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22
意識の底から這い上がってきたとき、楓の視界に飛び込んできたのは、見慣れたはずの白い天井だった。
しかし、何かが違っていた。窓には頑丈な格子が嵌められ、部屋には危険な家具が一切ない。そこは、これまでの一般病室ではなく、自傷や錯乱の恐れがある患者が隔離される「保護病室(隔離室)」だった。
「紬ちゃん……っ! 紬ちゃん!!」
目が覚めた瞬間から、あの屋上の光景が鮮明にフラッシュバックし、楓は狂ったように叫び声を上げた。
「私のせいだ……私が手を離したから! 離して、私も行く、紬ちゃんのところに行くの!!」
自分の髪をむしり、壁に頭を打ち付けようとする楓を、複数の看護師たちが必死で組み伏せる。点滴の針を引き抜き、血が飛び散る中、楓はただ絶叫し続けた。あまりの精神的ショックに、一時も目を離せない「手が付けられない状態」が何日も、何週間も続いた。
親友を目の前で失ったトラウマは、少女の心を完全に粉砕していた。
それから、半年という長い、長い時間が流れた。
季節は変わり、激しい発作の嵐が去った楓の心は、深い泥のような静けさを取り戻しつつあった。ようやく自傷の危険が消えたと判断され、保護病室から元の一般病棟へ移ることになった。
ちょうどその頃、年度末の時期ということもあり、楓の主治医が交代することになった。新しい担当の先生は、これまでのカルテをじっくりと読み込んだあと、ベッドに横たわる楓の元へやってきて、穏やかに語りかけた。
「楓ちゃん。これまでの治療の経緯を全部見直したんだけどね、もう一度、最初から精密な検査をし直してみたいんだ」
楓は生気のない目で先生を見つめ、力なく首を振った。
「また同じか……。どうせ、私の心が弱いから食べられないんでしょ……。もういいよ……」
(また心因性だ、ストレスだって言われて、無理やり鼻から管を入れられるだけ。もう傷つきたくない……)
しかし、数日後。すべての検査結果が出揃った日、新しい先生は楓の病室に父親と母親を呼び出した。先生の表情は、いつになく真剣で、どこか強張っていた。
「お父さん、お母さん、そして楓ちゃん。今日、皆さんにとても大切なお話をしなければなりません」
新しい先生の声は、静かだったが、どこか張り詰めていた。これまでの先生たちのように、カルテをパパッとめくるような雑さはない。ただ、一枚の新しい検査画像を、祈るように両手でそっと机の上に置いた。
母親は恐怖で身をすくませ、隣に座る父親の袖をぎゅっと握りしめた。
(また、あの子の心が壊れているって言われるの? 紬ちゃんのことがあったから、もっとひどい精神病だって言われてしまうの……?)
父親もまた、奥歯を噛み締め、これから下されるであろう「残酷な宣告」に備えて肩を硬くした。
しかし、先生の口からこぼれ落ちたのは、予想もしない言葉だった。
「楓ちゃんの病気は、これまでずっと『心因性の摂食障害』だと思われていました。……でも、違ったんだ」
「え……?」
母親の喉から、ひっくり返ったような声が漏れた。父親の目が見開かれる。
「先生、なんなんですか、それは……どういうことですか?」
「言っている意味が……。じゃあ、あの子が食べられないのは、何なんですか?」
先生は白衣のポケットからペンを取り出すと、画像の、食道と胃が交わるギリギリの境界線を優しくなぞった。
「検査の結果、楓ちゃんの体の構造そのものに原因があることが分かりました。食物が通る食道と胃の間にある筋肉の部分が、生まれつき、あるいは成長の過程で、正常に育っていなかったんです。通り道が、ほんの数ミリしかない。極端に狭くて、固形物が物理的に通らない状態だったんですよ」
静まり返った診察室に、先生のペンの先が画像を叩く、小さなプラスチックの音だけが、トントン、と虚しく響いた。
その言葉が、ベッドの上の楓の耳に届いた瞬間。
彼女の脳裏に、これまでの地獄のような数年間が、走馬灯のように駆け巡った。
『なんか太くない?』というSNSの冷たい一言。
『なんで最近ごはん残すの?』と悲しそうな顔をしたお母さん。
『言うこと聞かないからよ!』と、無理やり鼻から太い管をねじ込んできた、あの厳しい看護師の冷たい目。
お父さんが買ってきてくれたゼリーを、どうしても飲み込めなくて吐き出したときの、あの絶望感。
そして、ナースステーションの前のベンチで『どうやったら死ねるかな』と紬と舐め合っていた、あの暗い日々。
全部、全部、自分の「心」のせいだと思っていた。
自分が我儘だから。自分が、SNSの言葉を気にしすぎたから。自分が、弱い女の子だから。
だからご飯が喉を通らないんだと、自分を責めて、責めて、責め抜いて、最後には死の淵まで歩いていってしまった。
「え……?」
楓の小さな唇が、ぶるぶると震え出した。
「じゃあ、わたしが今まで、食べたいのに食べられなかったのって……。太るのが怖かったからじゃなくて……?」
「そうだよ、楓ちゃん」
先生は、カルテから目を離し、楓の目をまっすぐに見つめた。
「君は、太りたくないから拒んでいたんじゃない。心が弱いからでもない。体が、物理的に受け付けなかったんだ。食べたいのに食べられないって、ずっと苦しかったよね。心が原因なんかじゃ、どこにもなかったんだよ」
その瞬間、楓の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
それは、これまで流してきたどの涙とも違っていた。悔しさでも、恐怖でもない。ただ、自分の叫びが、何年もかかって、ようやく世界に届いたという、震えるような救いの涙だった。
(わたし、嘘つきじゃなかった……)
(我儘で残してたんじゃなかった……!)
「先生……!」
母親がガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、泣きながら先生の腕を掴んだ。
「それは、治療できるのですか!? 治るんですか!?」
「はい。手術でその成長していない狭い部分を切り取って、正常に育っている部分同士を縫い合わせれば、すぐに治りますよ。普通の食事が、摂れるようになります」
「ああ……っ、あああ……!」
母親はその場に崩れ落ちるようにして、楓の細い体を抱きしめた。
「ごめんね、楓、ごめんね……っ! ママ、あなたがサボってるんだと思って、ちゃんと食べなきゃダメよって、そんなことばかり言って……! 苦しかったよね、痛かったよね……!」
父親もまた、大きな手のひらで顔を覆い、肩を激しく震わせて男泣きに泣いていた。
「楓……すまなかった……気付いてあげられなくて、本当にすまなかった……!」
診察室は、家族の嗚咽と、何年分もの苦しみから解放された涙で満たされていった。
その様子をじっと見つめていた先生は、そっと眼鏡を外し、目元を拭うと、もう一度、楓に向かって深く、深く頭を下げた。
「楓ちゃん、今まで本当にごめんね。私たち医療に関わる人間が、もっと早くこれを見つけてあげられなきゃいけなかった。心因性だ、摂食障害だと思い込んで、君の本当の病気を見落として、君をずっと、ずっと一人で苦しめてしまって、本当に申し訳なかった」
ずっとそばで車椅子を支えていた、あの優しい看護師さんも、もう堪えきれずにエプロンの袖で何度も目を拭っていた。彼女は楓の元へ歩み寄ると、その骨張った小さな手を、壊れ物を扱うようにそっと、しかし力強く握りしめた。
「楓ちゃん……本当につらかったよね。よく頑張ったね……! 誰も信じてくれなくて、神様に見捨てられたみたいに寂しかったよね……っ。これからはもう、無理して食べなくて怒られることも、鼻から管を入れられることもないからね……! がんばったね、楓ちゃん……っ」
「う、うあぁぁーーーん!」
楓は、お母さんとお父さんの胸に顔を埋め、幼子のように声を上げて泣き叫んだ。
言葉にならない感情が、涙となって、身体の奥底から溢れて、溢れて、止まらなかった。
もし、もっと早くこの病気が見つかっていれば。
あんなに苦しい入院生活を送ることも、厳しい看護師に泣かされることもなかったかもしれない。
そしてーーあの屋上で、紬の手を離してしまうことも、なかったかもしれない。
失ったものはあまりにも大きく、その傷が完全に消えることはない。
けれど、何年もの間、楓の体をきつく縛り付けていた「心因性」という名の透明な呪縛が、今、確かな真実の前に、音を立てて崩れ去っていった。
窓の外からは、長い冬の終わりを告げるような、あたたかな春の光が、泣き続ける家族の背中を静かに照らし出していた。
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