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#海辺の町
#異能力
「嵯峨閣下! 申し訳ございません、今しがた急患が……」
婦長が慌てて駆け寄り説明を始める。
静香はへたり込んだまま顔を上げることができなかった。
診療所は華族が慈善事業のために経営していることが多い。
でもまさか、ここが静香の書類上の夫である嵯峨征一郎が経営している診療所だなんて。
顔は煤と埃で汚れ、髪も乱れている。
質素な着物に継ぎ接ぎだらけのエプロン姿だ。
気づかれるはずがない。
気づかれてはならない。
別邸を抜け出して、こんなところにいるだなんて、決してバレてはいけない。
だが、征一郎は一歩、また一歩と、軍靴の音を響かせて静香に近づいてくる。
「秘薬と言ったか。そんな得体の知れないものを我が病院で使わせるとは、随分と管理が甘いようだな」
征一郎は静香の目の前で足を止め、すり鉢を手に取る。
砕ききれなかった真珠の欠片を目にした征一郎は、目を見開いた。
「……顔を上げろ」
気づかないで。
どうか、別人だと思って……。
私の顔なんて結婚式の日以来、ううん、結婚式の最中だって一度も見たことないはずだ。
一瞬見たとしても、こんな平凡な顔を憶えているはずがない。
静香は壊れそうなほど激しく脈打つ心臓を押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……静香?」
地を這うような低い声が、診察室の空気を凍らせる。
征一郎の整った顔が、見たこともないほど険しく歪んだ。
「閣下……? お知り合いでございますか?」
婦長が問いかけても征一郎は答えず、すり鉢の中に残った銀色の燐光を放つ真珠の欠片を凝視している。
「……お前に宿っていたのか」
その言葉に、静香は息を呑んだ。
この男は知っていたのだ。
間宮家に伝わる伝説の能力のことを。
だから縁談を持ちかけたんだ。
もし姉が能力を持っていなくても、子どもが続く限りいつかは能力を持った子が生まれるかもしれないから。
いくら姉が美人だからといっても、莫大な負債の肩代わりと、事業再建のための多額の資金援助なんて話がうますぎると思った。
征一郎は真珠の欠片をすり鉢から拾い、静香の腕を折れんばかりの力で掴み上げた。
そのまま無理やり立ち上がらせると、泥だらけの身体など気にする様子もなく己の胸元へと引き寄せる。
「この女は連れて行く。今日のことは他言無用だ」
征一郎は静香を拘束すると、周囲のスタッフを射抜くような鋭い視線で一喝した。
征一郎は、力なく項垂れる静香を半ば担ぐようにして、黒塗りの自動車へと歩き出した。
車内に放り込まれ、乱暴に扉が閉められる。
隣に座った征一郎から放たれる威圧感に、静香は奥歯をガチガチと鳴らした。
「……お前という女は」
征一郎は、手の中にあった真珠の欠片を、静香の目の前に突きつけた。
「これを産むために、どれほどの血を流した!」
走行する車内、征一郎の低く鋭い声が狭い空間に反響した。
静香は、隣に座る夫の放つ圧倒的な熱量と、凍りつくような怒りに身を縮める。
「答えろ」
「……答えて、どう、なさるというのですか……?」
静香は震える声で、ようやくそれだけを返した。
顔を伏せ、膝の上で握りしめた手。
泥と血にまみれ、あかぎれが裂けたその指先を、征一郎の視線が逃さず捉えている。
「『死なない程度にひっそりと暮らせ』という言いつけは守っております」
責められる理由など、どこにもない。
1日1食のパンとスープしか与えないこの男に、私を責める権利などないだろう。
「……『お荷物』で申し訳ありません」
最悪のバレ方だ。
こんなことなら、真珠1粒でもいいから握りしめて、さっさと逃げればよかった。
真珠が出ると分かった途端に、こんなに恐ろしい声で問い詰めるなんて。
結局、この人も私の命より真珠の輝きの方が大切なのだ。
静香の煤で汚れた顔に、涙が白い筋を作る。
口答えしてしまったから怒っているのだろう。
征一郎はそれ以上車の中で言葉を発することはなかった。
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