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遼子さんと食事をし、ひとまずは誤解を解いたその翌朝、私はいつもよりも早く会社に着いた。出社している社員の数がまだ少ないからだろう、この時間帯の職場は静かだ。
昨夜はベッドに入ってもなかなか寝付けず、おかげで少々寝不足気味だった。
二人がうまくいったらいいな――。
遼子さんが会話の後半にちらと口にしたその言葉が耳に残っていたせいだ。
それを思い出すと落ち着かない気持ちになる。私は気分を変えようと思い立ち、コーヒーを淹れるために給湯室へと向かった。
今朝の分のコーヒーは、まだ出来ていなかった。特に当番が決まっているわけではなく、コーヒーがないことに気づいた人がその都度作ることになっている。今朝は、私がここに一番に足を踏み入れたということらしい。
コーヒーメーカーをセットする。粉を入れて水を注ぎ、しばらくすると芳ばしい香りが漂い出す。
「いい匂い」
鼻先をくすぐる香りについひとりごとが洩れた。その時、背後に人の気配を感じる。誰だろうと振り向いて、鼓動が痛いくらいに高鳴った。
山中部長補佐がいた。
あっという間に緊張して首筋の辺りが強張った。喉の辺りに張り付きそうになった言葉をなんとか発する。
「おはようございます……」
爽やかな朝には似つかわしくない、ぎこちない挨拶だったと思う。どういう顔をして補佐に接すればいいのか分からなかった。補佐の顔をまともに見るのは、ファミレスでのランチ以来だったし、昨日の一件のこともあった。緊張せずにいろと言われても無理に決まっている。
しかし補佐の方も、私がここにいることを予想していなかったらしい。私を見た途端、あっというような顔をして給湯室の入り口手前で足を止めた。しかしその後すぐに、彼は穏やかな顔を見せた。
「おはよう。ずいぶん早いね。俺にもコーヒーもらえるかな?」
「は、はい、もちろんです。今、お淹れします」
「いや、自分でやるから大丈夫だよ」
「いえ、ここは私が」
私は補佐の申し出を遮るように軽く会釈すると、くるりと背を向けた。湯気のたつコーヒーカップを彼に手渡しながら、ますます緊張した。昨日のことが話題に出てきやしないかとひやひやした。
「ありがとう」
補佐はカップを受け取り、礼を言った。
「いえ」
私はそのまま補佐が戻っていくだろうと思っていた。
ところが彼は壁に背を預けると、肘に手を添えてコーヒーカップに口をつけた。
――あれ、戻らないの?
困惑しながらも、私は補佐の流れるような所作と横顔の滑らかなラインを盗み見ていた。近すぎる彼との距離に、心臓がうるさいほどどきどきしている。彼が例のことを口にするかもしれないと緊張してはいたが、嬉しくて仕方なかった。
そんな自分に苦笑しそうになったのをごまかすために、慌てて目を伏せた。何気なくコーヒーを口に含んだ途端に後悔する。自分が猫舌であることを忘れていた。
「あつっ…」
思わず洩れた声に、補佐が私を見た。
「大丈夫?」
私は眉をしかめながら答えた。
「だ、大丈夫です。猫舌なのに、つい……」
「岡野さんはしっかりしている印象だったけど、やっぱり天然って感じだね」
「しっかりと天然は相反しているようにも聞こえますけど……」
「そういうギャップが岡野さんなんじゃない?」
くすりと笑ってそう言うと、補佐は急に口を閉じた。
その横顔が、何か物思いでもしているように見えて、私は落ち着かなくなる。手の中のコーヒーカップに目を落とした。
ランチの時にはもっと会話が弾んだんだけどな――。
昨日のことは遼子さんと話したことでひとまず納得はしたけれど、まだ完全ではない。そのせいもあって、せっかく補佐に会えたというのに、素直な気持ちで話しかけることができない。そんな自分がもどかしい。
彼がまだここにいるのなら、私が先に戻ろう――。
「補佐、あの、お先に……」
失礼します――。
そう続けようとした時、補佐が口を開いた。
「あのさ」
昨日のことを話そうとしているのか――と、私は身構えた。
「――はい」
ひと呼吸分程の間をおいて私が返事をした時だった。
宍戸が顔を覗かせた。彼は補佐の顔を見ると、やけにはっきりとした口調で朝の挨拶の言葉を口にした。
「おはようございます!」
私も補佐もはっとして、給湯室の入り口に目をやった。
宍戸の位置からは私が見えないらしい。入り口をふさぐように立つ宍戸の目は、補佐しか見ていなかった。そのことになぜかほっとする。まずい所を見られたような気がした。
補佐はにこやかに宍戸に挨拶を返す。
「あぁ、おはよう」
二人のやり取りを聞きながら、私は昨日のことをふと思い出した。あの時宍戸は、ある意味絶妙ともいえるタイミングで姿を見せたが、そのことになんとなく引っ掛かりを覚えた。
あれって偶然だったのかな――。
もやもやとした気持ちでいると、宍戸はようやく私にも気づいたようだった。
「あれ?岡野もいたんだ」
そんな言葉もなぜか芝居がかって聞こえてしまう。
「どうしたんだよ。今日はいつもより早いじゃないか。珍しいな」
ひと言余計な宍戸に、私はむっとした。せっかく補佐と二人きりだったのに、とにわかに苛立つ。とはいえ、宍戸の登場に感謝していないわけでもない。そのおかげで、補佐が話そうとしていた倉庫での件を聞かずに済んだかもしれないのだ。
宍戸は私の複雑な表情になど気づかず、当たり前のように言った。
「岡野、俺にもコーヒー淹れてくれよ」
「図々しいわね」
その態度が、同期であるという気安さに加えて、実は彼が私よりも一つだけだが年上だという理由からくるものであることを理解してはいた。それでも気に障るものは障る。私はつんけんとして言った。
「私、宍戸の秘書でも彼女でも母親でもないんですけど。昨日の借りは、これで返したことにするから」
「はいはい」
私は小声でぶつぶつ文句を言いながら、結局宍戸の分のコーヒーを用意して彼に手渡した。
「サンキュ」
「どういたしまして」
ため息交じりに宍戸に答え終えて、私ははっとした。横顔に視線を感じる。
やっちゃった……。
宍戸のペースに巻き込まれて、本当なら見せたくなかった自分を補佐の目の前で晒してしまった。
そっと補佐の様子を伺い見ると、笑いをこらえているのか、黙ったまま肩先を小さく震わせている。
恥ずかしい……。
頬も耳も一気にかっと熱くなり、私は顔を伏せた。
補佐は笑いを含んだ声で言った。
「二人は本当に仲がいいね」
「ち、違います!」
緊張していたことなどすっかり忘れ、私は強い口調で否定の言葉を口にした。
「確かに同期の中では、比較的仲がいい方だとは思いますけど、特にというわけではありません。ねっ、そうよね」
私は同意を求めるように宍戸を見た。いつものように軽いノリで調子を合わせてくれるだろうと思った。
ところが、宍戸はこれまで見せたことがない淡々とした表情で、私をちらっと見た。
「確かに岡野の言う通り、同期の中では仲がいい方ではありますけどね」
棘があるような言い方なのはどうして――?
私は問うように宍戸の顔を見上げた。
けれど彼は私を一瞥したきり何も言わない。そのまま補佐に目をやると、思い出したように告げた。
「部長が補佐を探しているってこと、伝え忘れる所でした」
そう聞いて、補佐の顔つきが変わった。
「部長?朝から何だろう。すぐに行くよ。教えてくれてありがとう」
「いえ。俺は先に戻って、部長に伝えておきます」
「あぁ、頼む」
宍戸は補佐に軽く会釈をすると、私の方を見ることなく急ぎ足で給湯室から去って行った。
宍戸の機嫌を損ねるようなことを、何か言ってしまっただろうか――。
同期の後ろ姿を見送った私は、考え込んだ。この短時間の中での出来事を振り返ってみたが、これといって思い当たることはない。
今度会った時に聞いてみようか、などと思っていると、補佐が言った。
「俺も戻るよ」
「は、はい」
宍戸の謎の行動のことをいつまでも気にしてはいられない。私は気を取り直して補佐に訊ねた。
「部長にもコーヒーをお持ちしましょうか?」
「そうだね。申し訳ないけど、用意してもらえるかな?」
「はい」
私は頷き、コーヒーを準備してトレイに乗せた。
「部長のお席までお持ちしますので、補佐はどうぞ先にお戻りください」
「いや、俺が持って行くよ」
「でも」
補佐はにっこり笑うと、ためらっている私からコーヒーカップを取り上げた。
「これから部長の所に行くのは俺なんだし、その方が早いだろ」
「分かりました」
その笑顔に負けて私は頷いた。
「では、よろしくお願いします」
「うん、ありがとう。手間かけたね」
にこやかにそう言うと、補佐は私の顔をじっと見つめた。
私は思わず体を引いた。こんなに近い距離で、そんな風に見ないでほしいと思った。せっかく落ち着いていた鼓動が、また暴れ出しそうになる。
「あの、何か……?」
「あぁ、いや。もしかして宍戸ってさ」
何かを口に出すことをためらっているような補佐の様子に、私は首を傾げた。どうして今、宍戸の名前が出てくるのか、不思議だと思った。
しかし補佐は私の怪訝な表情に気づき、話題を変えた。
「ところで今日の会議資料の準備、大変だっただろう?お疲れ様」
「いいえ、そんなことは……」
資料の依頼者は補佐ではなかったが、こんな風に労いの言葉をかけてもらえたことが嬉しかった。こういう一言があるのとないのとでは、やる気というものが違ってくる。仕事に厳しい人と言われているようだが、こういうところが補佐の慕われている理由の一つなのかもしれないと思った。
「あの、補佐も頑張ってください」
何か言いたくなって、ついそんな言葉を口にしてしまったが、すぐに後悔した。補佐は経営陣にも目をかけられているような会社のエースだ。そんな人に向かって、今の言い方は失礼だったかもしれないと思ったのだ。
しかし補佐は微笑んだ。
「岡野さんも、今日一日頑張ってね」
そう言われてほっとする。
「はい。ありがとうございます」
「それじゃあね」
補佐はそう言って背を向けようとしたが、動きを止めて私を見た。
見つめられて動揺する。
目を逸らせずにいる私に彼は言った。
「――またね」
補佐は振り返ることなく給湯室を出て行った。
彼の背中が視界から消えた途端、私は深いため息をついた。
朝から密度が濃すぎる――。
去り際の補佐の一言は、私の耳と心に甘い余韻として残った。胸が息苦しいほどに高鳴る。
またね、なんて言われると、期待しそうになる――。
補佐が私に与えて行った甘い動揺は、なかなか収まらない。表情を引き締めるのに手間取って、私は給湯室からなかなか出て行くことができなかった。
会議を前にして、私や他の新人たちは先輩たちを手伝って、会議室や資料の準備、その他雑事に追われて走り回っていた。会議には社長を含めた役員たちも出席することになっていたから、いつも以上に気が張る。
役員たちが営業部長の先導で廊下を通り、応接室へと向かう。普段滅多に顔を合わせない、私にしてみればそれこそ雲の上の方々だ。部長からお茶を出してくれと頼まれた遼子さんと一緒に、役員たちが居並ぶ応接室に入った時は、粗相をしないようにと相当緊張した。
会議が始まってしばらくしてから、遼子さんの内線に電話がかかって来た。
その時遼子さんは別件で席を外していて、そこには私しかいなかった。
電話を取って名乗ると、山中部長補佐からだった。
―― 白川さんは?
「今は離席中ですが……」
―― そうか……。じゃあさ、岡野さん、申し訳ないんだけど今日の資料を二部、急いで持ってきてくれないか。汚してしまった方がいらしてね。
「はい、ただ今お持ちします!」
私は電話を置くと余分に用意してあった資料を手に持った。念のため少し多めに持って行こう。
私は先輩にそのことを伝えてから、急ぎ会議室へと向かう。役員方もいると思うと緊張する。私は深呼吸をして会議室の後ろのドアを静かにノックした。頭を下げて中に入ると、ずらりと人が座っていて圧倒される。全部署の役付きクラスの人たちだ。
私に気づいた補佐が小さく手招きした。
私は腰をかがめながら彼の傍まで行き、そっと資料を手渡した。
「助かったよ」
小声で言う補佐に私は頭を下げると、足音を忍ばせてその場を離れた。会議室を出る時にちょうど補佐が立ち上がったのが見えた。彼は堂々とした様子で前に出て行き、私が持ってきた資料を専務と常務に渡してから、映像を映し出したモニターを見ながら話し出した。
「さて、今回の案件はわが社もJVの一旦を担う形で施工に参加することになっております。わが社の他に三社。ですので、各担当部署においては……」
そこまで聞いた時、補佐が私の方へ視線を飛ばしたのが分かってはっとした。
しまった、つい……。
誰にというわけでもなく私は慌てて頭を下げると、そそくさ会議室を出た。廊下を戻りながらため息をつく。
補佐をすごい人だと改めて認識しながら、私は彼と自分との差をひしひしと感じていた。一方では、仕事モードの補佐を目の辺りにして、ときめいたのも事実だった。