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包帯無駄遣い装置が喋れなくなった話
静まり返ったポートマフィアの最上階。いつもなら、聞きたくもない軽薄な心中への誘いや、神経を逆撫でするような嫌味な高笑いが響いているはずのその場所には、ただ不自然なまでの「無」が横たわっていた。
中原中也は、ソファーにだらしなく身を投げ出している相棒を、苛立ち混じりに一瞥した。
「おい、手前……さっきから何黙りこくってやがる。いつもみたいに減らず口を叩けよ」
太宰治は、中也の呼びかけに答えない。いや、答えられなかった。首に巻かれた包帯を指先でなぞり、わずかに開かれた唇からは、ただ掠れた吐息が漏れるだけだ。 彼の「声」は、任務の負傷でも、ましてや敵対組織の呪詛でもなく、あまりに唐突に、物理的な限界を迎えたかのようにぷつりと途絶えた。医師の診断は「一時的な失声症」。精神的な疲労と、喉の炎症が重なった結果だという。
「……ふん、せいぜい静かで助かるぜ」
中也は鼻で笑ったが、その瞳には隠しきれない焦燥が滲んでいた。 太宰という男は、饒舌であることで自らの虚無を塗り潰す生き物だ。その言葉が、嘘であれ、罠であれ、毒であれ、彼が喋っている間だけは、この世界に繋ぎ止められている。その命綱が切れた今、目の前の男は、まるで見えない深淵に引き摺り込まれていく幽霊のように見えた。
太宰の瞳が、ふらりと揺れる。 彼は返事を書こうと用意された紙とペンを、苛立ったように床へ払い除けた。そして、自分の喉を、まるでそこにあるはずの機械を壊すかのように、強い力で爪を立てた。
「おい、止めろッ!」
中也が咄嗟にその細い手首を掴み上げる。 太宰の顔は、驚くほど無防備だった。いつも張り付いている不敵な笑みは剥がれ落ち、そこにあるのは、言葉を失ってパニックに陥った幼子のような、あるいは出口のない迷路に放り込まれた獣のような、剥き出しの恐怖だ。
太宰は声にならない叫びを上げるように、大きく口を動かした。 (私を、見ろ) (私を、消すな) (何か言え、中也)
音の出ない唇の動きを、中也は呪いのように読み取る。 太宰の情緒は、声という唯一の「外界との接点」を失ったことで、急速に崩壊していた。彼は、自分が自分であることを証明する手段を失ったのだ。
「……落ち着け、太宰」
中也は、自分でも驚くほど静かな声を出した。 掴んだ手首を離さず、そのまま自分の方へと引き寄せる。太宰の身体は驚くほど軽く、そして冷たかった。
「手前が喋らなくても、俺は手前の考えてることなんて、反吐が出るほど全部分かるんだよ」
太宰の目に、涙とは違う、どろりとした執着の色が混じる。 彼は中也の胸ぐらを掴み、その首元に顔を埋めた。聞こえてくるのは、不規則な心音と、荒い呼吸。言葉を介さないコミュニケーションは、太宰にとって最も忌避すべき「真実」の領域だった。しかし、今の彼にはそれしか残されていない。
(中也、中也、中也)
喉の奥で、微かな、震えるような音が鳴る。それは言葉以前の、ただの振動。 太宰は中也の肩に額を押し付け、震える手で中也の背中を強く、痛いほどに抱きしめた。 饒舌な太宰治が死に、ただの「空虚」がそこにいた。
「……チッ、包帯無駄遣い装置のくせに、情緒まで無駄遣いしてんじゃねえよ」
中也は毒突きながらも、その細い背中を大きな手で叩いた。 普段なら絶対に口にしないような慈悲を、今の太宰なら聞き流してくれるだろう。あるいは、聞こえていても、反論する術がない。
「声が出なくなろうが、手前は太宰だ。俺がそう決めてんだよ。だから、そんな化け物を見たような顔してんじゃねえ」
太宰の指が、中也の服をぎゅっと握り締める。 その瞬間、太宰の閉ざされた瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。それは失声という絶望への涙か、あるいは「自分を見つけられた」という安堵の表れか。
窓の外では、ヨコハマの夜が更けていく。 喋らない太宰と、喋り続ける中也。 逆転した二人の時間は、声のない部屋の中で、ひどく濃密に溶け合っていった。
中也は思う。 明日、この男の声が戻ったら、きっとまた最悪な嫌味を聞かされることになるだろう。 だが、その「最悪」が戻ってくるのを、自分はこれほどまでに切望しているのだと、認めざるを得なかった。
「……寝ろ。朝までここにいてやるから」
太宰は中也の腕の中で、小さく、本当に小さく頷いた。 喉の奥で、もう一度だけ、言葉にならない何かが震えた。
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