テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
春の終わり頃だった。
山あいの小さな村では、田に水が引かれ、蛙の声が夜ごと響いていた。
緋八マナは裸足で畦道を歩きながら、肩に背負った薪の束を持ち直す。
「……重っ」
まだ陽が沈みきらぬ空を見上げ、ため息を吐く。
今日も朝から畑を耕し、水を運び、山へ薪を拾いに行った。
村で暮らす者にとって、それは当たり前の日々だ。
けれど、マナは時々思う。
――村の外には、どんな世界があるんやろ。
この国には“身分”というものがある。
都に住む貴族たちは、美しい衣を纏い、歌を詠み、酒を飲み、優雅に生きているらしい。
村人にとって、それは遠い空の上の話だった。
「マナー! 遅いぞ!」
向こうから幼馴染が手を振る。
マナは慌てて返事をし、駆け出した。
そのときだった。
馬の蹄の音が、山道に響いた。
村人たちは皆、弾かれたように道の端へ退く。
現れたのは数人の従者と、黒塗りの牛車。
村人たちは頭を下げ、目を合わせようともしない。
「……貴族様や」
誰かが小さく呟く。
牛車の簾が、ふわりと揺れた。
そこから覗いた顔に、マナは思わず目を奪われた。
白い肌。
長い睫毛。
静かな夜みたいな紫の瞳。
年は自分とそう変わらないだろうか。
けれど纏う空気が違う。
まるで別の世界の人間だった。
その人物――伊波ライは、一瞬だけマナを見た。
ただそれだけ。
なのに、なぜか胸がざわついた。
「こら、見るな!」
隣の村人に頭を押さえつけられ、マナは慌てて俯く。
牛車はそのまま山道を進み、やがて見えなくなった。
だが、マナの胸には妙な感覚だけが残った。
その数日後。
マナは夜の川辺で魚籠を洗っていた。
村の者たちは既に寝静まり、月だけが川面を照らしている。
すると背後から、草を踏む音がした。
「誰や?」
振り返った瞬間、マナは目を見開く。
そこにいたのは、あの日の貴族だった。
深い藍色の狩衣を纏い、月明かりの中に立っている。
「驚かせたならすまない」
静かな声だった。
マナは慌てて立ち上がる。
「な、なんで貴族様がこんなとこに!?」
「……少し、息苦しくて」
ライは苦笑した。
「屋敷を抜け出してきた」
「はぁ!? そんな簡単に!?」
「簡単ではない。見張りを撒くのに苦労した」
さらりと言うその姿に、マナは呆れる。
貴族というのはもっと偉そうで、近寄りがたいものだと思っていた。
だが目の前の男は、どこか不思議だった。
「お前、名は?」
「……緋八マナ」
「マナ」
その名を確かめるように呼ばれ、胸が妙に熱くなる。
「俺は伊波ライ」
「知っとるよ。貴族様やろ」
「そうだな」
ライは川辺にしゃがみ込んだ。
水面に映る月を眺めながら、小さく息を吐く。
「お前たちは、毎日こうして自由に空を見られるんだな」
「……?」
「屋敷の中は窮屈だ。どこへ行くにも人がついてくる。勝手に外へ出ることも許されない」
マナは目を丸くした。
貴族は何でも好きにできると思っていた。
だが違うらしい。
「大変なんやな」
「そうでもない。生まれた時からそうだから」
ライは笑う。
けれど、その笑みはどこか寂しかった。
沈黙が落ちる。
川の音だけが静かに流れていく。
やがてライが口を開いた。
「……お前と話していると、楽だ」
「俺?」
「ああ」
貴族が、農民に向かってそんなことを言うなんて。
マナは信じられない気持ちでライを見た。
「変な人やな、あんた」
「よく言われる」
くす、とライが笑う。
その顔を見て、マナの胸がまたざわついた。
それからライは、時々村へ来るようになった。
もちろん誰にも知られてはいけない。
夜更け、皆が寝静まった頃。
屋敷を抜け出したライは、こっそり川辺へ現れる。
マナは最初こそ驚いていたが、次第にそれが当たり前になっていった。
「今日は山で鹿を見た」
「へぇ」
「あと、転んだ」
「何しとんねん」
笑い合う時間は、不思議と心地よかった。
だがある夜。
ライの腕に赤い痣があることに、マナは気づいた。
「それ、どうしたん」
ライは袖を引いた。
「……別に」
「別にやないやろ」
問い詰めると、ライは困ったように笑う。
「父上に叱責された。最近、夜にいなくなることが増えたから」
マナの胸が痛んだ。
自分と会っているせいだ。
「……もう来んほうがええんちゃう」
その言葉に、ライが目を見開く。
「嫌だ」
即答だった。
「俺は、お前に会いたい」
月明かりの下。
真っ直ぐに見つめられ、マナは息を呑む。
身分が違う。
住む世界が違う。
そんなこと、最初から分かっていた。
けれど。
「……俺も」
小さく呟く。
「ライと話すん、好きや」
その瞬間、ライが少しだけ目を細めた。
嬉しそうに。
切なそうに。
まるで、叶わない夢を見るみたいに。
コメント
1件
第1話、読ませていただきました🌙 身分違いの2人が夜の川辺で少しずつ距離を縮めていく感じ、すごく好きです。ライの「お前と話していると、楽だ」って言葉に胸がきゅっとしました。貴族の彼の孤独とか、マナの素直な反応とか…ラストの「俺も」って返しが切なくて、続きが気になります! しろまるさんの紡ぐ世界観、とても丁寧で引き込まれました。次話も楽しみにしています🤍🥀