テラーノベル
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8月14日、正午。祖母の家は暑さを増し、素麺を啜った後食器を洗い場に置いた。
「ごめんね、今年もお世話になっちゃって。」
「いいのよ、ご先祖様も帰ってきてくれて嬉しいって言ってるよ。」
祖母は仏壇の前の座布団に座って、お供物を並べていた。
「お盆って、亡くなった人が帰ってくるって言うけど、本当なの?」
現代は“お盆は休み”という若者の意識が集まり過ぎて、あまりこうやって亡くなった人を迎える準備をすることも無いだろう。うちの両親がそうしているのも、見た事は無かった。
祖父の横で3%のアルコールが入ったお酒の缶を開け、祖父の飲んでいた缶ビールと乾杯した。
「帰ってくるよ、ご先祖様は、子孫が元気にしているか見にくる。だからちゃんと手を合わせておきなさい。」
「はーい。」
酒を机に置いて立ち上がり、祖母と入れ替わりで仏壇前の座布団に正座した。
お久しぶりですご先祖様、今年も帰ってきました。と脳内で呟きながら、手を合わせて目を閉じた。
──「君は、私たちと同じ書く人なんだねえ。」
耳元で聞こえた声に、反射で振り返った。
「どうかしたかい?」
「いや今、知らない男性の声がした気がして……。」
若いようで、疲れを感じさせる声だった。でも一瞬、そこに気配があったような感じがして、鼻にタバコの香りが掠めた。
「ああ、もしかすると太宰さんかもしれんねえ。」
「太宰さん……って、あの文豪の?」
そうそう、と祖母は言いながら縁側にスイカを置いた。
「太宰治は東京で亡くなったから、時稀に来ることがあるんだよ。もしかすると、あんたが小説家を目指しているのをどこかで聞きつけて、やってきたのかもしれないねえ。」
「太宰さんが……?」
「そういえば、あんた昔から文豪の本を読み漁るのが大好きだったよねえ。今も箱の中にいっぱい残ってるけど、持っていかないのかい?」
祖母が持ってきた埃被った段ボールを眺める。
「うーん……家に置く場所無くって。もう少しだけ置いといてもらっていい?」
半分事実、半分は嘘。本当は、今持っている夢に現実を突きつけられたく無いだけ。
別に、作家一筋で生きているわけじゃない、普通に仕事して、空き時間に書いて、ネットでしている募集に投稿するだけ。稼ごうという気はないけど、私も“あの人”みたいに、誰かを救えたらなって……思っただけ。
なのにどうして祖母は、“現実を見ろ”、なんて言わないんだろうか。
「ほら、スイカ食べなさい。」
縁側に腰掛けた祖母の横に、お酒の缶を持って自分も腰掛ける。
「……おばあちゃんは、太宰さんに会ったことあるの?」
「無いよ。居たとしてもあたしには気づけないだろうねえ。」
スイカを手に取り、外側に見える種を丁寧に除く。葡萄の香りが鼻を通る缶のお酒を一口飲んだ。
「そういえばあんたは、昔から幽霊が見える性格だったわねえ。ほら幼稚園生の時海で話した“服で入ってるお兄さん!”って言ってた子。」
「あの人幽霊だったの!?」
縁側の木材質の床に強めに酒の缶を置いた。
「誰も見えてなくて、あんた可笑しい子みたいになってたねえ。」
「その時に言ってよも〜……。」
タバコの香りが、ほんのりと柔らかく、漂い続ける。祖父はタバコを吸わないので、こんな香りがするはずは無い。
てことは……どこかに、いる……?
──「沢山本があるのだねぇ。」
少し遠くで、その声が聞こえた。タバコの香りが、少しだけ強くなった気がした。
「……私には、見えるかもしれない?」
「そうかもしれないね。それを分かっているかもしれないね、太宰さんも。」
振り返って、段ボールを見つめた。
あの頃の私が、救われる、かもしれない。今日なら……いや、今日だけは。
そんな奇跡を、信じてみてもいいのかもしれない。
蒸し暑い夏は、寝付きが悪い。
扇風機を弱の状態にして、強にして、それでも尚暑くて。
「……眠れない。」
本当に、クーラーがない時代で生きていた人には尊敬する。
布団から出て、二階から一階へ降りる。台所の水道水をコップに入れて一口で飲み干すと、またふわりと、タバコの香りがした。
「ここは月が綺麗に見えるね。」
知らない男性の声がして、振り返る。縁側に、着物姿で、裸足で、まるでそこに居るのが当たり前かのように佇んでいる。知らない顔、だと一瞬思った。
生きる希望も持たない瞳の奥に、ただ反射で自分が映った。
振り返ったその男性は、手に一冊の本を持っていた。外側のカバーがボロボロで、中のページは黄色くなっている。
「それ……私の……。」
「嗚呼、申し訳ないね、少しお借りしたよ。」
手に持っている“斜陽”を、ひらひらと私に見せた。
伸ばしていた手を、自分の体へ引き戻した。
これが……お盆の軌跡、って……やつ?
「貴方が……太宰治先生?」
「先生だなんて、そんな言葉が似合う人じゃあないよ私は。……でも、うん。その名前で本を書いていたことはあったよ。」
畳を歩いて縁側の、太宰さんの横に立った。
「津島、修治先生……。」
手を伸ばそうとして、直前で止めた。悲しそうな瞳が、私を見つめた。
「そこまで知られていると、少し恥ずかしいね。」
「世に沢山本を知られているのに、今更ですか……?」
「私はそんなに称賛される人間じゃない、君はよく分かっているはずだ。」
「私がですか?……まさか、称賛どころか、崇拝ですよ。」
冷蔵庫から自分の買ったお酒の缶を持ってきて、仏壇に置く。
「3%なのであまりアルコールは感じないかもしれませんが、お出迎え程度に。」
「……後で頂くよ。ありがとう。」
段ボールの埃を少しだけ払い、箱を縁側に置いた。
「文豪の生き方は、様々です。でもその様々な生き方の中に、作品の良さが、隠れているんです。」
太宰治の“人間失格”を取り出し、彼に差し出した。
「貴方の作品は、多くの人間失格だと罵られてきた人の心を、救い上げました。私も、その1人です。……だから、だから自分を、下げないでください。」
太宰さんは少しだけ驚いた顔をした後、人間失格を手に取り、微笑んだ。
「君は……優しい人だね。私とは違う。」
「……まさか。私は貴方以下の人間です、何も……成し遂げられない。」
「ねえ、その箱に入ってる原稿用紙、君が書いたものかい?」
指で示したそれは、自分が一年前に書いた作品だ。
「あっ、えぇと……読めたもんじゃ無いので……。」
「いいじゃあないか、冥土の土産として持っていかせておくれよ。」
「……もう死んでるくせに。」
そう伝えながら、原稿用紙を渡した。太宰さんは呑気に縁側に座り、それを広げて読み始める。
「……よく出来ているね、この作品。」
突然の言葉に振り返った。そんな事言う人、初めて見た。……しかも、それを言った人物が、“私が本当に認めた欲しかった人物”だなんて、考えられない。
「『“罪を犯す”と“人を犯す”とは、共に“犯す”という一文字を用ひるので御座います。』、この軽く出した疑問が、最後にまたやってくるのが、読者を引き込む良い一文になるだろうね。」
「え、あ……ありがとう、ございます。」
でも、と太宰さんが言った瞬間、背中が凍りついた気がした。
何を言われる?何を……否定される?
「君の痛みが強く出ていて……胸が苦しくなるよ。」
「え……?」
タバコの香りが、真横から強く香った。太宰さんの横顔は、月明かりで輪郭がはっきりとしていて──美しかった。
「君もまた、私と同じ人生を歩んでいそうだ。人間失格の……葉蔵のような。」
「さっきも言った通り……それ以下の人間ですよ。道化なんて出来ないし、人を笑わせる才能も……貴方たちと同じ場所に並ぶことも、全て、中途で終わらせてしまった。」
涙が出そうになって唇を噛み締めると、太宰さんは私の手を取り、その上に原稿用紙を置いた。
「君がさっき言ったんじゃあないか。“文豪の生き方は様々で、その様々な生き方の中に作品の良さが隠れている”ってね。」
箱を自分の方に引き寄せ、その箱の中を眺め始める。
「君は誰かの痛みを、作品の中から見つけ出したんだ。それが、君の作品の中に写し出されている……それが君の良さじゃないなんて、言わせないよ。」
ああ、痛い、優しい……心地いい。
“小説家?無駄だよ。”
“やめときなって〜そんなの叶うはずないよ”
“小説家だぁ?現実見ろ、現実。”
そんな痛々しい言葉が欲しかったんじゃない。
“いいんじゃない?”
“面白いと思うよ!”
“凄いね!”
そんな薄っぺらい優しさが欲しかったんじゃない。
「……おや、泣かせてしまったかい?」
欲しかった、喉から手が出るほど、その痛くて、優しくて、助けとなる言葉が。
「貴方は……いつも狡いんですね……。」
「事実を言っただけだよ。それとも……言われ慣れてなかったかい?」
現代人は、直ぐ言葉を飲み込むか、否定するか、曖昧に濁すか……そのどれかだ。
「嗚呼泣かないでおくれよ。女性が泣いている姿は見てられないなぁ。」
「見てばっかりの人生だったくせに……。」
太宰さんは軽く笑った後、続けた。
「……それでも、見てしまうんだよ。感情を押し込めるのは、苦しいだろう?」
「道家を演じてた人が、何を……。」
分かっている、演じていたからこその言葉だと。
「また、私の為に書いてくれないかい?」
「え、太宰さんの為に……ですか?」
そっと太宰さんは頷いた。
「来年、この時期にまたやって来るからさ、君の人生、私に見せてよ。」
「……良いですよ、来たら、見せてあげます。」
優しい夜風の中に、タバコの香りが混ざっていた。
「あれ、その段ボール持って帰るのかい?」
素麺の入っていた食器を台所で洗う祖母が、聞いた。
「……うん、急に読みたくなっちゃって。」
底に入っていた人間失格と斜陽が一番上に出てきているのが、昨日の夜のことを夢じゃないと、物語っている。
……いいや、夢でもいい。
縁側の向こうで、蝉の声が昨日より一段高く鳴いていた。
夜の涼しさはもうなく、夏の朝が戻ってきている。
今夜は、奇跡を夢に見ても、良いじゃないか。
end……
(書きたかっただけです、異論は認めます())
コメント
4件
なんかアクたんの書く文ってわたしみたいな俗世的なものじゃないっていうか、もっと高尚な世界にある感じでかっこいいです:-) 主人公あの文豪に褒めてもらえるなんて最高の体験すぎる😢