洞窟が存在している。
その先こそが、二人の目的地だ。
この旅は、アゲハの些細な願望から始まった。
ミファレト荒野の亀裂が見てみたい。
それはクレパスのような大地の裂け目でしかないのだが、興味を持ってしまったのなら、見に行けば良い。
そして、ここはケイロー渓谷。目的地は目と鼻の先だ。
ゴブリンの集結と巨大な穴。これらが何を意味するのか、想像すらも不可能だ。
もっとも、焦る必要などない。
近い将来、エウィンは知ることとなる。
両者の関係性を。
穴から這い出る、未曾有の脅威を。
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