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✧≡≡ FILE_015: 名前 ≡≡✧
夜の街が、柔らかな灯りに沈んでいた。
昼間の喧騒が嘘のように消え、遠くで電車が駆け抜ける音が聞こえる。
その響きを耳にしながら、夜神総一郎はようやく一日が終わったことを実感する。
──あっという間の一日だった。
先生は最初、ホテルのディナーでも奢ろうかと言っていたが、丁寧にお断りをし、結局二人は近くの居酒屋へ足を運んだ。
個室の座敷。
木の引き戸を閉めると、外の喧騒が一気に遠ざかる。
テーブルの上には湯気を立てる鶏鍋と、冷えた烏龍茶。
そして──お酒が入ったグラスがひとつ。
「……それ、ほんとに飲むんですか?」
総一郎が呆れたように眉を下げる。
「飲んでみたいんだ。どんな味がするのか……」
と、先生。
強がりながらも、もう顔は少し赤い。
「先生、お酒弱いですよね」
「弱い? いや、飲めるんだよ。ただ……眠くなるだけで」
「それを世間では“弱い”って言うんです」
総一郎は心配そうに見つめ、鍋の中の鶏肉を掬う。
「ほら、食べないと冷めますよ」
「……ああ、うん」
先生は返事をしながら、箸を取るよりも先にグラスを手にしてしまう。
ぐびっ……ぐびっ……。
氷が小さく音を立て、グラスの底で転がる。
「先生、もうそれ以上はやめといたほうが……」
「だって美味しいんだもん」
「子どもですか」
総一郎は思わず笑ってしまう。
──ほんとうに、この人は昔から変わらない。
どんなに聡くても、どんなに理屈っぽくても、どこか抜けていて、愛される。
湯気がゆらめく。
「ふわぁ……」
小さなあくび。
湯気と一緒に、眠気まで漏れている。
「ほら……もう、寝ちゃうじゃないですか」
「だって……あったかいし……」
先生は頬杖をついたまま、ふにゃりと笑った。
その笑顔は、まるで子どものように無防備だった。
そして、ぽつりと、こぼすように言葉が出る。
「……子どもが、さ。もうすぐ、性別がわかるんだぁ」
総一郎は、少し驚いたように目を瞬かせた。
「そうなんですか。楽しみですね」
「うん。すごく、楽しみだよ。……名前は、まだ決めてないけど」
「先生がつけるんですか?」
「……んー、たぶん」
先生は笑って、それから少し間を置いた。
「──うん、でも、ほんとは、もう、決めてるんだ」
「決めてる?」
「うん」
「……どんな名前なんです?」
「……んー?」
先生は目線を隅に逸らすと、柔らかく笑う。
「……秘密」
けれどその瞳の奥には、どこか慈しむような光があった。
「……夜神くんも、いつかそうなるんだよ」
「え?」
「好きな子と結婚して、子どもができて、幸せな家庭を作って──それだけで十分生きてて良かったと思える」
その声は、酔っているのに妙に真面目で遠くの誰かに語りかけているようだった。
「夜神くんならさ、子どもができたらどんな名前をつける?」
「え? そんなの、すぐには……」
「まあ……そうだよね」
先生は少し俯いてグラスを転がす。
氷が鳴る。
そして、ぽつり──と。
「……俺、男の子なら、“ライト”って名前を付けたいんだ」
「……え?」
「女の子なら、“ルミエル”」
グラスの中の氷が、ゆっくりと溶けていく。
「どっちも“光”の名前だ」
先生は笑って、少し潤んだ目で続けた。
「俺は“ライト”が気に入ってたんだけど……妻に却下されちゃった」
「どうしてです?」
総一郎が訊ねたのは、純粋な興味からだった。
けれど、返ってきた答えは想像以上に純粋な理由だった。
「──“苗字と、被るから”、だって」
その言葉が、個室に落ちる。
次の瞬間、総一郎の表情が一瞬止まり、暖かな湯気の中で、時間がゆっくりと凍った。
──“夜神ライト”。
夜の神に、光の名。
暗闇に、明けの兆し。
夜神ライト。
偶然にしては出来すぎているし、必然にしてはまだ早すぎる。
未来は、まだ何の形もしていない。
けれどこの瞬間──
光の名を持つ子を、最初に夢見たのは彼だった。
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