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回廊に設けられた中二階は、手狭な接続路に通じていた。
一転して薄暗い廊下には、何かしら物品を納めたダンボールや古い蛍光灯が端々に放置されていた。
「こちらでお待ちください」
程なく、大きな扉の前で指示があった。
鉄板を雑に割り当てたようなそれを押し開くと、内部は非常に暗がりが目立ち、広さこそ定かでないがやけに圧迫感を及ぼすものだった。
辺りに人の気配は無く、スタッフが詰めている様子は確認できない。
先ほどの彼も、扉の前できっかりと道案内を終えた。
とばっちりを恐れてか、荒事をひかえた出場者にはあまり近づかないよう、取り決めがなされているのかも知れない。
「なんか埃っぽくない? 目ぇゴショゴショする」
「知らね。 そんな気がするだけじゃねえんですか? 姐御 花粉症だっけ?」
思い余って相棒に声をかけたところ、不服そうな物言いが返ってきた。
ぼんやりとライトアップされた手近の側壁には、数種類の武具が展示物のようにあしらわれている。
好きなものを選べという事だろうか。 ものは大部分が木製で、然程(さほど)の危うさは感じられない。
もっとも、当たり所によっては致命傷になるという点においては、木製も鉄製もあまり大差はない。
ここに来て、今大会の恐ろしさをまざまざと見せつけられる思いだった。
「血の雨降らすんじゃねえんですか? つまんねえの」
「ちょっと待ってて」
「うちも行きたいんですが」
「ん。 すぐ戻るから」
掛台から適当な木剣を見繕い、入れ替わりに当の相棒を一旦あずけておく。
かるく手の内を確かめていると、途端に耳を劈(つんざ)くブザーが鳴った。
何事かと目を剥いたが、いよいよその時が来たらしい。
黒塗りの壁とばかり思っていたものが、実は巨大な鉄扉だったようで、これが間もなく軋みを上げて開け払われた。
瞬間、暴風のように押し寄せた歓声が、図らずも肩を窄(すぼ)める葛葉の気胆を、散々にも脅しつけた。
「………………」
意を決し、明るみの向こうへ歩み出る。
強(したた)かに目が眩む一方、夥しい目線というのはここまで暴力的なものかと、言いようのない所感が湧いた。
正面を見ると、同様の扉から現れた対者と思しき男性が、同じくグラウンドの中央を黙々と目指している所だった。
実直な法服に身を包み、片手には束(たば)ねた鞭を提げている。
体格はとくに著(いちじる)しいものではなく、こういった大会に名乗りを上げるには、いささか頼りない印象を受けた。
ただ、目つきが悪い。
単に負けん気の表れでは無いだろう。 特に好戦的な印象も見受けられない。
まるで世の汚濁を詰め込んだような目の色は、じつに病的で気味の悪いものだった。
「あ?」
詮方ない思いで視線を泳がせたところ、観客席の中ほどに目が留まった。
モルタルの壁で間仕切りされた一定の区画は、前面がガラス張りになっており、来賓用の個室席として機能しているようだった。
他の要人に混じって安楽椅子を利用するリースが、こちらに向かって一生懸命に手を振っているのが見えた。
「やー、始まりましたなぁ!」
紅一点のブロンド娘をチラチラと窺いつつ、賓客の一名が興奮気味に言った。
これに上辺の愛想をほどこした町長は、息を押し殺して盤上の二名を見やった。
彼女を初戦に配置したのは、まずい手だったか。
何しろ今大会の目玉だ。 早々に脱落するような事にでもなれば……。
少なくとも、試合相手には気を配るべきだった。
よりによって、あの有名な札付きとは。
彼がこの町に流れついたのは、もう何年前の事か。
他所では長らく牧師を務めていたそうで、性格は温厚な上に義理堅く。 身辺に良からぬ噂が立つような事も無かった。
早くに失くした家族を弔いつつ、人心に神の愛を説くという、今日(こんにち)ではむしろ見上げるべき性根の持ち主だった。
そんな彼が本性を表したのは、ちょうど三年前の事だった。
あの勤勉で実直な男が、何を思ったか本大会の参加者として名乗りを上げた。
彼を敬愛する住民は大いに困惑したが、いざ試合が始まった途端、そのやりように唖然とした。
まるで畜生を相手取るかのように鞭を振るった彼は、しきりに愛を説きながら対戦者をこっぴどく打ちのめしたのだ。
その模様に恐れをなす住民がいる一方で、これを類いまれな勇姿として見る者も少なくなかった。
武芸の町、武の都。 まったくわが町の因業とは恐ろしい。
さて、彼女の技量がどれほどのものかは知らないが、初戦からあれはマズい。
過日は巨大な狼を退(しりぞ)けたという噂だが、それも眉唾だろう。 尾ヒレとは得てしてそういうものだ。
仮に事実だったとしても、最善の得物を執ってこその“御遣”と聞く。
ここで倒れるような事にでもなれば……。
いや、あの見目(みめ)だ。
それならそれで観客の眼を、住民たちを楽しませてくれるに違いない。
「邪教の方、あなたは神の愛を信じますか?」
「あん? さぁ……、どうかな」
言うに事欠いて、先方が余りにもアホな質問をするもので、葛葉は立ちどころに脱力を余儀なくした。
釈迦に説法とはよく言った。
「あなたの信じる神は神ではありません。 分かりますね?」
「あぁ、分かる。 分かるよ?」
「邪教の方、あなたの心は惑(まど)っている」
「お、分かる?」
こういう手合いは面倒だ。 まともに相手をしては、きっと日が暮れる。
「神はご覧になっていますよ? あなたの悪態を」
「や、どうかな? あのヒトら割りと忙しいし……」
「その身の汚(けが)れも。 神はすべてをご存知です」
「失礼だねあなた? こちとら新(さら)っぴんじゃコラ」
気がつくと、怒涛のような歓声が、次第に耳を脅かす野次に取って代わりつつあった。
はやく始めろという事か。
「ほれ、掛かって来なさいよ?」
「邪教の方、私はあなたを正さねばなりません」
「邪教邪教ってこの野郎……」
こういう手合には解るまい。
他所さまを貶(おとし)めることは、すなわち我(が)を汚すこと。
いやしかし、話振りや見てくれから判断して、牧師か何かで間違いないだろう。 ふと、身につまされる説話を思い出した。
家を欲する者には材木をくれてやる。 宝石を欲する者には鉱(あらがね)をくれてやる。
武器を欲する者には良心を説き、争いを欲する者には愛情を説く。
新婚の夫婦にはそよ風を贈り、垢にまみれた男には雨雲を贈る。
だから争わないで。 誰も恨まないで。 どうか幸せに。
いつしか、材木は他国を侵略するための帆船に。 鉱は鉄砲に。
戦場に良心や愛情はいらず。
そよ風は粗末な家には堪(こた)えるすきま風に、身なりを整えた男は晴れて花嫁を奪いに走った。
逆運と言えばそれまでだ。
しかし、その都度 世界が流した血の涙は──
「お前さん、閻魔って知ってるかい?」
「いえ、どなたでしょう? 思うに邪教の」
「そのヒト私の千倍くらい怖いから。 この事、あとでじっくりと考えてみなさいな」
刹那、神足通の起動にともなって拉(ひしゃ)げた大気が 間を置かず膨張し、雷鳴のような噪音が一帯を震撼させた。
その後先に、木剣の折損する乾いた音がカンと鳴った。
観衆が何事かと目を見張るなか、地中に上半身を埋(うず)めた男性が、忍びなく沈黙している。
これに見向きもせず、葛葉はさっさと踵(きびす)を返した。