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昇降口のドアを開けた瞬間、
思ったより、空が近かった。
──いや、違う。
この空は低い。地面すれすれを這ってるみたいな、重たい色だ。
何も変わらない景色のはずなのに、
自分だけが少し浮いているような感覚がある。
(……俺だけ、時間が止まってたみたいだ)
下駄箱で靴を履き替えながら、自然と視線を上げる。
階段の先。
教室のあるフロアが、遠い。
身体は歩いていくのに、
心がまだ、ついてこない。
この数日──
あの部屋の中では、
「自分の痛み」のことしか考えられなかった。
でも、教室の空気はきっと、
そんなことを待ってはくれない。
(遥……)
思い浮かぶのは、
最後に見たときの──無理に目を逸らした、あの顔だ。
何かが、もう始まっている気がした。
誰も何も言わないうちに、
もう“全部が壊れてしまった”ような空気が、
靴音の先に、じっとりと張りついている。
──廊下に出る。
何人かの生徒が、こちらを見る。
だがすぐに目を逸らす。
「……おう、日下部」
声をかけてきたのは、名前も覚えていない男子だった。
その笑いは薄く、軽く、どこか“試す”ような色が混じっている。
何があったのかは聞かれない。
だが、何かを知っている顔だった。
(嫌な予感がする)
教室のドアの前で、一度だけ立ち止まる。
──中は静かだった。
話し声も、笑いもある。
だが、そのどれもが、
「何かを覆い隠す」ために発されている気がした。
蓮司の声がしない。
それがいちばん、気味が悪かった。
(あいつが黙ってるときは、たいてい──もう何か“済んだ”あとだ)
手をかけて、ドアを引く。
──空気が、変わった。
たった一歩踏み込んだだけなのに、
足元の重力が増したような錯覚。
目を引くのは、
教室の隅、窓際の席。
遥の机──
表面に、妙な傷が見えた。
文字かもしれない。
いや、そうじゃなくても、何か「意図された痕跡」だ。
そして──遥本人の姿が、すぐには見えない。
椅子はある。
鞄もある。
なのに、遥がいない。
(どこだ?)
誰も、こっちを見ない。
視線が、意識的に外されている。
「……日下部、来てたんだ」
蓮司の声がした。
飄々とした、あの声。
だが、何かが違った。
「遅かったな」
目が合う。
笑っていない。
蓮司が笑っていないのは──
何かを“終えた”証拠だ。
(……遥に、何があった)
その答えは誰も言わない。
だが、空気がすべてを語っていた。
──気づく。
黒板の近くに、まだ誰かがいる。
──遥だ。
前を向いたまま。
背筋を伸ばして、まるで「立たされている」みたいに、そこにいた。
椅子に座っていない。
机にも寄っていない。
ただ、その場に、置かれている。
(何が──)
何が、ここで起きたんだ。
日下部は、唇を強く結んだ。
胸の奥が、ざらざらと焼けるような音を立てて、
冷たく、痛んでいた。
──まだ、何も聞いていない。
だが、すでに「間に合わなかった」のかもしれない。
それでも。
ここに立つ。
それが、今日ここに来た意味だった。