次に凪が目を覚ますと、千紘が未だに抱きついたまま眠っていた。肌が重なっている部分は温かく、重たい瞼をゆっくり持ち上げながら大きなあくびをした。
腕を動かせば、自然と指先が千紘の髪に触れた。柔らかな髪は、ブリーチしているにもかかわらずほとんど傷んでいない。
すげ……どんだけメンテナンス完璧なんだよ。コイツ、ずっとこの色なんかな。
初めて顔を認識した時から明るいミルクティー色。大体明るい色をしている人間の髪は、頭皮に近い部分と毛先とで色が変わったり、パサついたりするものだが、千紘の髪は初めて会った時と同じ綺麗な状態を保っていた。
凪も何度も明るい色を試したが、1ヶ月もったことはない。大体不潔感が出る前に切ったり染め直したりするのだ。純粋に千紘の髪がとても綺麗だと思った。
掌全体で髪を触れば、ふわふわと柔らかく指に馴染む。思えば、こうしてちゃんと触ったのも初めてな気がした。
指間に入れ込むようにぎゅっと掴んでみる。さらっと指通りがよく、手を開くとハラハラとこぼれていく。
髪綺麗なのは反則なんだよなぁ……。
凪はそう思いながら、触り心地抜群の艶やかな髪を何度か撫でた。頭を撫でるつもりなどまるでなかったが、その美しい髪だけは褒めてやってもいいと思った。
爆音のアラームでは、全く目を覚まさなかった千紘だが、心地よい感覚にはすぐに気が付いた。優しく髪を触る感覚を後頭部に感じた。目の前の胸板と凪の匂い。それから、温もりと手の感触。
凪に頭を撫でられているのだと気付いた瞬間、ふわふわと軽くて甘い気持ちに包まれた。
なに、この幸せな時間……。
千紘にも何が起こっているのか理解できなかったが、こんな幸せを夢かもしれない、なんて夢見心地で終わらせられるか。と記憶を頭に叩き込んだ。
千紘の頭に手を置いたまま動きを止めた凪。それからすぐにまた撫でてくれるのを期待したのだが、凪の手が動くことはなかった。
千紘は目を開けたままじっと待っていたのだが、遂に痺れを切らして「もう撫でてくんないの?」と尋ねた。
「……起きてたのかよ」
気怠そうな凪の声が響く。千紘はこくりと頷いて、「うん。気持ち良くて起きた」と凪の胸にピッタリとくっついた。
「あの爆音で起きなかったくせに」
「あれはね、起きないよね。あんな機械的な音じゃ」
「わけわかんねぇ。よくそれで仕事遅刻しないよな」
「たまにする」
「すんのかよ」
完璧に仕事をこなすカリスマ成田千紘が頭の中にいた凪は、あきれたように顔をひきつらせた。実態は、凪が知っている千紘のイメージそのものだったからだ。
「でもカットには間に合うよ」
「当たり前だろ。客待たせんなよ。ただでさえ予約取れねぇんだから」
「んー。気を付ける」
やけに素直な千紘を不審に思う凪だったが、素直な千紘ならまだ可愛気があるものだと鼻から息を吐く。
「夜遅いのか、帰るの」
「遅い時もあるよ。カットの練習したり」
「お前でも練習とかすんの?」
凪は驚いて、無意識に顔を歪めた。感覚だけでカットしているイメージだった。それなりに努力はしているだろうが、一定数の顧客がいれば仕事の後までカットの練習などしなくても毎日数をこなせるだろうと思ったのだ。
「するよ。流行りは変わるからね。新しい髪型が出てきたり、時々アニメのキャラクターの画像を見せられたりするからこっちも柔軟に対応できないと仕事にならないの」
ふわふわとした千紘らしい柔らかい言い方だったが、内容は至って真面目だった。そのギャップに凪はふふっと笑みが溢れた。
「なぁに、笑うところあった?」
凪の体が揺れたことで、笑われていると気付いた千紘はすっと顔を上げた。
「いや、別に。遅刻するくせに真面目は真面目なんだと思って」
「まあ、技術はね。それが売りだから」
「だなぁ」
「……凪もさ、本番しないで他の技術だけで満足させられるようにしたらいいじゃんか」
千紘は小さくそう呟いた。凪の真面目さはよくわかっている。正義感が強いことも。ただ、本番に関してだけはルール違反なのだ。法律にだって引っかかる。
単純に女性と本番行為をしてほしくないという気持ちが何倍も大きいが、凪には正攻法で頑張ってほしい気持ちもあった。
「そんなに簡単に言うなよ。リピートさせるのだって楽じゃないんだから」
凪は、この世界のことなんかわからないくせに。とでも言いたげに顔を歪めた。してはいけないことだということくらいわかっている。客だってわかっている。それでも、するのは次に繋がるからだ。それでリピートしてくれるなら安いものだと思えた。
「でもさ、バレたら店にも迷惑かかるんでしょ?」
「……まあ」
「信用も失う」
「だな」
「しなきゃいいのにって思う」
「しないのが1番楽だけどな。でも、1番難しい」
凪は軽く目を伏せて言った。今後もう本番はしないと言ったら、今までしてきた客は一気に離れていくだろうと思えた。継続させるためには、今行っているサービスを提供し続けるしかない。
「凪が言ってることが1番難しいよ。本番さえしなきゃ、凪がイケないことで悩むこともないのに」
凪はその言葉に、確かに……。と考え込んだ。挿入しなければ、射精する必要はない。女じゃ無理かも、後ろも使わなきゃ無理かも、なんて悩む必要もない。
この仕事を始めたことで、既に反応は鈍くなっているのだ。無理に勃起させることもある。それも、本番をしないのであれば必要ないことだった。
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