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「……戻るぞ、辻󠄀」
二宮は一度も振り返ることなく遠征艇の方へと歩き出した。その背中は鉄の規律を保ったまま微動だにせず、恐ろしいほどに確かだった。
だが、その内面で渦巻いていたのは、傷心などという殊勝なものではなかった。どす黒く、傲慢で、ひたすらに肥大化した”エゴ”の暴走だった。
二宮匡貴という男は、常に正しく、常に最強でなければならなかった。彼が構築するチェス盤は完璧であり、その盤面の上で動く駒たちは、自分の指示通りに機能してさえいれば、最も安全に、最も輝かしい勝利を掴めるはずだった。それが二宮の持つ、歪んだ形の自負であり、支配欲だった。
なぜだ。なぜ俺の盤面から、こうも簡単に駒が零れ落ちる。
かつて鳩原未来が消えた時もそうだった。二宮は「あいつに戦闘の才能がなかったからだ」と結論づけ、あいつの弱さが盤面を乱したのだと片付けた。自分の戦術が間違っていたとは、万に一つも認めなかった。
そして今回の犬飼だ。犬飼は自分の理想を完璧に体現する優秀な駒だった。その犬飼が、二宮の完璧な規律を「退屈だ」と言い放ち、あざ笑うように盤面を引っ繰り返して消えた。連れ戻して、俺の盤面にはめ直してやる。俺の戦術の正しさを、あいつの首根っこを掴んででも証明してやる。荒野を歩きながらも、二宮の頭脳は犬飼への怒りではなく、”自分の完璧さを証明し直すためのエゴ”だけで満たされていた。あいつ自身の意思などどうでもいい。ただ、二宮匡貴のチェス盤が汚されたこと、それ自体が耐え難い屈辱だった。
*****
数週間後。
遠征部隊は地球へと帰還した。戦果としては十分。大規模な被害もなく、遠征は大成功の部類に入ると本部長からも賞賛された。
二宮は、犬飼の失踪を”敵の特殊な精神誘導による拉致の可能性”として本部に報告した。犬飼が自らの意志で自分を、二宮隊を捨てたなどという事実を、彼のプライドは周囲に開示することを拒んだのだ。どこまでも独善的で、どこまでも傲慢な、最強の男のエゴ。
ボーダー基地、二宮隊の作戦室。夕暮れの赤い光が、大きな窓から室内に差し込み、長い影を床に落としている。
辻󠄀は、自分のデスクに座ったまま、動けずにいた。彼の右側にあるデスク。そこには、犬飼がいつも愛用していた、うっすらと埃を被り始めたマグカップだけが置かれている。そして、そのさらに奥にある、かつて鳩原未来が座っていた席。二つの、完璧に空っぽになった空席。二宮は怪我一つない完璧なスーツ姿のまま、自分の椅子に腰掛けた。 そして、机の上に置かれた、年季の入ったチェスボードへと視線を落とした。二宮は、白の『騎士』の駒を一つ、乱暴に進めた。いつもなら、その次に犬飼が気まぐれな一手を出して、自分の予想を少しだけ裏切る。二宮はそれを不快に思いながらも、完璧に軌道修正して勝利に導く。その「支配の快感」が、ここにはもう存在しない。
「……犬飼。そこは誘導弾ではない。俺の指示通りに動け」
二宮は、誰もいない空席に向かって、命令するように冷たく言い放った。
「お前がどこへ行こうと、俺の戦術からは逃れられない。戻ってこい。俺の盤面で、俺の駒として、正しく機能しろ」
それは、消えた仲間を想う言葉ではなかった。ただ、自分の支配下から外れた玩具への、執拗なまでの執着。自分の正しさを否定されたことへの、醜い拒絶の咆哮だった。二宮は一人で黒の駒を動かし、また白の駒を動かす。自分のエゴを押し通すように、激しく駒を叩きつける。
だが、どれだけ完璧に駒を動かそうとも、対局相手のいないチェス盤は、ただのプラスチックの塊に過ぎない。犬飼はもう、二宮の完璧なセオリーに縛られることを、心の底から退屈だと笑い捨てて消えてしまったのだ。どれだけ叫ぼうとも、どれだけ完璧な戦術を組もうとも、あいつは二度と戻らない。自分の強さと、自分の傲慢さこそが、仲間を窒息させていたのだという決定的な真実が、二宮のエゴの隙間にじわりと染み込んでいく。
「……俺は、間違っていない」
自分に言い聞かせるように呟いた、二宮の傲慢な声が、静まり返った隊室に虚しく消えた。そのエゴの防壁が、内側からみしりと音を立てて崩壊していく。
ポツ、と。
チェス盤の、黒い王の駒の頭に、透明な雫が落ちた。
それが、自分の完璧な世界を拒絶された二宮の、プライドの血涙なのか。それとも、壊れていく隊長をただ見つめることしかできない、辻󠄀の絶望の涙なのかは、分からない。ただ、冷たいプラスチックの駒を濡らした一滴の涙だけが、夕暮れの光を浴びて、虚しくきらきらと輝いていた。
コメント
3件
(リオンが一息ついて、モニターの文字を静かに見つめている) 「……はあ、これ、すごいですね。さんまさん、二宮の内面の描き方が恐ろしいほど生々しいです。『チェス盤』という比喩が、ここまで強烈に機能している作品は久しぶりに見ました。」 「特に響いたのは、誰もいない席に向かって『お前の首根っこを掴んででも証明してやる』と叫ぶシーン。あれ、もう完全に『支配の快感』に依存してるんですよね。自分が正しいことを証明するために、相手の意思なんてどうでもいい——その傲慢さの裏側に、じわじわと染み込んでくる『間違っていたかもしれない』という恐怖。そこをチェス盤の雫で表現したのは、構成として見事だと思います。」 「それと、辻󠄀の視点が要所で差し込まれるバランスが絶妙です。『空っぽになった二つの席』の描写が、夕暮れの光と相まって、本当に痛々しい…。対局相手のいないチェス盤はただのプラスチックの塊。この一文に、この話のすべてが凝縮されてる気がします。」 「設定の設計がしっかりしているからこそ、キャラの内面が深く抉れる——そういう構造の美しさを感じる作品でした。続き、楽しみにしてます。」
光街 葵
393
#染井華
さんま
19
すぷりんぐ
51
#迅悠一