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「……あの、すみません。神城志乃(かみしろ・しの)と申します」
編集部の小会議室。
圭吾は、座ったまま視線を上げた。
ドアの前に立っていたのは、黒髪のショートボブの女性だった。
グレーのロングコート、抑えめの赤いリップ。
どこか“音のない風”のような静けさをまとっている。
「高梨先生のご担当になりました。今後、よろしくお願いします」
そう丁寧に頭を下げた瞬間――
圭吾の中で、何かがざらりと逆流した。
(……この声、どこかで――)
彼女の瞳の奥に、昔の夜の湿気を思い出した。
「……よろしくお願いします、高梨圭吾です」
名刺を受け取る手が、わずかに震えていた。
志乃はその様子に、微かに笑った。
だが、次の言葉はまるで“合図”だった。
「先生、夢って信じますか?」
「夢……ですか?」
「いえ、変なことを言ってすみません。ただ……」
志乃は名刺入れを置きながら、視線を少し落とす。
「子どものころ、夢の中で……誰かに、ありがとうって言われたんです。
鏡の中にいた男の子に」
圭吾は、その言葉で世界の重力が変わったような感覚に陥った。
彼女が何気なく放ったその一文が、
圭吾の奥に眠っていた“もうひとりの自分”を揺さぶる。
彼の中で、長く沈んでいた記憶が、泡のように浮かんでくる。
――白い部屋。
――冷たい鏡。
――自分を見つめる、小さな女の子の瞳。
まさか。
まさかこの人が……。
志乃がバッグから出した資料の束が、テーブルに置かれる。
でも、圭吾はその上の表紙に書かれたタイトルすら読めなかった。
目の前の“再会”が、現実離れしていて。
そして、志乃がもう一度、言った。
「……あなたに、会ったことがある気がするんです」
圭吾の胸の奥、ずっと眠っていた“もう一人の声”が囁いた。
《ぼくだよ。やっと――会えたね》
その日から、ふたりはただの作家と編集者ではいられなくなる。
ふたりの心に埋もれていた“鏡の記憶”が、静かに目を覚まし始めていた。