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#海辺の町
#異能力
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車が本邸の前に停車すると、驚愕の表情で出迎える使用人たちを無視し、征一郎は静香を抱き上げたまま、別邸ではなく本邸の自身の居室へと足を進めた。
「旦那様? そちらの薄汚れた女は一体……」
廊下で立ち塞がったのは、女中の菊乃だった。
「……まさか」
「菊乃、お前には後で聞きたいことがある」
「あ、あの、私は……」
征一郎の氷のような一瞥に、菊乃はその場にへたり込んだ。
征一郎はそのまま寝室へと入り、静香を贅沢な長椅子へと座らせた。
上着を脱ぎ捨て、自ら湯を張った金だらいを持ってくると、静香の前に跪く。
「自分でいたしますから……」
「黙っていろ。お前が動くと、余計に部屋が汚れる」
突き放すような物言いとは裏腹に、征一郎は静香のボロボロになった手を壊れ物を扱うかのような手つきでそっと湯に浸す。
温かい湯が冷え切った指先にじゅわっと染み渡り、すぐにジンジンと指先が熱くなった。
征一郎は石鹸を泡立て、静香の手の甲から指の一本一本まで、丁寧に執拗なほど洗い清めていく。
泥が落ち、白く透き通るような本来の肌が見えてくるたびに、征一郎の瞳には暗い光が宿った。
「……もう二度と、この手を土にまみれさせることはさせん」
征一郎は洗い終えた静香の手の甲に誓いを立てるように唇を寄せる。
「これからは俺の目の届くこの部屋で過ごせ」
「……え?」
その瞳に宿っているのは、冷徹な「夫」の義務感ではなく、獲物を檻に閉じ込めた「男」の執着のようだった。
「所用をすませてくる。……逃げ出そうなどと思うなよ」
パタンと閉じた扉を見た静香はふかふかな布団に横になりながら、自分の運の悪さを呪った。
完全に失敗した。
真珠を使い、あの少年が助かったことは後悔していない。
でも、私が特殊真珠を作れることが、あろうことか冷徹な書類だけの夫にバレてしまった。
そして、おそらくもうあの診療所へ行くことはできない。
やりがいも失い、居場所も失い、逃げ場も失い、散々だ。
静香は自分の手を見た。
泥や血は綺麗に拭い去られ、丁寧に包帯が巻かれている。
「洗ってくれた……のよね」
冷徹な夫に目の前で洗われたことが、今でも信じられない。
「さすが特殊真珠……」
奇跡の真珠が手に入るのなら、どんなみすぼらしい相手にだって優しくするに決まっている。
静香は盛大な溜息をつきながら、包帯だらけの手を眺めた。
◇
金たらいを手にしたまま広い廊下に出た征一郎は、あまりにも汚れた水に眉間に皺を寄せた。
手はあかぎれや傷でボロボロ、爪も割れ、働く者の手をしていた。
別邸に住まわせてはいたが『お荷物』とはどういうことだ?
確かに『ひっそりと暮らせ』とは言ったが、散財や豪遊せずに暮らせという意味で、あんな身なりで働きに行く理由がわからない。
「菊乃を執務室に呼べ」
金たらいを使用人に渡しながら征一郎は命令する。
執務室へ行き、棚から帳簿を取り出した征一郎は、目当てのページを探し出した。
連行されてきた菊乃は、こちらが問う前に必死に弁解を始める。
「奥様は勝手に外へ……! まさか逃げ出すなんて」
あんなにお世話してあげたのに。
私は何も知りませんと菊乃は涙ながらに訴える。
征一郎はゆっくりと振り返ると、帳簿を机に叩きつけた。
「これは、俺が別邸へ回すように指示していた食材と炭の管理表だ。だが、実際に運ばれていたのは、家畜も食わんような乾いたパンと、具のないスープだったそうだな」
「そ、そんなことは……」
征一郎はの威圧感に耐えきれず、菊乃は床に膝をつく。
「真冬の離れに暖房も入れず、食事も与えず。俺が守るべきものを、お前が弄んでいたとはな」
「も、申し訳ございません! でも、あの方は身代わりの、偽物の奥様で……! 旦那様も興味がないと……!」
征一郎は、菊乃をジロッと睨みつける。
「確かに蔑ろにしていた。その点では、俺にも責任があるだろう。だが食事を与えないとはどういうことだ」
「そ、それは、あの方が質素でいいと……」
「……本当に本人がそう言ったのか?」
征一郎は静かな殺意に満ちた声で菊乃を責めた。
「菊乃。お前は今日限りで解雇だ」
「そ、そんな……旦那様、お許しを! 奥様に謝ります、何でもしますから!」
「連れて行け。二度と静香の視界に入れるな」
泣き叫びながら床に縋り付いた菊乃は、屈強な男たちによって引きずり出されていく。
静まり返った執務室で、征一郎は先ほどまで静香の手に触れていた自分の手を見つめた。
「あいつは食事も与えられなかったから、あんなに細かったのか……?」
あんなに細く折れそうな手で、過酷な労働環境の診療所で働かなくてはならないほど空腹だったとは。
すべては菊乃の報告を鵜呑みにし、一度として様子を見に行かなかった己の落ち度だ。
いや、落ち度などという生易しいものではない。
己の立場に慢心し、他者の痛みに無頓着であった傲慢さゆえの過失だ。
親の言いなりで動く感情を失った人形のような女。そう決めつけていた。
だが、あいつは少年の命が助かった時には聖母のような慈しみで微笑み、俺に見つかった瞬間、絶望に塗りつぶされた瞳で俺を射抜いた。
そして、ついには牙を剥いたのだ。
自分を拒絶し怯えきったあの小鳥を、どうすれば二度と空へ逃さぬよう籠に縛り付けておけるか。
……どうすれば幼き日の記憶にある、あの無垢な笑顔を俺に向けてくれるのか。
「……どうかしている。こんな仕打ちをした俺が許されるはずがないのに」
長年探し求めていた恩人は、姉ではなく妹のあいつだった。
あろうことか命を救ってくれたかけがえのない女性を、自らの手で地獄へ叩き落としていたのだ。
征一郎は自分の無能を後悔しながらネクタイを緩め、どうしたら償えるか頭を悩ませた。