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険しい山道とも、ここでお別れだ。
彼らの背後には、山と山に挟まれた窪地のような景観が広がっている。赤色の空が薄暗さを演出しようと、振り返れば自然と自身の対比に圧倒されるはずだ。
エウィンに引き続き、アゲハもついに立ち止まる。ここがケイロー渓谷の終端ゆえ、呼吸の乱れを落ち着かせたい。
二人の眼前に存在する、山をくりぬいたような横穴。蛇の大穴と呼ばれる洞窟であり、ここを通り抜けることで新たな土地にたどり着ける。
「やっとですね。それにしても……」
愚痴ではないのだが、エウィンの発言に活力は感じられない。
大きなリュックサックを背負う姿はまさしく傭兵のそれだ。疲労気味のアゲハとは対照的に汗一つかいておらず、もしもこのタイミングで魔物に襲われようと、冷静に対処するのだろう。
それでも顔色が優れない理由は、夕陽以外にもう一つある。
「まーた穴ですね。しかも、こっちはこっちで馬鹿でかい……」
今回の大穴は、真下ではなく横向きだ。
ケイロー渓谷とミファレト荒野を繋ぐ唯一の経路ということから、極稀にだが傭兵がここを通過する。
先の見えない洞窟を前にして、アゲハも驚きを隠せない。
「これが、蛇の大穴。すごく、大きい」
「本によると、時期は不明ながらも人の手によって掘られたとか何とか……」
にわかには信じ難い。
丸い入口の直系は十メートルにも達しており、つまりは三階建ての建物が内側に建設可能だ。工夫次第では四階の増築にすら挑戦出来るかもしれない。
アゲハの姿勢は、普段寝泊りしている宿屋を見上げる時と同様だ。
この横穴がそれほどの大口だということだが、彼女は率直な感想を述べる。
「昨日の大穴と、同じくらい?」
「言われてみたら確かに……。不思議ですね」
「うん、本当に……」
アゲハの脳裏に浮かぶ、ケイロー渓谷の穴。落とし穴と呼ぶにはあまりに大きなそれを、二人は軍人と共に調査したばかりだ。
それが昨日の出来事であり、ここへの到着が一日遅れた理由でもある。
測定したわけではないのだが、眼前の洞窟とその穴は直径がほぼ等しい。少なくともアゲハの目にはそう映っており、エウィンからも同意が得られる。
「これに関しては、誰がいつどうやってって部分が謎らしいです」
「かなり大規模な、工事だったはず……」
山を貫通するほどの巨大トンネル。これを作るために、どれほどの人員と年月が費やされたのか、アゲハですら頭を抱える。
いかにこの世界の人間が超常的な筋力を誇ろうと、十年二十年では到底不可能だ。
百年単位の工事が決行されたはずなのだが、過去を紐解いても一切の手がかりが見つからない。
その秘密を探るためにも。
この先の土地を目指すためにも。
エウィンは日が暮れるよりも早く一歩を踏み出す。
「とりあえず入ってみましょう。いざ、探検」
ケイロー渓谷に別れを告げる瞬間だ。
ゴブリンの掃討作戦に費やした時間は三日間。
この地の中心付近に確認された、大穴の調査が一日。
併せて四日もここに滞在したのだから、想定外の足止めと言えよう。
それでも焦る必要がない理由は、目的地は目と鼻の先だからだ。
「マジックランプがないと何も見えませんね。アゲハさん、足元大丈夫ですか?」
「うん、多分……」
エウィンの言う通り、ここを通過するためには光源が必要だ。
日本のトンネルならば、内部に無数の照明が配置されており、多少薄暗いが手ぶらで通り抜けられてしまう。
しかし、ウルフィエナでは電気が発明されておらず、魔法の力が代替品となっている。遠方の洞窟に照明を設置するという目論見は、現代の技術力では残念ながら困難だ。
だからこそ、この少年は携帯用のランプを灯す。見た目こそただのランタンだが、これもれっきとした魔道具であり、二人の行先を照らしてくれる。
「ふむ、自然発生した洞窟とは思えませんね」
エウィンがそう思う理由は、トンネル内の構造に由来する。
「床も、壁も、ガタガタしてないね」
「ツルツルと言うと語弊がありますが、部分的に崩れてるところはあっても、基本的にはどこもかしこも整ってて……、うん、誰かががんばって掘り進めたとしか思えない」
まるで、巨大なストローの中を歩いているようだ。
そう錯覚するほどには、洞窟内部をスムーズに歩ける。
「そういえば、ここって結界があって入れないんじゃ? いやまぁ、僕達は等級二だから通り抜けられるんですけど。結界なんてありました?」
このタイミングで、エウィンは思い出す。
蛇の大穴。ケイロー渓谷とミファレト荒野を繋ぐここは、その出入口が封鎖されている。物理的な扉があるわけではなく、結界という魔法の力によって侵入を阻む。
「うん、あったよ。入ってすぐのところ。ゲームやアニメの、バリアみたいな。あ、モヤモヤしてる壁みたいのが……」
「へー、前見ないで歩いてたから気づかなかったです。すんなり通れちゃうんですね」
もちろん、誰でも通り抜けられるわけではない。
ミファレト荒野およびその付近は魔物が手ごわいことで有名だ。
それゆえに、イダンリネア王国はこの洞窟の通行手形として、等級二以上という条件を設けた。
淡い光が二人と周囲を照らす中、話題は次から次へ移ろう。
「新・地理学六版に書かれてた通りですね。どこまで行っても、ビックリするくらい真っすぐ……」
まさしく、二つの土地を繋ぐためだけの洞窟と言ったところか。枝分かれされても困るのだが、この構造もまた、ここが人工物であることを物語る。
エウィンの発言を受け、アゲハも感想を述べずにはいられない。
「どこまで進めたか、わからないね」
「手応えがないですもんねー。迷わないで済むから楽ちんではありますけど。ただまぁ、油断は禁物」
「砂コウモリ、だよね?」
「そうですそうです。アゲハさん、何でも知ってますね。僕よりも物知りになったんじゃ……」
「そ、そんなこと、ないよ」
暗闇の中でアゲハが戸惑うも、仕入れた知識は本物だ。
地頭が良いということもあるが、教科書や本でこの世界について学んでおり、転生を果たして半年ながらも今では一人前の傭兵だ。
もっとも、エウィンとしても補足せざるを得ない。
「一説には、ここで命を落とす傭兵は少なくないらしいです」
「え……」
「それくらい、砂コウモリが手ごわいってことなんでしょうね。まぁ、こんなに暗いと戦いようもありませんし」
実際問題、そうなのだろう。
魔法のランタンが洞窟内を照らすも、その範囲は所有者を中心とした数メートルほどだ。天井にすら届かない光量ゆえ、小さな魔物が息を潜めた場合、傭兵は後手に回らざるえない。
もっとも、この二人ならば問題ないと、アゲハが思い出す。
「だけど、エウィンさんなら……」
「はい。どんなに暗くても、それこそ魔物が透明でも見つけてみせます。あ、だったら砂コウモリはどうやってこっちを見つけるんだ?」
この少年は魔法とも戦技とも異なる神秘を会得している。
視認せずとも魔物の位置がわかるレーダーがそれであり、これのおかげでゴブリンの掃討は三日に短縮された。
エウィンは歩きながら首を傾げるも、その疑問についてはアゲハが解答をもたらす。
「音波だよ。自分で音を出して、跳ね返った音をキャッチして、暗闇の中でも、獲物の接近に、気づくの。あ、エウィンさんと、似てるね」
「へー、もしかして僕の体から変な音出してるのかな? 砂コウモリって、鳥の癖にそんな高等なことしてるんですね」
正しくは魔物であり、その中で鳥類に分類されている。
しかし、アゲハは日本人として指摘したい。
「コウモリは、鳥じゃなくて、哺乳類、だよ」
「ほにゅ……、え、猫とかトラとかと同類ってことですか? だけど、鳥類だって何かで読んだ気が……」
彼女の発言が正解だ。
羽毛で覆われ、翼を生やし、卵を産む。そういった特徴を持ち合わせた生き物が鳥類であり、一方でコウモリはこれに該当しない。
くちばしを持たないばかりか、その顔はネズミに似通っている。翼を持っているため紛らわしいが、卵を生まないことからも哺乳類への分類が適切だ。
しかし、エウィンは立ち止まると、大きなリュックサックを漁らずにはいられない。
そして一冊の図鑑を取り出すのだが、表紙にはタイトルが書かれている。
「魔物図鑑~。傭兵の必需品、ということで遅ればせながら先週買った本です。どれどれ……」
マジックランプを地べたに置き、少年は中腰のままページをめくる。
図鑑ということもあり、魔物の説明は文章だけでなく、リアルなタッチで魔物の姿が描かれている。読み応えもあることから、エウィンとしてもお気に入りの一冊だ。
パラパラと羊皮紙をめくり続けるも、目当てのページにたどり着いたことから、その手がピタリと静止する。
「あ、ほらほら、やっぱり鳥類って書かれてます」
「ほんとだ。見た目は、完全に、同じなのに……」
「僕の勝ちー。って、地球にも砂コウモリがいるんですか?」
わざとらしく喜ぶエウィンだが、アゲハの発言を聞き逃さない。
ゆえに問いかけるも、誤解を生じさせた以上、補足の説明が必要だ。
「あ、ううん、魔物じゃないけど、ただのコウモリなら、いたよ」
「え、それって魔物扱いしてないだけで、やっぱり地球にも魔物がいるってことなんじゃ……」
それはそれで面白い説なのだが、今のアゲハなら平然と否定出来てしまう。
「あっちのコウモリは、子供を産んで、育ててたし、人を襲うことも、ほとんどないから。魔源の有無までは、わからないけどね」
「魔源? それと魔物に何の関係が?」
「魔物はね、みんな例外なく、膨大な魔源を、内包してて。草原ウサギも、魔法は使わないけど、魔源をいっぱい、蓄えてるの」
魔源は魔法を使うための燃料であり、戦技を駆使する傭兵であろうと、生まれながらに微妙の魔源を宿している。
例外はアゲハくらいか。この女性は日本からの転生者ゆえ、魔源とは無縁だ。
突然始まった講義に、エウィンはただただ唸ってしまう。
「ほえー、知りませんでした」
「そ、その本に、書いてあったよ……」
「え⁉ 見たいページしか読んでないのがバレた!」
墓穴を掘った瞬間だ。
もっとも、この図鑑は分厚いため、興味を持った魔物からアプローチしても構わない。
少しずつ、ゆっくりと読み込めば知識は着実に増えるため、この本を手に取った時点でエウィンは一歩を踏み出せている。
魔物図鑑を鞄にしまい、再び歩き出した二人だが、談笑は当然のように継続だ。
「コウモリだけじゃなくてね。猫ちゃんも、鳥も、魚も、何なら魔物のヒツジとか、カマキリも、瓜二つなんだよ。あ、カマキリについては、あんまり似てないかも、だけど……」
「へ~、不思議ですね。あ、魔物はいなくても動物はいたんですよね?」
「うん」
「そいつらは、人間を襲わないんですか?」
「襲うよ。日本だと、熊とか猿とか……」
真っ暗な前方と隣の少年を交互に眺めながら、アゲハは懐かしむように語る。
魔物と動物。姿かたちこそ似通ってはいるが、根底から異なる両者。
縄張りに入り込めばどちらも襲ってくるのだが、魔物は狩っても狩っても時間経過で雑草のように自然発生する。この時点で生物としての有り様を完全に無視しており、動物と比較することがおこがましい。
「あぁ、オオカミとかは動物ですけど普通に襲ってきますし、凶暴か否かで分類しても意味ないのか」
「魔源の有無が、判別方法らしいよ」
「なーるほどねー。あ、だったら、アゲハさんが地球に戻る際は、魔源を調べる魔道具をプレゼントしますよ。地球で役立ててください」
単なる思い付きであり、エウィンとしても悪気はない。
しかし、決別を意味する物言いゆえ、アゲハとしても頷くことは困難だ。
その結果、洞窟の中には二人の足音だけが響いてしまうも、妙な気まずさは新たな話題を思いついたことで払拭される。
「猫を……、猫を触りたい。嫌がられるくらい撫でまわしたい……」
ある種の禁断症状みたいなものか。
エウィンは大の猫好きなのだが、イダンリネア王国を出発して以降、猫との接触が完全に絶たれてしまった。
ゆえにこのタイミングで欲してしまったのだが、アゲハもまた、思い出す。
「そういえば、こっちの世界の、猫ちゃんって、子猫を一匹しか、生まないって、本当?」
「そうですよ。たまーに二匹生むこともあるみたいですけど、だいたいは一匹です。ん? 地球の猫は違うんですか?」
「うん、一度に何匹も。だから、お母さんのお乳を、たくさんの赤ちゃん猫が、取り合うんだけど……」
「何それ、可愛すぎる……。あ、だから、メス猫はおっぱいがいっぱいあるのか」
正しくはオスの猫にも乳房はあるのだが、目立たないため、エウィンのように勘違いする者は少なくない。
このやり取りを受けて、アゲハとしても違和感を覚えてしまう。
「不思議……、見た目は、完全に、日本猫なのに……。進化の過程で、差異が生じたのかな? 母体への負担は、小さそうだけど……」
多産の方が、生物としては生き残れるはずだ。
しかし、人間に保護された結果、生存戦力として必要以上に増えないようになったのか?
残念ながら、アゲハであろうとそこまではわからない。
「あっちの世界にいた頃は、猫飼ってたんでしたっけ?」
「ううん、わたしも、お母さんも、猫は好きだったけど、飼うとなると、色々大変だから……」
経済的には問題ない。
しかし、片親ということもあり、家にいる時間も限られたことから、アゲハの母親はペットを飼おうとはしなかった。
親子揃って大の猫好きでありながら、両者は猫の動画を見ることで欲求を満たす。
つまりは似た者親子であり、それで事足りるのなら賢い選択なのだろう。
「あー、そうかもしれませんね。僕も結局は野良猫を撫でまわすだけですし」
エウィンの場合はそれ以前だ。
廃墟に住み着く浮浪者であり、半年前まではその日暮らしの貧困者だった。
当然ながらペットを飼えるだけの経済的余裕はなく、もっともそれは今も変わらない。
「野良ちゃんも、十分かわいいしね。ダニがいないっぽくて、みんなのびのびと生きてるし」
「ダニって何ですか? 猫の天敵とか?」
「あ、うん、そんな感じ。米粒よりも小さな虫で、猫に寄生して、血を吸うの」
正しくは昆虫ではないのだが、いかにアゲハと言えども勘違いしてしまう程度には些末な問題だ。
もっとも、この説明がエウィンを苛立たせる。
「ね、猫の血を吸うですとー? それは許せぬ! いや、そんなんいないのか……。怒って損した」
「うん、今のところ、こっちの世界には、いなさそう。日本にはいたから、野良猫は大変そうだったよ。きっと、いっぱい死んじゃったと、思う……」
「それはかわいそうに。アゲハさんのそういった話を聞いてると、この世界って猫にとっては楽園みたいな場所ですね。神様がそういう風に工夫してくれたのかな?」
ありえない予想だ。
しかし、どこかロマンティックなため、アゲハの口元が綻ぶ。
「ふふ、そうかも」
「と言うか、アゲハさんの世界にも野良っていっぱいいたんですね」
「うん、猫だらけの島とか、あったよ」
「何それ行きたい!」
残念ながら、どれほど願ったところで叶わぬ願望だ。
オーディエンの討伐がその条件ゆえ、現状では決して叶わない。
つまりは、状況としては行き詰っている。
その後も二人は楽しそうに暗闇の中を進むのだが、歓談と進行は一時中断だ。
「お母さんもアゲハさん並のおっぱいを⁉ ち、ちなみに、お母さんは何歳な……、アゲハさん、ストップです」
下心しかない質問は、運良く遮られた。
正しくはエウィン自身が中断したのだが、理性を取り戻せたがゆえの功績ではない。
「え? 言わない方が、いいの? 悔しいから、教えたく、ないけど……」
「そういうことじゃなくて。いえ、教えてくれるのならウェルカムなんですけど、やっぱりそういうことじゃなくて、前方に魔物の反応ありです」
真面目ぶったところで取り繕えていないのだが、命に関わることゆえ、エウィンとしても真面目にならざるを得ない。
この報告を受けて、アゲハも真似るように正面の暗闇を観察する。
「砂コウモリ、かな?」
「多分そうです。天井に小さいのが張り付いてます」
翼を畳んだコウモリは小柄だ。
洞窟の天井にぶら下がっている点も、その習性はコウモリのそれと言える。
このまま進めば、気づかれてしまう。
そして、襲われてしまう。
アゲハとしても、指示を仰ぐしかない。
「わたしは、どうしたら……」
「まだまだ遠いので、もう少し進みましょう。あー、コウモリってどのくらい近づいたらこっちに気づくのかな?」
「足音が、響くから、もしかしたら、もう……」
アゲハの予想は正しい。
もっとも、エウィンの言う通り、身構えるには早すぎる。
それほどに両者は離れており、今は距離を詰めることが最優先だ。
「あっちの位置がわかるとは言っても、こうも暗いとさすがに……。念のため、アイアンダガーを使います」
そもそもこの傭兵は、砂コウモリと戦ったことがない。素手で戦うという選択は悪手になりかねないため、腰の短剣に左手を添える。
その後も黙々と進む二人だが、エウィンが再度立ち止まった理由は怯えたからではない。
「だいぶ近づけたので、アゲハさんはここで待機を」
「うん、気を付けて」
指示と同時にリュックサックを下ろせば、準備は完了。
エウィンはマジックランプをかざしながら一歩を踏み出すも、石像のように立ち止まってしまう。
「あ、マジックランプはアゲハさんがどうぞ。あるとかえって邪魔かもなんで」
「でも、灯りがないと、前に進めないんじゃ……」
「魔物の気配が道しるべになるので大丈夫です、多分……」
アゲハの言う通り、光源無しでは目の前すら真っ暗だ。
側面の壁にぶつかったとしても何ら不思議ではないのだが、エウィンに関しては問題ない。
巨大な鞄とマジックランプを手放したことで、今度こそ準備は整った。光から離れるように、少年は歩き出す。
一人分の足音だけが響く中、アゲハに出来ることは息を押し殺しながら見守ることだけだ。実際には何も見えないのだが、心の中では応援に余念がない。
そして、その時が訪れる。
「うわ! こいつ!」
遠方から木霊する、悲鳴のような叫び声。
戦闘開始の合図なのか。
すでに決着がついたのか。
知る術はないため、アゲハは祈るように待ち続ける。
もっとも、答え合わせは必要ない。
カツカツと近づいて来る音は、勝者の足音に他ならないからだ。
「な、なんとか倒せました。思ってたよりもずっとすばしっこくて、と言うか、暗闇の中で戦っちゃダメですね」
事実、そうなのだろう。
エウィンは幾度となく、砂コウモリの攻撃に晒された。
顔への体当たりに留まらず、腕や背中を何度も引っかかれてしまう。
もっとも、本人はどういうわけか無傷だ。
しかし、その見た目は敗者に他ならない。緑色の頭髪は寝起きのように乱れ、長袖のカーディガンもハサミで切られたようにボロボロだ。
「け、怪我は?」
「いえ、大丈夫です。攻撃が全然当たらなくて……。気配だけがわかっても、目隠し状態だと上手く戦えないって学べました。格下の魔物じゃなかったらどうなってたことやら。ただ、確かにこいつは雑魚じゃなかったです。下手したらゴブリン以上かも……」
具体的な強さを数値化することは難しい。
しかし、素早さや力強さを身をもって経験したため、曖昧ながらも比較が可能だ。
「そんな魔物が、闇に潜んでる……」
「まぁ、ケイロー渓谷を越えてここに来れてるってことは、ゴブリンを狩れるくらいには強いってことですし、問題ないとは思いますけどね」
驚くアゲハとは対照的に、エウィンは楽観的だ。勝者の余裕なのだろうが、カーディガンを一着失った以上、手放しでは喜べない。
手早く着替え、二人は再出発するのだが、死体との遭遇は必然だ。
「こいつです。羽を広げた時の横幅は、僕達より少し大きいくらいですね」
「見た目は、日本のコウモリと、瓜二つ。色も、姿も……」
ゆえに、アゲハと言えども今更驚かない。
「日本はこんな物騒なのが飛び交ってるんですか? って人は襲わないのか」
「夕方くらいになると、住宅街とか、繁華街で、たまに見かけるかな。鳥と見間違えてるかも、だけど……」
コウモリは身近な存在だ。
しかし、活動時間が昼間ではないため、意識しないと見つけられない。
もっともそれらは、魔物ではなく哺乳類だ。きっかけがあれば人間を襲うこともあるかもしれないが、砂コウモリのような凶暴性は持ち合わせてはいない。
「焼いたら食べられるのかな?」
「さすがに、止めた方が、いいかも」
「残念。こいつの顔、確かに鳥っぽくないですね。鼻みたいなのもありますし」
腰を屈め、砂コウモリの亡骸を観察する二人。コウモリをまじまじと眺める機会は初めてのことゆえ、どうしても盛り上がってしまう。
「耳も、大きいね」
「ウサギを百倍ブサイクにした感じですね。胴体をぐさーっと斬ったらパタッと力尽きたので、そういう意味では脆いのかも?」
いかに魔物と言えども、多数の内臓を損壊させられたら息絶えてしまう。砂コウモリの場合、小柄なことから短剣での斬撃でさえ致命傷だ。
「砂コウモリの死体って、珍しそうだけど、売れないのかな?」
「あー、羽なら買い取ってもらえそうですけど、たいした値段はつかないかもです。なんせ、掲示板にそういった依頼が張り出されるのを見たことないですし」
「そっか、確かにそうだね」
使い道のない死体など、ただの生ごみだ。
草原ウサギに需要がある理由はその肉が美味だからであり、魔物の牙や爪が売買される理由は様々な用途に用いられるためだ。
コウモリの羽に関してはどうなのか?
不明ながらも、傭兵らしい見解で推測する。
つまりは、依頼を見かけたことがない以上、アゲハの提案は却下せざるを得ない。
「ちなみに、ミファレト荒野の魔物は食べられるみたいですよ。名前は確か、ミファリザド」
目当ては別になるのだが、エウィンはゆっくりと立ち上がり、その名を口にする。
もっとも、そこはもう間もなくだ。気持ちも自然と逸ってしまう。
大きな胸を揺らしながら、アゲハも真似るように立ち上がる。
「道具はあるし、調理しようか?」
「丸焼きにするにはデカすぎですし、食べられる部位を焼いてみましょう」
ミファリザドの容姿はトカゲそのものだ。
しかし、そのサイズは横たわった人間と大差なく、食べる際の解体は必須だろう。
コウモリ観察を終えたことから、二人はランプ片手に肩を並べて歩き出す。
しかし、アゲハとしても心配せずにはいられない。
「今日中には、つけないよね?」
この洞窟は非常に長い。その長さは三十キロメートルとも言われており、徒歩なら多少急いだとしても丸一日はかかるだろう。
二人は日が暮れる頃合いに、洞窟の入り口にたどり着いた。
そこからの出発ゆえ、睡眠時間を削らない限りは今日中に越えることは叶わない。
しかし、エウィンの思考はシンプルだ。
「僕としては、こんなところで一晩過ごしたくないので、急ぎたいなぁと思ってます。だから、真っ暗で危ないですけど走ってみませんか?」
その提案は危険だ。
マジックランプの光量では、数メートル先までしか灯せない。この道が直線でない場合、何度も壁にぶつかってしまう。
それでも、アゲハとしては頷きたい。
「うん、わたし達なら、一時間も、かからないもんね」
本気を出せば、それこそ一瞬だ。
もちろん、この環境が全力疾走を阻むため、普段よりも速度を落とさなければならない。
そうであろうと、移動時間の大幅な圧縮が可能だ。
壁と魔物に注意を払いながら、二人はゆっくりと駆ける。
「まぁ、ここを通り抜けてもあっちはあっちで暗いんでしょうけどねー」
エウィンは静かに笑う。
事実、その通りだ。
イダンリネア王国は夜であろうと街灯に照らされている。
しかし、領土の外へ出れば、その先は月明りだけの暗闇だ。
それでも急ぐメリットは多く、少なくとも息苦しさからは開放されるはずだ。
「マジックランプ、手放せないね」
「あー、帰国したらもう一個買っておきましょっか。予備にもなるし、二人で同時に使えるし」
「うん」
所持金に余裕があるからこその提案だ。
もっとも、一般家庭の貯蓄と比べてしまうと貧困に他ならない。
それでも窮屈せずに済んでいるのだから、気持ちは幾分晴れやかだ。
走りながらも器用に会話を弾ませる二人だが、次の話題はこの地に相応しい。
「ここって蛇の大穴って呼ばれてますけど、どういう意味なんですかね?」
「言われてみたら、不思議……。普通なら、ケイロー洞窟とか、ミファレト洞窟って、命名されそうだけど……」
隣接する地名から拝借する。アゲハはそう予想するも、事実、河川の多くがそのように名付けられている。
洞窟には異なるルールがあるのか?
大きな蛇がいたのか?
教科書にすら記載されていないのだから、現代を生きる彼らには知る術などない。
「日本にも、これくらいの洞窟ってあるんですか?」
「どう、かな……。外国には、あるかも、だけど……」
「アゲハさんの世界にも、洞窟をせっせと掘る人がいるんですねー」
「多分だけど、甌穴群みたいに、水が流れ込んで、出来上がったり、あとは、地殻変動とかも、関わってそう」
人力で掘られたものでないのなら、洞窟が出来上がるメカニズムはアゲハの説明通りだ。
だからこそ、エウィンとしてはこう言う他ない。
「ここって地面も壁も、多分、天井の方も、多少崩れてますけど綺麗なんですよね。自然由来っぽくないって感じちゃうのは素人の浅知恵?」
「ううん、エウィンさんは、鋭いと思う。まるで、掘削機が掘り進んだような、そういうことが可能な何かが、ここを通過したような、そんな感じが、する」
もっとも、そのような生物は確認されていない。いるとしたら魔物だろうが、少なくともイダンリネア王国が建国されて以降は未発見だ。
「そんなでっかい蛇がいたら、そいつのお肉食べ放題ですね。誰が倒すんだって話しですけど。蛇と言えば、本物を見たことないんですよね。アゲハさんはどうですか?」
「わたしは、何度か、あるよ」
「え、日本にもいるんですか?」
「うん、珍しいけどね」
野良猫と比べれば、野生の蛇は圧倒的に少ない。山の中を探せば出会えるのだろうが、市街地での遭遇はレアケースだ。
「へー、美味しいんですか?」
「た、食べたことは、ないかな……。もし、ミファレト荒野で、見かけたら、食べてみる?」
「アゲハさんが、料理してくれるのなら……」
子供らしい返答だ。
もっとも、エウィンは十八歳ゆえ、厳密には成人に分類される。
二人の談笑は盛り上がる一方だ。全力疾走でないことから、いかに暗かろうと口を動かすことに支障はない。
しかし、楽しい時間は一旦区切られる。
砂コウモリを撃退しながら進むこと数十分、ひとまずはそこが今日の目的地だ。
「あ、うっすらと明るくなった。アゲハさん、出口っぽいですよ」
真っ暗な巨大洞窟に、柔らかな月明りが差し込んでいる。
そこはある者にとっては入口ながらも、二人にとっては出口であり旅の終着点だ。
「よかった。一息、つけるね」
アゲハの言う通り、体が休息を求めている。
エウィンもそれをわかっているからこそ、先行しながらも減速する。
「ついに到着、ミファレト荒野。その前に僕としては、結界とやらを再確認したい……」
「ふふ、入口の、チェックし損ねちゃったもんね」
洞窟への侵入を拒む、魔法の障壁。
しかし、今の二人ならば問題ない。等級が一から二へ上がったことから、意識せずとも通り抜けられる。
ゆえに入口では見落としてしまうも、今回は見落とさない。エウィンはその先の風景を無視するように、眼前の結界を嬉しそうに注視する。
「これが……。すごい、すけすけだ。ほんのりと赤色で、だけど厚みはほとんどない。こういう素材で作られた服って、ないんですかね?」
「え、なんでこっち見てるの……」
他意はないのだが、煩悩まみれだ。
いやらしい視線を感じながらも、アゲハは少年の横を素通りする。そのまま結界を通過すれば、その先はまさしく別世界だ。
星々と三日月に照らされた、どこまでも殺風景な荒野。樹木はおろか草花さえも見当たらない理由は、夜のせいではない。
人間は当然ながら、動物すらも寄り付かない枯れた大地。ここはそういう場所であり、この地にはクレバスのような裂け目があちこちに点在する。
ミファレト荒野。
そして、ミファレト亀裂。
旅の目的地であり、二人はこれらを観光するために王国を旅立った。
到着だ。既に夜も更けているため、明日の朝、改めて探索に励む。
もっとも、ここが始まりだ。
傭兵という生き方を選んだ時点で。
ウルフィエナに転生を果たした時点で。
平凡な日常は手放した。
しかし、ここからの道のりは一層厳しくなる。
壇上に引っ張り上げられ、主役用の台本を手渡されてしまった。もはや降りることは叶わず、死以外のやり方では逃れることなど許されない。
二人はついに出会ってしまう。
この地で。
この荒野の片隅で。
贖罪に生きる、赤髪の魔女と。
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