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𝕔𝕠𝕔𝕠
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はる☻
67
〜佐野side〜
入社三年目。
まだまだ職場の泥臭い人間関係のなかで、上司の顔色を窺いながら立ち回る日々。
そんな俺が、会社の定期的な飲み会で、たまたま連れて行かれたのがあの居酒屋だった。
金曜日の夜ということもあって、店内は異様な熱気に包まれていた。
生ビールのジョッキが激しくぶつかる音、すでに出来上がったサラリーマンたちの濁った笑い声。
天井の低い木造の空間には、焼き鳥の香ばしい煙と安価なアルコールの匂いが充満している。
俺の目の前でも、部長や課長といった上司たちが、何度も同じ自慢話を大声で繰り返していた。
「おい、佐野!グラス空いてるぞ。次、何にする?」
「あ、すみません!すぐに注文します!」
灰皿を替え、空いたグラスをまとめ、次の注文を頭の中で整理する。
そんな下っ端特有のせわしない立ち回りのなか、その騒音の隙間で、俺は見つけてしまった。
完全に、一目惚れだった。
薄暗い居酒屋のなかで、そこだけがまるで違う世界のように見えた。
線が細くて、陽だまりのような柔らかい表情で笑う綺麗な人。
店指定の黒いエプロンが、彼の細い腰のラインを際立たせている。
彼は息を呑むほどに美しい容姿をしているのに、どこか自分に自信がなさそうで、伏せられた長い睫毛がほんの少しだけ震えていた。
でも、その壊れてしまいそうな儚さが、彼の持つ圧倒的な魅力をいっそう引き立たせているように思えた。
そもそも、俺はこれまでの人生で男の人を好きになったことなんて、ただの一度もなかった。
特別に自分がそちらの気があるなんて自覚もなかったし、普通のどこにあるような恋愛をそれなりに経験してきたつもりだ。
それなのに、胸の奥底に灯ったこの熱い感情を、自分でも驚くほどすんなりと受け入れている。
戸惑いよりも先に、理屈抜きの衝撃が身体を突き抜けた。
それほどまでに、彼は眩しかった。
どうしようもなく、俺の視線を、思考を、そして心を、一瞬で奪い去っていったのだ。
「す、すみません。注文いいですか」
俺は上司たちの雑多なリクエスト、生ビール三つに、レモンサワー、それから焼き鳥の盛り合わせをタレで、とまとめて、彼に声をかけた。
彼は「はい、お伺いします」と小さなメモ帳を広げ、確認のために言葉を紡いでくれる。
けれど、周囲の馬鹿騒ぎにかき消されて、彼の声がうまく聞き取れない。
騒がしい空間に慣れていないのか、彼は大きな声を出すのが苦手なのだろう。
少しだけ困ったように細い眉を下げ、うつむき加減になった。
そう思った、次の瞬間だった。
ふわり、と甘く、それでいて凛とした匂いが鼻腔をかすめる。
彼は俺の耳元にそっと顔を寄せ、周囲の喧騒を遮るように、小さな声で注文内容を復唱した。
「……生ビールが三つ、レモンサワーが一つ。焼き鳥はタレで一皿、お間違いないでしょうか?」
ただの、事務的な注文確認。
そんなことは頭では分かっている。
でも、耳の奥に直接届く、澄んだ水のように透き通った声。
洗い立てのシャツみたいな、柔らかくて清潔な柔軟剤の香り。
そして、すぐ隣に並んだ彼の白い肌と、網膜に焼き付いて離れない、至近距離での天使のような微笑み。
俺の心臓は、たった一瞬で、不揃いなビートを刻み始めていた。
ドクドクと暴れる胸の音を、彼に聞かれてしまうんじゃないかと本気で焦るくらいに。
だが残念ながら、この強烈な洗礼は、俺だけに向けられた特権ではなかったらしい。
あんな距離で、あんな無防備な顔で微笑まれたら、どんな客だって都合のいい勘違いをしてしまうだろう。
現に、薄暗い店内のそこかしこに、彼という強い引力に抗えずにいる視線が散らばっていた。
カウンターに座る女性客の二人組も、奥の小上がりの席にいる常連らしき中年男性の集団も、みんなが彼の一挙手一投足に視線を奪われている。
特に、その常連らしき男性の一人は、下心が隠そうともせず、あからさまに彼を狙っているようだった。
相当彼にぞっこんなのだろう。
自分の近くに少しでも引き留めておきたいのか、用もないのに何度も「お兄さん、ちょっと」と呼び止め、手酌をさせようとしたり、他愛のない世間話で引き止めたりしている。
真面目な彼は、嫌な顔一つせず、困ったような顔を営業スマイルで隠しながら健健に対応していた。
その健気で必死な態度が、かえって相手の独占欲やサディスティックな欲望を煽っていることなんて、きっと純粋な本人は気づいていない。
「おい、佐野! 聞いてんのか? 俺が学生時代にさぁ……」
そんな俺の独りよがりな人間観察も、上司のくだらない自慢話の再放送によって強制終了させられた。
もっと彼を目で追っていたかったけれど、下っ端社員の夜は忙しい。
グラスを下げ、おしぼりを配りながら、俺はただ遠くから彼が男たちに捕まっているのをハラハラしながら見つめることしかできなかった。
あの金曜日から、俺は何度もあの居酒屋へ一人で足を運ぶようになった。
週に一度、あるいは二度。仕事が早く終わった日には、導かれるようにあの暖簾をくぐる。
けれど、彼を困らせるあの品のない大人たちの真似だけは、絶対にしたくなかった。
スマートで、迷惑をかけない、良い客でいたかった。
だから俺は今日も、ただの「その他大勢の客」として、カウンターのいちばん端から、彼が忙しなく働く姿を静かに見守っている。
注文するときも最小限、彼の手を煩わせないように追加のドリンクを頼むだけだ。
今、俺が彼について知っている唯一の手がかりは、彼が「じゅうたろー」と呼ばれていることだけ。
店指定の黒いTシャツの胸元に、少し斜めに傾いたネームプレート。
そこに、丸っこいひらがなでそう書かれていた。
本名なのか、それとも夜の街特有のただの源氏名なのかすらも、今の俺には分からない。
だけど、その響きだけが、冴えない日常を送る俺にとっての、何よりも特別な光だった。
いつかあの声で、俺の名前も呼んでもらえたら…。
そんな叶いそうもない贅沢な願いを冷たいハイボールで飲み込みながら、俺は今夜も、彼という眩しい存在に目を細めていた。
To Be Continued…
コメント
1件
コメント、失礼します!新作、楽しみにしてました。しかも、私の好きな🩷🤍様ですか⁉︎ すごくすごーく嬉しいです!前回の❤️🤍様も良きでしたが…、本作品も名作になる予感がします。第一話から🤍様の美しさや良さがよく伝わり、臨場感ある描き方でした。さすがです!これからの展開にウズウズです!他のメンバー様も出るのでしょうか…? 次回も、もちろん楽しみにしています!無理せず、執筆していただきたく思います。