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青と緑と他にも様々な色を引き連れてシグニカの低地を彩る今春も高地にはまだ訪れていない。とりわけシグニカの中心にして最高峰、至天郷の高台地には未だ冬の眷属が我が物顔で居座って昼の温もりをおびやかしている。
烏の鳴かぬ日はあれど雲の晴れる日のない、この土地こそ、かつて人々が神々を信仰し、神々が人々を駒として遊戯に興じていた古の時代において、神秘に接する者どもの棲み処であり、雲が晴れずとも神秘の濃霧が晴れた今では、シグニカ統一国の首都にして救済機構の総本山ジンテラ寺院群を擁する聖地だ。
無数の寺院にはそれぞれに未だ来たらぬ救いの乙女への恭順を示す篝火台があり、昼も夜も絶えることなく明々と信心の炎を灯し、ふしだらな異教を寄せ付けぬようジンテラの聖都を遍く照らしている。シグニカの中心に聳えるこの台地自体が篝火台のように全土に明かりを投げ掛け、間近に迫る救済の時代の到来に備えるよう呼び掛けているのだった。
雲の中の街ジンテラに点在する寺院は遥かな土地で切り出された白の大理石を基調として浄化の時代を表し、そこに施された彫刻と朱の彩色によって汚穢の時代の焼尽を示している。
一方信徒の暮らす街はかつて低地に数えきれないほど存在した矮小な神々の大それた神殿を解体して運び込んだ石材で造り上げられ、今となっては見る影もなく擦り切れている。神々の影を追ってジンテラにやって来た朗らかな精霊たちはその仕打ちに涙し、堕してジンテラの街の陰に身を忍ばせていた。
そのジンテラの都の端、昇降馬車の駅のほど近くに、特に留学生の多くが住まう区画がある。その集合住宅の一つの住戸の狭い居室でシャリューレは玄関の扉を叩く音を聞く。
「押し売りはごめんだよ」とシャリューレは抑揚のない芝居をする。
「花を届けに参りました」と言った声はジェスランだった。
結局、シャリューレの元師匠でありながら暗殺しにやってきたこの男に拠点の一つと合言葉を教えることになった。とはいえそれは到底信頼などと呼べるものではなく、幾つか張り巡らせた予防線の一つを越える許可を与えたに過ぎない。
シャリューレは迅速に行使できる魔術をあらかじめ準備して玄関へと向かう。扉を開くと、ジェスランが微笑みを浮かべている。
「こんにちは。シャリュちゃん、演技は苦手なんだね?」とジェスランは言った。
「いや、得意だが」とシャリューレは答える。
「そう……。まあ、いいんだけど」
そう言うとジェスランは背中に回して隠していたものを見せる。麝香豌豆を中心に三色菫庭薺、紅瑪瑙草、忘れ雪といった春の花束がシャリューレの眼前に現れ、数瞬張り詰めた意識を和らげる馥郁たる香りに包まれた。
そしてジェスランが得意げで気障ったらしい笑みを浮かべて感想を待っている。
シャリューレは冷たい眼差しで迷惑そうに言う。「ジェスラン。花というのはあくまで合言葉で……」
「分かってるよ。だからこそ洒落で持ってきたんだよ。ほら。再会を祝ってね」そう言ってジェスランはシャリューレに花束を手渡す。
シャリューレは素直に受け取って真面目に感想を述べる。「綺麗だな。ありがとう」
ジェスランは思わぬ答えにぽかんと口を開け、しかし気を取り直して答える。「いや、うん。いいんだ。とはいえ合言葉は変えた方が良いんじゃないかな。ほら、花を持たずにあの合言葉を言っている姿を見られると怪しまれるから」
花瓶のない部屋で花束をどうしたものか、と思案していたシャリューレは頷く。「確かにそうだ。では『花を貰い受けに来ました』にしよう」
「いいんだけど、ヘルヌス君に相談しなくていいの? というか彼はどこ?」ジェスランは隠れる場所がどこにもないことを確認するように部屋を見回す。
「朝から別の拠点へ行ったきりだ」シャリューレは窓の中の赤みがかった太陽に目を向ける。「日が暮れるまでに戻ってくるはずだが」
日が暮れるまでにヘルヌスは戻って来なかった。
「どうするの? シャリュちゃん。彼、まさか裏切りとか?」
まだ蝋燭の一本も灯していない薄暗がりの忍び込んだ部屋。ジェスランはゴルトローの街で再会した時のように壁にもたれかかり、花束を抱えたまま窓際の椅子に座るシャリューレに尋ねる。
シャリューレは西の地平線を縁どる黄金の残光が消える時を待って言う。「奴に限ってそれはないだろうな。私を裏切ることがあったとしても本国を裏切ることはないだろう」
「それはそれでどうなんだろう。おじさんの立場ではいまいち事情がよく分からないんだけど、じゃあ作戦は中止ってことかい?」
シャリューレはかすかに首を振って窓からジェスランへ視線を向ける。
「いや、奴なしで計画を詰めるだけだ。そもそも元々このような作戦は計画していなかった。貴様が間諜を行えるというので急遽立案したんだ」
「ええ!?」ジェスランは驚きつつも前向きにとらえる。「でも、じゃあそれは信頼してくれたって、事かな?」
シャリューレが痛みを堪えるように笑う。「そんなわけがないだろう。まあ、今でも救済機構の僧侶で、かつ私を殺しに来た暗殺者でもある貴様の持ってきた情報次第だ」
ジェスランは肩を落とす。「まあ、そうだよね。おじさん悲しいけど信頼されるように頑張るよ」
居室の真ん中に置かれた食卓にジェスランが白紙の羊皮紙を広げる。さらに葦筆と墨の入った小さな壺を置く。
「シャリュちゃんの言う通りに、恩寵審査会を調べてきた。椅子借りるよ。知っての通り、恩寵審査会は救済機構の下部組織であり、魔法の研究、高等教育の他、機構が手に入れた全ての魔導書の封印を担っている、ということになっている」
そう言いながらジェスランは羊皮紙に線を引いていく。円形を組み合わせたような図形が並ぶ。それが恩寵審査会の寺院の間取りだということをシャリューレは説明されずとも理解する。
「まさか一つ所に、一つの下部組織に全ての魔導書を任せているとは思えんがな」とシャリューレは引かれていく線を目で追いながら呟く。
「そうだね。おじさんもそう思う。結論から言って、恩寵審査会の寺院のどこにどうやって封印されているか、分からなかった。つまり存在するかどうかすら分からない」ジェスランは窺うような眼差しをシャリューレの整った横顔に向ける。
「そうか。まあ、はなから期待してはいないが」とシャリューレは花束を眺めながら淡々と言った。
「そういうこと言う? 全く情報を得てないわけじゃないよ。この間取りだってそうだし、この区画に――」と言ってジェスランは間取りの一か所に目印をつける。「魔導書研究に関連する書類がある。中には入れなかったけどね。ところでシャリュちゃん。人造魔導書って知ってる?」
「いや、聞いたこともないな。まあ名称からして魔導書を自分たちの手で作ろうって話だろう。似たような研究は古くからある。機構がその研究に手を出しているのだとすれば、これほど馬鹿々々しい話もないが。今更驚くほどでもない」
「そうそう。まあ大体想像している通りだと思う。そしてその通り、機構も昔から研究している、とされている。秘密裏に、だけど。その研究が大いに進展したって噂がある。だとすれば最近何か大きな変化があったはずだ」
「噂に聞く研究が進展したという噂?」とシャリューレはつまらない芝居のように話す。
「まあ、そうだよ。噂だけど、真実味のある噂だ」
シャリューレは妙なる霊感が床の隅にでも落ちていないかと視線を巡らせる。
「何か人造魔導書に資する大きな発明か発見があったということか。優秀な魔法使いかあるいは魔導書そのものか、手に入れたんだな」
「これも噂なんだけど……」と言ってジェスランはシャリューレの冷たい目線に気づいて一度口を噤む。「まあ聞いてよ。実は最近かの大尼僧メヴュラツィエが焚書機関によって討伐されたらしい」そう言ってジェスランは、何かを言いかけたシャリューレを制して続ける。「確かに、世間では聖メヴュラツィエは殉教し、聖人に列せられた、ということになってるんだけど。実は彼女、『最たる教敵』に認定されていたんだよ」
『最たる教敵』は救済機構の認定する教敵の中でも最重要かつ最悪とされた生物か魔法、現象、あるいは概念だ。
シャリューレが花束の角度を変えて眺めつつ言う。「だが『最たる教敵』は広く公布されるはずだろう。それこそ国外にまで知れ渡る。私は聖メヴュラツィエが『最たる教敵』に認定されたなどという話は聞いたことがない」
「それが身内なら話は別だよ」
「それもそうか」シャリューレは皮肉っぽく微笑む。「しかし聖人が『最たる教敵』に落ちぶれるとはな。いや、そもそも身内が『最たる教敵』になったことを隠すための虚報が聖人認定か?」
「かもね。僕もその話を知った時そう思った。で、メヴュラツィエは恩寵審査会の元総長なんだ」
「ああ、それが人造魔導書研究の進展に繋がる、と」シャリューレは合点がいったと頷く。
「うん。おじさんが睨むにまさにメヴュラツィエが人造魔導書の研究をしていたんじゃないかな。焚書機関に討たれたって話とも繋がる」
「だが人造魔導書が欲しいわけじゃない」と言ってシャリューレは花束を嗅ぐように顔を近づける。
「うん。だからせめて少しでも恩寵審査会に魔導書がある可能性を探ってきたんじゃないか。人造魔導書の研究なんだから魔導書を参考にするのは当然だし、元総長の研究を古巣が引き継ぐのは理にかなってる」
シャリューレは納得していない様子で顎に手を当てる。「だが裏を返せば『最たる教敵』を輩出した組織に魔導書を託すか、という疑問がある」ジェスランの反論を待つが、肩をすくめるだけで何もないようなのでシャリューレは先を促す。「それで、もしもあるとすればどこにある?」
ジェスランが恩寵審査会の巨大な寺院の間取りを書き記した羊皮紙を指し示す。シャリューレも近寄って覗き込む。
「中を調べられなかった区画がいくつかある。ここからここは見学させてもらえたから絶対にない。ここら辺は忍び込んだけど見つからなかった。見落としていないなら無い。と、こんなところだけど、見ての通り調べられていない所だらけだ。というわけでおじさんの推測になるけど、魔導書が秘匿されているとすればここだね。元総長メヴュラツィエの工房だ」
大きな円の外縁に並ぶ小さな円の内の一つだ。
「分かった。十分だ。作戦はこちらで考える」
「つまり信頼を得た?」とジェスランはシャリューレに期待の眼差しを向ける。
「いや」シャリューレは短く首を横に振る。
ジェスランは不快感を表すように目を細める。「信頼してないなら罠かもしれないって思ってるでしょ? 何で飛び込むのさ」
シャリューレはつまらない物でも見るようにジェスランを見つめ返す。「私自身の能力を信頼しているからだ」
呆れたように、しかし肯定的にジェスランはぼやく。「君みたいな人間に生まれたかったよ」
「大して面白い人生ではないが、それはいいとして何か懸念事項はあるか?」
「うーん。そうだねえ」ジェスランは筆を置き、椅子の背にもたれる。「そういえば焚書機関各局の首席がここジンテラに集まってるらしいよ。そう、言ってなかったけど『最たる教敵』メヴュラツィエを討伐したのは第二局の、かの最年少首席焚書官サイス君らしい。それに例の魔法少女とやらに接触して重要な情報も手に入れたとかいないとか。大手柄だね」
「話を戻すが」とシャリューレが言う。「『最たる教敵』が認定された時は専任の組織が設立されるのではなかったか? つまり対メヴュラツィエの組織もあったということになる。今は違うのか?」
「そうなるね。今もその通りのはず。詳しくは知らないけど。どのみちそんな組織があったとしても、サイス君に得物を横取りされて『最たる教敵』がいなくなった時点でそのまま解散じゃないかな。かつておじさんが救童軍総長として華々しく任務を果たした時みたいにね!」
ジェスランは得意げな笑みを浮かべるが、シャリューレは急に花が何本あるのか気になって数えていた。
「他には?」
ジェスランはため息と共に無力感を吐き出す。「それこそ魔法少女はつい最近までお隣サンヴィアにいたらしいから、次はシグニカかも。もうこの総本山まで来ていてもおかしくない」
「気をつけようにも、それに関しては情報があまりにも少ないからな」シャリューレはどこか遠い所を眺める。「機構ではどれくらい知られているんだ?」
「名前やあだ名だけなら広く知られてるよ。魔法少女ユカリ。サンヴィアの破壊者。ヴァミア川の怪物使い。二つの恐ろしい使い魔の使役者。雷落とし。夜と月の涜神者」
「多いな」シャリューレは素直に感想を述べる。「使い魔というのは?」
「もっとあるよ」ジェスランは壁の鼠の形に似た染みを見つめて言う。「使い魔とあだ名されてはいるけど、おそらく人間だね。一人は魔法少女に匹敵する赤髪の魔法使い。どこだかの凍り付いた湖を軽々と蒸発させたって噂だよ。もう一人はあらゆる生き物に変身する魔法を持っているらしい。しかも的確に相手の最も苦手な生物に変身して襲い掛かるそうだ」
ふとジェスランは寒気を感じたように両腕を擦るがそれが本当の寒さだと気づき、その異常に椅子から飛び上がる。窓が曇り、床に霜が立ち、冷気が立ち込め、空気が肺を刺す。
「待て待て待て! どうした!?」ジェスランは部屋中を見回し、逃げ場がないことを察する。重点的に扉と窓が凍り付いている。「何も嘘はついてない。知ってることは全部話した。ここで俺を処刑するのか!?」
「いや、逃がさないように、念のためだ。大げさにとらえるな」シャリューレは凍り付いた花束を放り捨て、ゆっくりと立ち上がる。「二人目の使い魔、変身する娘について詳しく話せば殺しはしないし、話すまでは決して死なせはしない」
ジェスランはシャリューレの横顔を見つめる。しかしシャリューレは感情を秘め、表に出していなかった。たとえこの凍った部屋を脱出できたとしても、腰に佩いた剣で両断されるのは目に見えている。そして実際にそうなる時には剣を見ることもできず死を迎えるのだ。氷像のように凍り付いた顔貌から目を離せないままにジェスランは答える。
「娘とは言ってないぞ。何だ? 知り合いなのか? 言ったろ。何も詳しくない。噂を聞いただけだ。その使い魔がどうしたっていうんだ?」
シャリューレの瞳だけが身じろぎし、ジェスランの表情を観察する。そしてその問いに答えることなく、再び椅子に座ると部屋の冷気が壁のひびや床の隙間に消えていく。しかし霜も一度凍り付いた物も自然と解けるまで消えることはない。
結局、ジェスランがその部屋を出るまでシャリューレはどのような問いにも答えず、一度も口を開くことはなかった。凍って解けた花束にジェスランは気づいたが、当てつけるように置いていった。