大学へ向かうあいだ、ずっとおれは男に貰ったハンカチを、見つめていた。
貰った直後のときのような、目の奥が熱くなる感覚はもう感じられなくなっていた。でも微かな嬉しさは残っている。
野郎に、あんなことをされた過去がないからか、──あるいは別の想いがあったか──分からないけど、こんな不思議な気持ちになったのは生まれて初めての事だった。
それから数日が経ってから、 おれはいつも通り大学内にあるベンチに腰掛けて、目の前にある白いテーブルにノートを広げて課題を進めようとした。
「ローさんっ!」
突然背後から声をかけられた。気づいた頃には、俺の肩にはペンギンの腕がまわされている。
「あァ ?」と、おれはつい声を漏らす。
すると──
「怖いっすよ!ローさん」
──なぜか、ビビられた。どこが怖いのか、おれには見当がつかない。そんなに、今のが怖いものだったのだろうかと思うと、薄らと落ち込んだ気がした。ペンギンとも長い付き合いだが、あいつにとっておれはそう見えているのか、と考える。
「…仕方ねェだろ」
「いやいや、どこが」
おれの落ち込みも気にせずズバッと言ってきたペンギンを睨んだ。だけどペンギンはそれを無視して質問をしてきた。
「それ、なんすか?」
顔を歪ませペンギンを見上げたあと、口を開く。
「何のことだ」
ペンギンの言う、「それ」が何なのか分かっていなかったおれは問い返す。ペンギンは驚いたような顔をしていたが、すぐにいつもの笑顔にもどっておれの顔を覗き込んできた。
「ん」と声を出しながらテーブルを指さした。
「………あァ、これか」
ペンギンの指が示したものは、ひとつの手巾。
「ただの、ハンカチだ」
素っ気のない態度でそういってやると、 ペンギンはへらっとした顔をしてから、おれの肩に乗せていた腕を退かした。おれはすぐにベンチの後ろにいるペンギンを見上げる。
「そもそも、おまえは何の用だ?」
当然、何もなしに話しかけに来たわけじゃないだろうと思いつつも一応聞いた。 ペンギンは、特に用事はないけどおれを見つけたから話しかけた、とおれに告げた。
「…ふぅん」とおれは鼻を鳴らす。
もう少し興味のある話を持ってこいよ、が半分。いつまで経っても昔のままで変わらないペンギンの性格に呆れ返ってる自分がもう半分だった。
するとペンギンがまた話題を戻してきた。
「てか、ローさん。そんなピンクの、ましてやハートの刺繍の可愛いハンカチを持ち歩いてるなんて、ローさん変わりました?」
誰かに貰ったのかと聞かれたが、おれは何も言わずに黙ったまま目を逸らす。
「…あ〜やっぱり!誰かに貰ったんだ?」
ニヤニヤしながら話を続けるペンギンに、これ以上詮索するならぶん殴ると、おれは忠告した。
「あいあい」と返事をしたあと、ペンギンが腰に手を当てて、軽く伸びをしていた。多分、もう戻るのだろう。
「……なァ、ペンギン?」
おれは、立ち去ろうとするペンギンを咄嗟に引き止めた。
「ん?」
「今日の夜、空いてるか?」
***
午後八時、一件の飲食店で二人の影が見えた。
「すまねェな、急に誘って」
「いえいえ〜。ローさんからのご飯のお誘いなんて、滅多にないんですし。あと嬉しいし♡」
素直すぎるペンギンには、これが一番効果的なんだろうか、と俺は思った。
「二品までだからな」
「え、さすがに少なくない?」
「普通のことだろ…」
などと簡単で、穏やかな会話を続けていく。
ペンギンとは、学科は違うがなにかと世話になっている。実際こいつのほうがおれより年上なんだ。なのに立場がいつの間にか逆転していた。
ペンギンも、シャチも、ベポも、おれの友達だから、絶対に失いたくない。もちろん、ヴォルフのじいさんにも世話になった。おれが初めてこの街に来たとき、行くあてもなく、頼れる人間もいなかった。でもヴォルフは、自分の家におれを居候させてくれた。その時おれは、久しぶりに人の優しさに直接触れて、感じた。
ま、そんな思い出話にふけってる場合ではなく、おれは目の前の食い物に集中しようとフォークを手に取る。おれも、今は腹が減っているしな。
「ここのスパゲティ、超美味い…」
ペンギンが感嘆の声を漏らす。
「たしかにな」とだけおれは共感しながら、フォークでくるっとスパゲティを掻き回して、口に運んだ。
ここもだ。この店も、今日初めて来た。
初めて来る知らない場所で、初めて食う味。
スパゲティなんて、世の中知れ渡っているけれど、全部が全部どれも味が同じなわけじゃない。 だから、おれにとっては初めても、結構好ましかった。
メインを食べ終わってからも、おれは甘味を堪能しているペンギンを見つめていた。
「このパフェがちめにエグい!ばり美味い!」
ペンギンは語彙力を失っていたが、それが美味しいといわんばかりにパフェを頬張り、口の周りにはクリームをつけていた。
「もうデザート食ってんのかよ」
「当たり前じゃないっすか。スパゲティなんておれが食ったらすぐ無くなるっすよ!それに、ローさんの奢りだもん。特大パフェくらい頼みますぅ!」
「……そんなもんなのか」
おれはもう、おなかいっぱいだ。
それに、ペンギンが美味そうに食っている姿をこの眼に映すだけで、おれは満足している。
「おまえらが、ずっと元気にしてりゃ、おれはどうなってもいいって思う」
頭の上に疑問符を浮かべたかのように、ペンギンは頭を傾げておれを見上げる。そしてすぐに口を開きおれに問いかける。
「どうしたの、急に。いつもより感傷的?」
「今のは、忘れてくれ。口が滑った」
「滑った?今のが?」
ぷぷっと揶揄うようにペンギンは鼻で笑った。
今度はおれが頭の上に疑問符を浮かべる番のようだった。
「何がおかしい?」
……今のは、笑える言葉だったのかは分からない。いつもなら、フル無視していたのに、今日はどうしても訊きたくなった。二人だけの空間だからというのも相まって。
「ローさん」
いつもより低い声で俺の名を呼ぶ。
「さっきは笑っちゃったけど、おかしいとは思って笑ったんじゃないよ。だっておれも、シャチたちも、きっとローさんと同じことを思ってる」
「なぜ?」
そう聞くと、ペンギンは持っていたスプーンを紙ナプキンの上に置いて、頬杖ついてから問いに答えるように、声を発した。
「そりゃあ、ローさんだからに決まってますよ」
おれは、その言葉を瞬時に理解することが出来なかった。 少し間をあけて考えた。考えあぐねた末に分かったことがあった。それは、その言葉の意味を理解するのはきっと不可能だと、おれのなかでそう断定された気がしたことだ。
でもそれは、いま、この瞬間だけのこと。不可能なんてものは誰かが可能にさせるもんだ。
そんなポエムもどきのような考えを、おれは、ペンギンに正直に言えるはずはなく、知ったかぶった雰囲気を出して話を続けていった。
「それじゃあ、また明日ね。ローさん!」
暗闇のなか、ひとつの蛍光灯がペンギンを照らしている。それが唯一のペンギンの顔を確かめられる光だった。
「あァ。また明日」
別れを済ますと、おれは自宅へと向かう。
この街は都会だ。霧に揉まれて最上階も見えないようなビルも、遊園地のきらきらと七色に光り輝く大きな観覧車だってある。欲しいものがあればすぐに買えるように、何もかもが揃っているんだ。そしてみんなも幸せそうに笑っている。
あァ、なんだ?この街はメルヘンで出来ているのか?とおれは時々思う。
なのに思う一方で、おれは満足できない。
──なぜだ?なにが物足りない?
きっとそれを、だれに問いかけたとしても答えはみな同じなんだろう。
秋の訪れを感じられる、薄ら寒い風が吹いていた。半袖でも過ごせれる温度でも、ふいに上着を欲してしまいそうだった。
おれは扉の前に立っている。あとは鍵を挿すだけで、暖かい部屋に入れる。
「…さみ 」
やはり身体が冷えているのか、少しの震えが感じられた。あァ、早く風呂に入りてェな。
そう思った時、バタンっと、後ろのほうで何かが倒れる大きな音がした。
「なんだ…?」
恐る恐る、後ろを振り返ってみる。
おれは、目を見開き下方を見つめ、そしてつい「わっ!」と大きな声を出してしまいたくなった。
なんと。驚いたものだ。
地面に這い蹲っていたのは、あの時の大男ではないか。時間が経つにつれて、ペンギンと食事していた時に浮かんだちっぽけな疑問よりも、いまはそれに加えて恐怖が膨れ上がってゆく。でもひとが倒れているのならこの場で応急処置をしたい。なのに脈拍は正常、顔色も大丈夫、外傷も特に見受けられない。そんな状況でおれは──
「……えっと、、ん?」
──どうも頭がこんがらがっているらしい。
「おいあんた、大丈夫……なのか?」
おれは男に質す。気を確かではないことは知っていたが、念の為の生存確認だ。
「うぅ…」と唸る男は答えてくれない。
おれは気が待てず、男のバッグからポケットの至る所まで鍵を探し出す。
くそ。早く風呂に入りてェのになんでこんなことを。そう思っていても体は勝手に動いていく。
「あった…」
鍵を見つけたので、これで男の部屋に入れるようになった。でも、勝手に入ってもいいのか?男の気が戻って、警察にチクられでもしたらたまったもんじゃねェ。それでも、こんな場所で寝て、明日の朝には死んでましたなんてあったら余計警察沙汰になっちまう。
「あー、なんでだよ…」
おれは鍵を男の懐に戻し、自分の部屋までよせよせと引き摺りながら運んだ。
自室のベッドに男を寝かせると、おれはすぐに湯を沸かす。タオルを火傷しない程度の温かさになったお湯につけて、それを男の額にのせる。
そのとき、おれはあることに気づいた。
「……さっきより、熱上がってないか?」
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