テラーノベル
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第2話「変わり始めた世界」
午後6時52分。
ニューヨーク、クイーンズ。
バスの車内には、焦げたゴムと冷たい雨の匂いが漂っていた。
ピーター・パーカーは、座席の背もたれをつかんだまま、窓の外を見つめていた。
数メートル先で、配送トラックが横向きに停止している。その前方には、交差点から飛び出してきた乗用車。衝突の衝撃で砕けたヘッドライトの破片が、濡れた路面に散らばっていた。
運転手が何度も謝罪している。
乗客の一人が携帯電話を取り出し、警察に通報していた。
誰かが怒鳴り、誰かが泣き、誰かが事故の様子を撮影している。
いつものニューヨークだ。
事故が起きれば、人が集まり、騒ぎになり、やがて救急車がやってくる。
それだけのことだった。
しかし、ピーターの心臓は、いつまでたっても落ち着かなかった。
彼は事故の瞬間、確かに感じた。
何かが起きる。
その確信が、理由もなく頭の奥に突き刺さったのだ。
そして、体が動いた。
考えるよりも早く。
まるで、目に見えない誰かが彼の体を動かしたかのように。
「ピーター?」
隣の席から、レオが顔を覗き込んだ。
「おい、大丈夫か? さっきから顔色が悪いぞ」
「……大丈夫」
「本当に?」
「ちょっと疲れただけだよ」
ピーターは窓から視線を外した。
嘘だった。
自分でも、何が起きたのか分からない。
ただ、認めてしまえば、今まで当たり前だった世界が根本から変わってしまうような気がした。
やがてバスは走行を再開した。
ピーターは座席に深く腰を下ろし、両手を膝の上に置いた。
右手首には、クモに噛まれた跡が残っている。
二つの小さな点。
それだけだった。
たったそれだけのことが、なぜこんなにも気になるのだろう。
彼は袖を引き下ろし、その跡を隠した。
窓の外では、夕暮れの街が後方へ流れていった。
その景色の中に、昨日までと何も変わらないものなど、一つもないように思えた。
午後7時31分。
パーカー家。
「おかえり、ピーター!」
キッチンからメイ・パーカーの声が聞こえた。
「夕食、もうすぐできるわよ。今日はあなたの好きなチキンにしたの」
「ありがとう、メイおばさん」
ピーターは玄関で靴を脱いだ。
家の中は暖かかった。
古い木製の床。壁に掛けられた家族写真。使い込まれたソファ。テーブルの隅に置かれた、読みかけの新聞。
どれも見慣れたものだった。
なのに、妙な違和感があった。
換気扇の回転音が聞こえる。
冷蔵庫の低い振動音も。
二階で動く時計の針が刻む、かすかな音まで。
ピーターは階段の途中で足を止めた。
「……何だ、これ」
耳がおかしくなったのかと思った。
だが、音は確かに聞こえている。
今までなら意識することさえなかった、小さな音の一つ一つが、頭の中で明確な輪郭を持っていた。
「ピーター?」
メイが階下から声をかけた。
「手を洗ってきなさい。ご飯にしましょう」
「うん、今行く!」
ピーターは再び階段を上った。
自分の部屋に入り、リュックを床に放り投げる。
そして、机の前に座った。
まずは、落ち着こう。
今日はいろいろなことがあった。
研究所でクモに噛まれた。帰りのバスで事故に遭遇した。普段よりも遠くのものが鮮明に見え、聞こえないはずの音まで聞こえた。
偶然だ。
そうに違いない。
ピーターは机の上に置かれた教科書を開いた。
文字を読もうとする。
しかし、数行進んだところで、彼は眉をひそめた。
読むのが、妙に速い。
一度目を通した文章が、頭の中にそのまま残る。
数式を見れば、答えに至るまでの過程が以前よりも明瞭に浮かんでくる。
ピーターはページをめくった。
さらに、もう一枚。
理解できる。
普段なら何度も読み返していた箇所が、一度読むだけで頭に入ってくる。
彼は教科書を閉じた。
「……あり得ないだろ」
そのときだった。
机の端に置いてあった鉛筆が、床へ転がり落ちた。
ピーターは反射的に手を伸ばした。
指先が鉛筆に触れる。
落下が止まった。
彼は自分の手を見つめた。
鉛筆は、指先と親指の間に挟まれている。
ただ、それだけのことだ。
しかし、彼には奇妙な感覚があった。
鉛筆がどの方向へ、どのくらいの速度で落ちていくのか。
自分の手をどこへ動かせば、確実につかめるのか。
それらが、まるで最初から分かっていたかのようだった。
ピーターはゆっくりと鉛筆を机に戻した。
そして、自分の右手を握り締めた。
何かが変わっている。
それだけは、もう否定できなかった。
午後8時16分。
夕食を終えたピーターは、自室に戻っていた。
メイはテレビの前でニュースを見ている。
画面からは、昼間の研究所で発生した警報についての報道が流れていた。
『クイーンズ地区のノーススター生物研究所で、本日午後、設備の不具合が発生しました。施設側は安全上の問題はないと説明していますが、詳しい原因については明らかにしていません』
ピーターは階段の途中で立ち止まった。
テレビの画面には、研究所の正面玄関が映っていた。
報道陣に囲まれた職員たち。
閉じられた自動扉。
入口の脇には、警備員が二人立っている。
『施設の広報担当者によると、一部の研究設備で環境制御システムに異常が確認されたものの、見学者や職員にけが人は出ていないということです』
ピーターは自分の手首を見た。
あのクモ。
黒い体に、赤い模様。
もし、あれが研究所から逃げ出した個体だったとしたら。
もし、普通のクモではなかったとしたら。
「ピーター、どうかしたの?」
メイの声で我に返った。
「ううん。何でもないよ」
「学校で何かあった?」
「いや、別に」
メイは少しだけ心配そうな顔をしたが、それ以上は尋ねなかった。
「疲れているなら、早く休みなさい。明日も学校でしょう?」
「分かった」
ピーターは階段を上り、自室へ戻った。
ドアを閉める。
数秒間、その場に立ち尽くした。
そして、部屋の中を見回した。
自分の机。
本棚。
ベッド。
窓。
いつもの部屋だ。
ピーターは、試してみることにした。
まずは、単純なことから。
彼は机の前に立ち、両手で机の縁をつかんだ。
普段なら、持ち上げようとすれば腰に力を入れる必要がある。机の脚が床をこすり、重たい音を立てるはずだ。
彼はゆっくりと力を込めた。
机が浮いた。
「……え?」
ほんの数センチ。
それでも、机の脚は確かに床から離れていた。
ピーターは慌てて手を放した。
机が床に戻り、鈍い音が響く。
数秒間、空いた口が閉じなかった。
机の上には教科書やノートが載っている。
その重量を考えれば、片手で動かすことさえ簡単ではないはずだった。
なのに。
彼はもう一度、机の縁に手をかけた。
今度は、先ほどよりも少しだけ力を加えた。
机が持ち上がる。
ほとんど抵抗を感じない。
ピーターは息を止めた。
そして、ゆっくりと机を元の位置へ戻した。
「何なんだよ、これ……」
声が震えていた。
力が強くなった。
それだけなら、まだ理解できる。
しかし、どうして突然?
病気なのか。
何かの薬物による影響なのか。
研究所で吸い込んだ化学物質が原因なのか。
考えられる可能性を並べてみる。
どれも、確かな答えにはならなかった。
ピーターは窓際へ歩いた。
外は暗い。
隣の建物の窓から、テレビの光が漏れている。
道路には車が走り、遠くでサイレンが鳴っていた。
そのとき。
彼の右手が、窓枠に触れた。
指先が止まった。
いや、止まったのではない。
くっついていた。
ピーターは眉をひそめ、手を引いた。
離れない。
「……は?」
彼は手首をひねった。
指先が窓枠をつかんでいるわけではない。力を入れて握り締めてもいない。
それなのに、手のひらが表面に吸い付くように固定されていた。
ピーターは慎重に、一本ずつ指を動かした。
指先が離れる。
次に、手のひらを浮かせた。
ようやく手が離れた。
彼は自分の掌を裏返した。
何もない。
接着剤も、液体も、目に見える異常もない。
ピーターはもう一度、窓枠に手を押し当てた。
今度は、先ほどよりも明確に感覚が伝わってきた。
表面の細かな凹凸。
塗装のわずかなざらつき。
指先が触れている部分の、奇妙な密着感。
彼は恐る恐る手を離した。
「クモ……」
その言葉が、自然と口から漏れた。
研究所で見たクモ。
赤い模様。
手首に走った痛み。
そして、今日になって突然現れた異常。
偶然で片づけるには、あまりにも多くのことが重なっていた。
ピーターは窓から離れ、部屋の中央に立った。
心臓が速く打っている。
自分の体に、何が起きているのか。
その答えを知るためには、もう少し確かめる必要があった。
彼は部屋の壁に近づいた。
右手を伸ばす。
指先を壁に触れさせた。
そして、ゆっくりと手のひらを押し当てた。
くっついた。
今度は、はっきりと分かった。
ピーターは左手も壁につけた。
両手が固定される。
恐る恐る、右足を壁に押し当てる。
靴底が張り付いた。
次に左足。
彼は壁に四肢をつけたまま、動きを止めた。
冗談だろ。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
しかし、これは冗談でも夢でもなかった。
ピーターは右手を少し上へ動かした。
壁に沿って、手が滑らかに移動する。
左手も続ける。
右足、左足。
一歩ずつ。
壁を登っている。
重力に逆らって。
まるで、自分の体が壁の一部になったかのように。
ピーターは顔を上げた。
天井まで、あと少しだった。
「うそだろ……」
声がかすれた。
彼はゆっくりと天井へ手を伸ばした。
指先が触れる。
くっついた。
そして、最後の一歩を踏み出した。
次の瞬間。
ピーター・パーカーは、天井に張り付いていた。
頭の中が真っ白になった。
下には、いつもの自室が広がっている。
机も、ベッドも、床に落ちたリュックも。
すべてが逆さまだった。
彼は恐る恐る片手を離した。
体は落ちなかった。
もう片方の手も離す。
それでも、落ちない。
両足だけで、天井に張り付いている。
ピーターは思わず笑いそうになった。
いや、笑えなかった。
理解が追いつかない。
自分の体が、常識を無視している。
何が起きているのか分からない。
ただ、確かなことが一つだけあった。
昨日までの自分には、こんなことはできなかった。
午後10時04分。
ピーターは何とか床に戻り、ベッドの端に腰を下ろしていた。
壁を登ることも、天井に張り付くことも、できてしまった。
力も、感覚も、反射神経も。
すべてが変わっている。
彼は机の上からノートを取り、今日起きたことを書き出した。
『視覚の変化』
『聴覚の変化』
『筋力の異常な増加』
『手足が壁や天井に張り付く』
最後に、少し考えてから書き加えた。
『危険を事前に察知する感覚』
ペンを置く。
彼はしばらく、その文字を見つめていた。
もし、これらがすべて同じ原因によるものだとしたら。
自分の体は、普通の人間とは違う仕組みで動き始めているのかもしれない。
そんな考えが浮かんだ。
そのとき、机の上の携帯電話が振動した。
レオからのメッセージだった。
『今日の数学の課題やった?』
「あぁ、さっき終わった」
『俺全然終わんねぇわ。そもそもあの先生の説明が分かりにくいんだよなぁ。わりぃ、明日の朝写させてくれ。』
「はいはい、明日な。」
ピーターは小さく息を吐いた。
こんな状況でも、明日はやってくる。
学校があり、課題があり、授業がある。
自分が何者になりかけているのか分からなくても、世界は待ってくれない。
携帯電話を置き、ベッドに横になる。
天井を見上げた。
ほんの数時間前、彼はそこに張り付いていた。
その事実が、まだ信じられなかった。
ピーターは右手首を見た。
クモに噛まれた跡は、ほとんど消えている。
皮膚には、かすかな赤みさえ残っていなかった。
彼は目を閉じた。
明日になれば、何か分かるかもしれない。
そう考えることにした。
ノーススター生物研究所では、異常を知らせる警告音が鳴り続けていた。
地下四階。
生物管理室。
研究員の一人が、監視映像を巻き戻していた。
「博士、これを見てください」
エレナ・クロスはモニターの前に立った。
映像には、見学者たちが廊下を移動する様子が映っていた。
そして、一瞬。
画面の隅に、制服姿の少年が映り込んだ。
その少年が手首を押さえ、振り返る。
エレナは映像を停止させた。
少年の顔を拡大する。
「……この子は?」
「見学者名簿によると、ピーター・パーカー。クイーンズの高校生です」
エレナは画面から目を離さなかった。
「接触の可能性は?」
「確認できていません。ですが、逃げ出した個体の映像を解析したところ、通常の移動経路とは異なる行動を取っていました」
「どういうこと?」
研究員は別の映像を表示した。
飼育ケースの内部。
小さなクモが、壁面を登っている。
その動きは、通常の個体よりもはるかに速かった。
「この個体は、神経反応だけでなく、付着能力にも異常が見られました。さらに、輸送時の温度変化によって、未知の生体反応が活性化した可能性があります」
エレナの表情が硬くなった。
「可能性、では困るわ。何が起きたのかを突き止めて」
「はい」
研究員が退出すると、エレナは一人でモニターを見つめた。
画面の中で、少年は何も知らない様子で歩いている。
彼女は机の引き出しから、輸送ケースの記録を取り出した。
赤い警告表示。
予測値を超えた神経反応。
そして、消えた一匹のクモ。
いくつもの異常が、一本の線でつながり始めていた。
「まさか……」
エレナは小さくつぶやいた。
その声は、誰にも聞かれなかった。
午前6時12分。
翌朝。
ピーターは目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
窓の外から、鳥の声が聞こえる。
道路を走る車の音。
階下でメイが食器を並べる音。
すべてが、昨日よりも鮮明だった。
彼はゆっくりと上半身を起こした。
一晩眠っても、何も元には戻らなかった。
それどころか、体は妙に軽い。
頭もすっきりしている。
ピーターはベッドから降り、床に足をつけた。
そして、何気なく窓の外へ目を向けた。
向かいの建物の屋上。
そこに、一羽のハトが止まっている。
数十メートルは離れているはずなのに、羽毛の重なりまで見えるような気がした。
彼はカーテンを閉めた。
「普通にしろ、ピーター」
自分に言い聞かせる。
「学校へ行って、授業を受けて、帰ってくる。それだけだ」
着替えを済ませ、リュックを背負う。
いつもどおりの朝を演じればいい。
昨日のことは、誰にも話さない。
少なくとも、何が起きているのか分かるまでは。
ピーターは階段を下り、メイに朝の挨拶をした。
「おはよう」
「おはよう、ピーター。よく眠れた?」
「うん。ぐっすり」
それも、半分は嘘だった。
朝食を済ませ、玄関を出る。
冷たい空気が頬に触れた。
ニューヨークの街は、今日も動き始めていた。
人々は歩き、車は走り、地下鉄は地下を駆け抜けていく。
昨日と同じ街。
昨日と同じ生活。
けれど、ピーターの目には、すべてが違って見えていた。
歩道の向こうから自転車が近づいてくる。
その速度。
ペダルの回転。
運転手の視線。
ほんの一瞬で、いくつもの情報が頭に流れ込んだ。
ピーターは歩道の端へ一歩移動した。
自転車は彼のすぐ横を通り過ぎていく。
何事もなかった。
彼は立ち止まり、自分の手を見つめた。
今の動きも、自然にできた。
考えるより先に、体が動いていた。
そのとき、頭の奥で、かすかな感覚が生まれた。
昨日、バスの事故の直前に感じたものと同じだった。
鋭くはない。
まだ遠い。
しかし、確かに何かを告げている。
ピーターはゆっくりと顔を上げた。
交差点の向こう。
歩道を歩く人々の中に、何か異変があるわけではない。
それでも、彼の体は警告していた。
理由は分からない。
危険がどこから来るのかも分からない。
ただ、その感覚だけは、昨日よりも明確だった。
ピーターは息を整え、再び歩き始めた。
彼はまだ知らない。
この力が、彼に何をもたらすのか。
そして、この力を手にした人間が、何を選ばなければならないのか。
少年は、いつもの通学路を進んでいく。
その背中に、朝日が差し込んだ。
昨日までの世界は、もう戻らない。
そして、ピーター・パーカーの物語は、ようやく始まったばかりだった。
第2話「変わり始めた世界」・完
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コメント
1件
第2話、とても丁寧に読ませてもらいました。壁に張り付く感覚を「くっつく」と表現するところが本当に印象的で、ピーターの戸惑いが直に伝わってきました。まだ何者か分からない自分を「普通にしろ」と言い聞かせて学校へ向かう姿に、胸がきゅっとなりました。研究所側のエレナ博士も登場して、物語が動き出す予感がしてわくわくします。続きが楽しみです。