テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
意識の底から這い上がってきた私が最初に感じたのは、頬を刺すような夜の寒さと
硬く冷え切った土の感触だった。
ガタガタと震える体をどうにか動かそうとしたが
手足は荒縄で固く縛り上げられ、自由を奪われている。
薄らと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、静寂に包まれていたはずの社の風景ではなかった。
そこは、見慣れたはずの
今や異様な熱気に包まれた村の広場だった。
かつては収穫を祝い、子供たちが駆け回っていた場所。
しかし今の広場に、かつての活気など微塵も残っていない。
ひび割れ、干上がった地面には、いくつもの松明が突き立てられ
その不気味な炎が風に揺られて、集まった人々の影を怪物のように長く引き伸ばしている。
「……なんだ、生きておったか。しぶとい厄災の娘め」
頭上から、氷のように冷たい声が降ってきた。継母だ。
見上げれば、彼女は泥と涙で汚れきった私の顔を見下ろし、心底嫌悪感を露わにしていた。
まるで汚物を見るようなその目で私を射抜くと、彼女は蔑むように、私の足元へ唾を吐き捨てた。
そのすぐ隣には、父も立っていた。
けれど、彼は実の娘である私の姿を視界に入れることさえ拒むように、頑なに視線を逸らしている。
ただ、黒装束を纏った呪術師の顔色を
怯えるように、どこか期待するように窺っているだけだった。
「……お父様…どうして……」
掠れた声を振り絞り、私は問いかけた。
かつては、この髪の色を「可愛い」と言って
不器用ながらも私の頭を撫でてくれたことがあったはずだ。
「小春」と名前を呼び、優しい笑みを向けてくれたあの日々は、すべて私の幻想だったのだろうか。
今の彼の瞳には、実の娘への情愛など欠片も残っておらず
そこにあるのは、自分たちを救うための「供物」への、冷淡な計算だけだった。
「……黙れ。お前が生きているから、この村に災いが降りかかり続けるのだ!」
「お前がこの地に血を流して死ねば、雨が降り、皆が救われる。それが村の総意だ。……そして、お前の変えられぬ運命だ」
父の乾いた言葉に、周囲を取り囲んでいた村人たちが、待ってましたとばかりに一斉に同調する。
「殺せ!」
「厄災を焼き尽くせ!」
「血を撒け、大地を潤せ!」
その合唱は、もはや理性を備えた人間の言葉とは思えなかった。
何かに操られているかのように、自身の欲望に魂を売り渡したかのように
彼らの表情は仮面のように硬く、その瞳は濁りきっている。
「……ほう。これほどの悪意に晒されて、まだ意識を保っていますか。さすがは龍神の『番』となる魂。……実に見事な強靭さだ」
歪んだ称賛を口にしながら、呪術師がゆっくりと私の前に歩み寄った。
彼は髑髏の付いた錫杖をドロリとした地面に突き立てると
口の端を吊り上げ、ニヤリと不気味な笑みを浮かべる。
「お前の死は、単なる雨乞いのためだけではない。この死に絶えようとしている国に、新たな王を誕生させるための、最も重要な儀式なのだよ」
「新たな王……っ?一体、何を……」
「……この隠れ里の地下深くには、誰も知らぬ強大な『負の龍脈』が眠っているのだ」
「数百年前にあの龍神が傷つき、絶望の中で流した血が、代々の人間の憎しみと身勝手な欲望を吸い上げ、ドロドロとした怨念となって固まった純粋な力の塊……」
「この龍脈を解放し、龍に愛されかけたお前の魂を最上の供物として捧げる。そうすることで、私は『最悪の破壊神』をこの世に顕現させ、すべてを無に帰した後に、私が支配する新たな国を築くのだ!」
呪術師の狂気に満ちた宣言に、継母や村人たちが歓喜の声を上げる。
彼らは、自分たちが信じ込んでいる「救済」が
実は世界を滅ぼすための引き金であることを知らない。
ただ、「雨が降る」「豊かな暮らしが戻る」という
呪術師の甘い蜜のような言葉に思考を停止させ
私という一人の少女を「獲物」として差し出すことに何の罪悪感も抱いていなかった。
「……そんなこと…蒼様が、許すはずありません……っ!」
縛られた体で精一杯、私は叫んだ。
不器用で、ぶっきらぼうで、けれど食膳を囲めば静かにお礼を言ってくれる、あの心優しい神様。
自分の傷を隠してまで、私に居場所をくれた彼が、こんな卑劣で醜い真似を許すはずがない。
「……許しません、か。……ふふ、くははは!」
「ならば、見せてあげましょう。お前が信じるその高潔な神様が、生贄のために、いかに無様に堕ちていくかをな!」
呪術師が嘲笑いながら錫杖を大きく振るうと
空中にどす黒い霧が渦巻き、一つの鏡のような映像が浮かび上がった。
その中に映し出されたのは、社の前に膝をつき、苦悶の表情を浮かべる蒼様の姿だった。
彼は、内側から体を焼き焦がすような毒に耐えながら
村人たちが張り巡らせた「不浄の檻」を破ろうと、爪が剥がれ落ち
拳が血に染まるのも構わず、必死に結界を殴りつけていた。
「離せ…その手を……小春から、離せえええ!!」
蒼様の絶叫が、黒い霧を通じて広場全体に響き渡る。
けれど、結界の毒は非情にも彼の体から龍の気を吸い尽くし
代わりにどす黒い「怨念」をその血管へと注ぎ込んでいた。
「……蒼様……!」
私の叫びが、広場に虚しく木霊する。
今すぐにでも駆け寄って、あの温かな胸に飛び込みたい。
けれど、私を縛る縄は食い込むばかりで、指先一つ動かすことさえ叶わない。
ふと目を落とせば、呪術師の放った禍々しい術によって、二人の指先に結ばれていたはずの美しい
「赤い糸」が、じわじわと、腐った血のような黒へと染め上げられていくのが見えた。
逃れられない絶望が、夜の帳と共に私たちを飲み込もうとしていた。
最悪の夜が、運命に抗おうとした二人を、非情にも引き裂こうとしていた。
#猫塚ルイ文庫