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永 遠 . @ 眠
梅雨が近づき、村を包む空気は湿り始めていた。
夜の川辺には薄い霧が漂い、月の光さえ滲んで見える。
緋八マナは石の上に腰を下ろし、川へ小石を投げた。
ぽちゃん、と静かな音が響く。
「……遅い」
いつもなら、とっくに来ている時間だった。
伊波ライは、どれだけ忙しくても必ず顔を見せた。
たとえ少しだけでも、「会いたかった」と笑って現れる。
けれど今日は違う。
胸の奥が妙にざわつく。
もしかして、もう来られなくなったのではないか。
あの日見た痣が、頭をよぎる。
「……ほんまに来んかったら、どうしよ」
小さく零した時だった。
背後で草を踏む音がした。
「待たせた」
振り返ると、そこには息を切らしたライが立っていた。
「ライ!」
思わず立ち上がる。
ライは珍しく乱れた髪のまま苦笑した。
「今日は見張りが多かった」
「大丈夫なん?」
「あまり大丈夫ではない」
そう言いながらも、ライはマナの隣へ腰を下ろす。
月明かりに照らされた横顔は、やはり綺麗だった。
こんな人間が同じ世界にいるのかと、未だに不思議になる。
「……なぁ」
マナが口を開く。
「俺と会っとるせいで怒られとるなら、無理せんでええんやで」
ライは少し黙った。
川の流れる音だけが響く。
やがて彼は静かに言った。
「俺は、自分でここへ来ている」
「でも」
「屋敷にいると、息が詰まるんだ」
ライは膝を抱えるようにして座った。
「貴族は自由だと思うか?」
「……まぁ、ちょっとは」
「好きな服を着て、美味いものを食べて、何不自由なく暮らしている。確かにそう見えるだろうな」
ライは自嘲するように笑う。
「でも、全部決められている」
「全部?」
「ああ。誰と話すか、どこへ行くか、どんな相手と婚姻するかまで」
マナは目を瞬かせた。
婚姻。
その言葉が妙に胸に引っかかった。
「……ライ、結婚するん?」
「いずれは」
さらりと言われ、胸がずきりと痛む。
自分でも理由は分からない。
けれど、嫌だった。
ライが誰か別の人の隣に立つ姿なんて、想像したくなかった。
「まぁ、まだ先の話だ」
ライは気づいていないのか、穏やかに続ける。
「相手も決まっていない」
「……ふぅん」
マナは川を見つめた。
胸の奥がもやもやする。
そんなマナを見て、ライが首を傾げた。
「どうした?」
「別に」
「嘘だな」
「嘘ちゃうし」
拗ねたように言うと、ライが小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、また胸が苦しくなる。
なんなんや、これ。
「マナはどうなんだ」
「何が?」
「好きな相手はいないのか」
突然そんなことを聞かれ、マナはむせた。
「はぁ!?」
「そんなに驚くことか?」
「驚くやろ普通!」
ライは本気で分かっていない顔をする。
マナは耳が熱くなるのを感じた。
「……おらんよ」
「そうか」
なぜかライが少し安心したような顔をした。
それに気づいて、マナの鼓動が速くなる。
「ライは?」
「俺か?」
「好きなやつ」
ライは少しだけ目を細めた。
月光が、その横顔を淡く照らす。
「……いる」
その瞬間、胸が締めつけられた。
息が止まりそうになる。
「……へぇ」
声がうまく出なかった。
ライには好きな相手がいる。
当たり前だ。
貴族なのだから、美しい姫君でもいるのだろう。
そう思うのに、苦しい。
「どんな人なん」
無理やり笑って尋ねる。
ライは少し考えてから、静かに答えた。
「よく笑う」
「……うん」
「真っ直ぐで、優しい」
心臓がうるさい。
「それで、身分なんて気にせず俺に話しかける」
マナは目を見開いた。
ライがこちらを見る。
その紫の瞳が、まっすぐ自分だけを映していた。
「……っ」
言葉が出ない。
まさか。
そんな。
「でも、その相手には迷惑をかけてばかりだ」
ライは苦笑した。
「会うたび困らせている」
マナの顔が熱くなる。
胸が苦しくて、でも嬉しくて、どうしたらいいのか分からなかった。
「……俺、帰る」
立ち上がろうとすると、腕を掴まれる。
「マナ」
「離して」
「嫌だ」
低い声だった。
逃がすまいとするように、指先に力が入る。
ライは普段穏やかなのに、時々こうして強引になる。
そのたび、心臓がおかしくなる。
「……なんでそんな顔するん」
「どんな顔だ」
「苦しそうな顔」
ライは少し黙った。
それから、小さく笑う。
「苦しいからだ」
月明かりの下。
掴まれた腕が熱い。
「身分なんてなければよかった」
その言葉に、マナは息を呑んだ。
貴族と農民。
決して交わらない世界。
本来なら、こうして隣に座ることすら許されない。
けれどライは、それを壊そうとしている。
「……ライ」
名前を呼ぶと、彼は静かにこちらを見た。
その瞳は、あまりにも真剣だった。
そして次の瞬間。
ライの指先が、そっとマナの頬に触れた。
コメント
1件
しろまるさん、第2話読みました。ライが「身分なんてなければよかった」って口にする場面、すごく胸に刺さりましたね。貴族と農民という越えられない壁を自覚しながら、それでもマナの隣にいることを選び続けるライの強引で真っ直ぐな想いが、月明かりの夜の描写と相まってとても美しかったです。マナが「好きな相手」を聞いて慌てるところも可愛くて、続きが気になります!