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✧≡≡ FILE_014: コイル ≡≡✧
一方その頃、イギリス。
研究所で、コイルは椅子に腰掛けていた。
小さく膨らみかけた腹の重みに、両の手を添えて──
優しく、優しく──呟いた。
「……もうすぐ、会えるね」
コイルは指先でそっと、お腹を円を描くように撫でた。
まだ小さいその膨らみの奥に、確かに息づいている命を包み込んで。
軽く体を揺らしてみれば、布越しに伝わる微かな重みが愛おしくて、ほほ笑みがこぼれる。
「寒くない?」
ポンポン、と、お腹をやさしく撫でる。
「大丈夫、大丈夫だよ。……お母さんがいるからね──」
誰に聞かせるでもなく、小さな子をあやすような声で囁いた。
──そんなとき。
背後から、不意に「ガシャン!」と何かが落ちる鈍い音。
コイルの肩がピクリと跳ねた。
「……っ、ワ、ワイミーさん……!?」
慌てて振り向くと、ワイミーが実験台の前で転倒していた。腕からは細く血が滲み、床に散らばった試験管の中で、ひとつの金属片がカチンと硬い音を立てて転がる。
「こりゃ……また、やらかしたな……」
ワイミーは自嘲気味に笑いながら立ち上がろうとするが、足元がふらつき、身体を支えきれずにその場に膝をつく。
それを見たコイルは、すぐさま椅子から立ち上がった。
近くの棚から救急箱を取り出し、足早に駆け寄る。
「なにしたんですか、ワイミーさん!」
コイルは倒れたガラス器具を片手で押しのけ、ワイミーの腕を支えながら傷口を覗き込む。
「いや……ちょっとした反応実験を試してみただけなんだが……」
ワイミーは額に浮いた汗を拭い、困ったように笑った。その視線の先、床には溶けかけている金属片があった。それは、“夢の金属”と呼ばれる試作品のひとつ──ルミライト。
「温度制御が……ほんの数度ずれただけで、こんなことになるとはね」
ワイミーが苦笑まじりに言うと、コイルはきゅっと唇を結び、少し語気を強めて返した。
「“こんなこと”じゃありません! 危険すぎます!」
手早く消毒を済ませ、包帯を巻きながら、コイルの眉は険しい。
「指が焼けてます。すぐ冷やしますから、我慢してください」
「……うん、痛いな」
それでもワイミーは、わずかに眉をひそめながらも、どこか嬉しそうに笑った。その笑みは、痛みを“進歩”に言い換える研究者の笑顔。苦しみすら肯定するほど、目前の可能性に希望を抱いている顔だった。
「あと一歩で……夢の金属が完成するんだ。温度さえ、正確に保てれば……“摂氏28.7度”だ」
「にっ……28.7度……!?」
──なんてことだ。
そこまで上がるなんて、誰が考えただろう。
金属が“夢”を見る温度。
理論の中でしか存在しないはずの数値が、今まさに現実に顔を出そうとしている。
「そこまで上がったんですか……。で、でも、それを確かめるたびに怪我してたら意味ないじゃないですか。あなたが倒れたら、誰が続きを……」
言いかけて、ふと声が途切れる。
ワイミーが、どこか申し訳なさそうな表情でこちらを見つめていたからだ。
「君のほうこそ、こんな場所にいていいのか?」
包帯に包まれた手を見下ろしながら、ワイミーの視線がお腹に落ちる。
「子どもを授かっているのに……実験室なんて……危険だ」
コイルは、一瞬だけ口を閉ざした。
返す言葉を探すように、胸の奥で小さく息が揺れる。
「それは……わかってます。でも……」
コイルは少し目を伏せ、声を低くする。
「家にいても、ひとりで……寂しいんです」
──そう、寂しいのだ。
部屋にはランプが灯っているのに、温かくない。
紅茶を淹れても、香りが空に溶けていくだけ。
カップを二つ並べても、片方を飲んでくれる人はいない。
ドヌーヴのいない家は暗くて、寒い。
寒いのだ。心の奥から。
だからこそ──母には温もりが必要だった。
命を宿しているからといって、温もりを与えるばかりじゃ心が冷えてしまう。
人の体温のように、確かで、脆くて、すぐに消えてしまう温もりにコイルは縋っていた。
「夫は日本ですし、誰もいない家にいると、余計に不安になって……」
命を育てる母親が、人の温もりを欲しがるのは、そんなに不思議なことではない。
ましてや──弱さでもない。
ひとりで耐えることだけが、強さではないのだ。
誰かのそばにいたいと願うこと。寄り添うぬくもりに救われること。それは、人としての自然な感情であり、命を守る者としての深い本能でもあった。
「……そうか」
ワイミーは納得したように目を細める。
「寂しいから、危険を選ぶとは……まったく、君はドヌーヴそっくりだ」
その言葉に、コイルは小さく微笑んだ。
「あの人もたまに容赦ない時がありますから」
包帯を巻き終えたコイルは、そっと手を離すと、ワイミーを正面から見つめ、迷いなく口を開く。
「でも──もう少しで完成するなら、見届けたいんです」
その目には、痛みよりも強い光が宿っていた。
それは母としての強い光ではなく、研究員としての光。
「……ワイミーさんが積み上げてきたものを、私も見てみたい。その金属で作る“新しい世界”が、どんな景色になるのか……それを、この目で確かめたいんです」
ワイミーは息を呑んだ。
自分の研究に人生を賭けてきた彼でさえ、その眼差しには一瞬、気圧された。
「……君は、本当に強いな、コイル」
それから──実験室の火を落とし、ようやく二人は椅子に腰を下ろした。
室内には、さきほどまでの熱気の名残が漂っており、金属の匂いと、微かに焦げついた空気がまだ抜けきっていなかった。
コイルはそっと立ち上がると、棚の上のティーポットへ手を伸ばした。
「お茶にしましょう。……私が入れます」
「いや……そんな──」
「いいんです。ワイミーさんの手、包帯ぐるぐるですから」
コイルが軽く笑いながらカップを並べる。
カチリ、とティーカップが触れ合い、小さな音がふたりの間に落ちた。
ワイミーは、包帯を巻いた手を膝の上に置き、申し訳なさそうに俯く。
「……すまないね。こんな時にまで気を遣わせてしまって」
「いえ、気にしないでください。あなたこそ休める時に休まないと。こうして座ってお茶を飲むなんて、久しぶりでしょう?」
コイルはそっと湯気の立つカップを差し出した。
「発明ばかりしていると、時間の感覚がなくなってしまいますよ」
彼は気まずそうに喉を鳴らし、しかしどこか嬉しそうに目を細めた。
「言われてみれば……確かに、そうだな」
ワイミーは紅茶を受け取り、そっと息を吐く。
コイルも手元のカップを持ったまま、自分の椅子へ戻って腰を下ろした。
椅子の座面がやわらかく沈み、ようやく場が“落ち着き”を取り戻す。
「……調子はどうだ?」
ふいに落ちたワイミーの問いに、コイルは小さく瞬きをしてから答えた。
「順調ですよ。最近は、よく動くんです。昨日なんて、ぽこんって蹴られて」
コイルはお腹をそっと押さえながら、恥ずかしそうに笑う。
「……足癖、悪いのかしら」
零れた一言にワイミーが吹き出した。
「はは……それは間違いなく、元気な証拠だよ」
紅茶の香りよりもあたたかい笑いが、ふたりの間に広がった。
「性別は?」
「まだ、わかりません。もうすぐ病院で検査なんです」
「そうか……そうか──」
ワイミーの声が、不自然なほど明るく弾んだ。
いつも金属と発明でできたような人なのに、子どもの話になると、一気に柔らかくなる。
「男の子か、女の子か……どちらでも嬉しいが、やはり気になるな」
「ふふ、ワイミーさんのほうが楽しみにしてるんじゃないですか?」
「あたりまえだ」
ワイミーは笑う。
「教え子の幸せを見ることが、今の私の幸せなんだ。君たちが笑っていれば、それで充分。私は嬉しい」
穏やかに、まるで自分の研究よりも確かな“成果”を見守るように。
炎の中で新しい金属を生み出すよりも、人の中に灯る光を見るほうが、よほど尊いことを──この人は分かっている。
「そんな風に言ってもらえるなんて、光栄です」
コイルは微笑んだ。
「あと、4ヶ月くらいかしら」
その一言の中に“未来”という言葉の全部が詰まっていた。
「“12月に産まれる予定で”──そろそろ名前も考えないといけませんね」
彼女らにとってこんな待ち遠しい4ヶ月が、この世にあっただろうか。
時が過ぎるのを恐れる人間は多いけれど、彼女は今、時の流れを“抱きしめて”いる。
「……もう決めたのか?」
「いえ、まだ……」
“まだ”。
その二文字の中には、無限の白紙があった。
まだ見ぬ顔。まだ聞かぬ声。まだ知らない未来。未来に授かる子に名を与えるという行為は、人間に許された最も幸福な創造なのかもしれない。
コイルはゆっくりと視線を落とした。
胸の奥で言葉が形になるまで、ひと呼吸──ふた呼吸、静寂が落ちる。そして、ためらいにも似た真剣さで、ゆっくりと口を開いた。
「この子の名前は──ワイミーさんにつけてもらおうと思っていたんです」
紅茶を口に運ぼうとしていたワイミーの手が、ぴたりと止まる。小さな音ひとつしないのに、世界が静止した気がした。
「……それは、いけない」
ワイミーの声は、驚くほど穏やかだった。
否定なのに、拒絶ではない。
制止なのに、叱責ではない。
淡々としていながら、どこか慈悲めいていた。
「名前は、君達でつけなさい」
「え……」
ワイミーは、まるで当たり前の真理を告げるように続けた。
「名とは──最初に親が手渡す“愛情”だ。君がその名を呼ぶたびに、愛は形になって、子は愛を知るだろう」
ワイミーは、湯気の向こうの一点を見つめるように、続けた。
「子は生まれた瞬間から、その“名前”を通して己を受け入れる。何気なく呼ばれる“名前”には、とてつもない力が宿っているんだ。人は一日に何度も自分の名を聞き、呼ばれるたびに“自分という存在”を形づくっていく。名を与えるという行為には、“覚悟と責任、そして愛情”が必要だ。子どもが一生を通して背負う“生き方”を、最初に手渡すのが名づけだからね。──私がつけるわけにはいかない」
コイルは指先でティーカップの縁をなぞりながら、小さく息を吐く。
ワイミーの言葉が胸の奥でほどけていく。
愛というものが、思っていた以上に、形のある重さを持っているのだと気づかされたのだ。
──けれど、その重さを、彼女は本当の意味では知らない。
両親を戦争で失ったコイルにとって、“愛情を注がれ、名を呼ばれ続ける”という記憶はほとんどなかった──。だからこそ、今聞いた言葉は、胸の奥の深いところにそっと触れてくる。
「……愛、ですか」
当たり前のように呼ばれる、この“名前”。
それが、世界で最初に受け取る“愛”のかたちだったのだと、コイルは初めて実感した。
「……そんな風に考えたこと、ありませんでした」
俯いたままのコイルを、ワイミーは見つめていた。
「親は──最初に名を与え、最後に手を離す生き物だからな」
名を与える。手を離す。
そのあいだに存在するもの──それこそが“無償の愛”なのだ。
そこに見返りはない。利益もない。
説明できる仕組みさえない。
──それでも、与えずにはいられない。
それが“愛の正体”──
そっと、コイルがお腹に触れる。
まだ返事もしない、小さな命のぬくもり。それだけで胸が満ちる。
この世界の誰よりも優しい微笑みを、この時コイルは浮かべていた。
自分が誰かに与えられたことのない愛を、いま自分の手で初めて“生み出している”のだと気づいた瞬間だった──
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