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僕は、治療室に雨香(うこう)が満ちて、植村勇吾の雨(あめ)が静まるのを待ってから、背中に雨(う)を通した。
僕が、雨を引き寄せる呪い詞(まじないことば)を唱え始めると、雨の尻、雨柄(うへい)から煙よりも液体に近い霧が吹き出してくる。
部屋を暗くしているので、雨柄から吹き出した白っぽい雨が行き場を探すように、空中でクルクルと舞っているのが見えた。
僕は、その雨にゆっくりと顔を近づけてから、深呼吸をする要領で深く吸い込んでいく。
すると、口いっぱいに苦い味が広がった。
辛い味は憎しみ、酸っぱい味は悲しみ、そして、苦い味は後悔の味だ。
僕の中に入ってきた雨は、いつも通り内側から激しい攻撃を仕掛けてくる。
その激痛に耐え抜くと、凶々しい水蒸気が凍りついたみたいに一つに纏まって、息を潜めながら僕の出方を窺っていた。
僕は、その氷塊に向けて意識を集中させる。
すると、金属的なノイズに混じって途切れ途切れの声が聞こえてきた。
その声が段々と明確になってくる。
少し怒っているが、その声からは、何とか相手を諭そうと努力する様子が窺えた。
「今月に入って何回目だ?髪型の校則違反で呼び出されるの?
ウチの中学校は校則が厳しいって知ってるだろう」
聞き覚えのある植村の声が、拗ねた態度で言い返している。
「髪の長さはちゃんと守っているだろう」
男のため息が聞こえる。
「だから、髪が短くてもツーブロックはダメだって何回も言っているだろう。
お前、罰として今月から上田の世話係りをしろ」
「えーっ!勘弁してくれよ」
「学校側も苦労しているんだ。
最近は、筋ジスなんて重い障害者でも、養護学校には転学させずに、地域の中学校に入れたがるから受け入れる方も大変なんだよ。
お前も生徒なんだから協力してくれ」
男性の声は次第に高くなり、最後はキーンという金属音になって消えてしまう。
今度は、少年の申し訳なさそうな謝罪が聞こえてくる。
「植村君ゴメンね。色々と手伝ってもらって…」
「バカ、お前が一番大変なんだから、周りのことなんて気にするな。それより、病気の方はどうなんだ?良くなりそうか?」
「僕の病気はデュシェンヌ型筋ジストロフィーといって、悪くなることはあっても、良くなることなんてないんだよ。
多分、二十歳までは生きられない。
それよりも、周りに迷惑をかけていることが申し訳なくて…」
そこに、ガヤガヤと大騒ぎをする少年達の声が近付いて来る。
「何だよ植村、今日も犬のお散歩か?大変だな」
「誰が犬だって?」
「ああ、何だ上田だったのか。手足が引きつってるから、犬がチンチンしているのかと思ったぜ」
少年達の笑い声が弾ける。
「テェメー!」
「植村君やめて!」
少年の悲痛な叫び声が反響するように鳴り響いて、やがて小さくなって消えてしまう。
次に、詰問する女性の声が聞こえてくる。
「勇吾、どうして友達を殴ったのか理由を言いなさい」
「理由なんてねぇよ。
アイツの顔が気に入らなかったんだ」
すると、ヒステリックな女の金切り声が響き渡る。
「ウチの子は、何で殴られたのか全く身に覚えがないって言ってるのよ!
理由もなく突然殴りかかるなんて、一体どんな教育をしているんですか!
頭がおかしいんじゃないの?」
頭を下げながら喋っているのか、くぐもった女性の声が謝罪を続けている。
「すいません。私の教育が悪いんです。
この子には、後で厳しく言って聞かせてますので、本当に申し訳ありませんでした」
女性の啜り泣く声が、まるで鈴虫の鳴き声のように微かに聞こえてきたが、途切れ途切れになって、やがてフェードアウトしてしまう。
急に、救急車のサイレンがけたたましく鳴り響いたかと思うと、男性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「お前は、お母さんの心臓が良くないって知っているだろう。
それなのに、中学校では何回も暴力事件を起こして、高校生になったらなったで、バイク事故でお母さんに輸血までさせて、お前が心配ばかり掛けるからお母さんが倒れてしまったんだぞ。
もっと大人になれ!」
冷たい鐘の音のように、医者の「ご臨終です…」と宣言する声が何回もリフレインする。
「おい!夕子!夕子!」と逝ってしまった母親を呼び戻そうとする父親の声が虚しく響き渡る中で、絞り出すような植村の声が、「母ちゃん…」と呟いた。
そこに、父親の悲痛な慟哭が被さって、世界の終わりみたいに哀しい葬送曲が流れ始める。
その葬送曲が途切れ途切れになると、今度は、長閑な雰囲気の中で少年達の笑い声が聞こえてきた。
「そんなの嘘に決まっているだろう」
「本当だって。
駅前の廃墟ホテルに入って、カウンターに置かれた呼び鈴を鳴らしながら死んだ人の名前を呼ぶと、その人と会話が出来るらしいんだ」
「こいつ、本物のバカだわ。
今時、そんな心霊話は幼稚園児でも信じないよ」
「本当だって。二組の佐々木が死んだ婆ちゃんと会話したって言ってるんだよ」
少年達のバカにする笑い声が弾けて、ハウリングしながら消えていく。
今度は、墓地のような静寂の中に錆びついた呼び鈴の音が、カンカンと鈍い金属音を立てていた。
その鈍い金属音に混じって、少年の悲痛な叫び声が廃墟ホテルのホールに響き渡る。
「植村夕子さん、植村夕子さん聞こえていますか?
母ちゃん、聞こえているのか?
ゴメンな。母ちゃんに負担ばっかり掛けちゃって。
俺、母ちゃんにいっぱい迷惑かけたから、大人になったら、いっぱい親孝行しょうって考えていたのに、こんなに早く逝っちゃうなんて…
謝ることも出来ないじゃないか。
俺は、母ちゃんにとって恥ずかしい息子だったろうけど、俺にとっての母ちゃんは自慢の母親だったんだ。
母ちゃん、産んでくれてありがとう。
俺、母ちゃんの子供で幸せだったよ。
母ちゃん、本当にゴメンね」