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夢だと、ずっと思っていた。
けれど、あのとき見た“瞳の色”だけは、今も現実より鮮やかに覚えている。
志乃がその部屋に入ったのは、7歳の夏だった。
祖母の家。梅雨の終わり。夜の湿気が押し寄せる廊下を一人で歩いていた。
祖母は寝ていた。両親は東京へ戻っていた。
だから誰も、あの扉が開いた音に気づかなかった。
「納戸には入っちゃダメ」
そう言われていたのに。
でも、子どもの好奇心は、恐怖より強いときがある。
古びた引き戸を開けると、空気が一段冷たくなった。
埃のにおい。濁った暗さ。
そして、その奥――
一枚の鏡が立っていた。
それはただの鏡じゃなかった。
鏡の中には、自分ではない“誰かの部屋”が映っていたのだ。
志乃はふらりと近づいた。
そして、鏡の中に少年が立っていることに気づいた。
真っ白なパジャマ。細い肩。
年齢は志乃と同じくらい。
少年はこちらを見ていた。
じっと。
まるで、長い間誰かを待っていたように。
「……あなた、だれ?」
志乃がそう訊ねると、少年は少し首を傾げて、笑った。
「きみは、ほんとうにここにいるの?」
その声は、鏡の向こうから聞こえてきたのではなかった。
心の奥――ずっと昔から住んでいた場所に、響いてきた。
志乃は、怖くなかった。
その目が、とてもさみしそうだったから。
だから、志乃は答えた。
「うん。わたし、ここにいるよ」
少年はほっとした顔で目を細める。
でもその表情は、次の瞬間には崩れ始めた。
空気が振動し、鏡が震え――
少年の姿が、滲むように消えかけた。
「まって!」
志乃は鏡に手を伸ばした。
冷たい鏡面に、指先が触れる。
そのとき、少年は最後にひとことだけ残した。
「ありがとう。……きっと、また会える」
パァン、と音がして、鏡の表面がひび割れた。
志乃はそのまま意識を失い、廊下で眠っているところを祖母に見つけられた。
あれは夢だったのか。
それとも、本当に――誰かと会っていたのか。
志乃はそのあと、大人になるまで**“鏡の中の少年”**を誰にも話さなかった。
だけど、心のどこかでずっと信じていた。
あの瞳の色と、あの声は、現実だったと。
それから23年後――
彼女は出版社の打ち合わせ室で、その“少年”と再会することになる。