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陽の光が届かない鬱蒼とした杉林に朝靄が立ち込める。何年も前に閉鎖され、時計の秒針に取り残された(旧)坪野キャンプ場。その場所には幾つものロッジが枯れた松葉の茶色い海にぷかぷかと浮かび、周囲には朽ちかけた|東家《あずまや》、木のテーブルやベンチ、錆だらけのカランが並ぶ水洗い場が点在していた。
ピーポーピーポーピーポーピーポー
遠くにパトカーのサイレンの音が聞こえる。西村とその妻が山下朱音に拉致され、坪野キャンプ場に追われ、寂れたロッジで息を殺して身を|顰《ひそ》めていると竹村警部が警察に知らせてくれたのだ。
助かった。
助かった。
(俺は助かった)
夜が明ける。窓の隙間が白み、杉の木立が所々霞んで見えた。
ピーポーピーポーピーポーピーポー
ピーポーピーポーピーポーピーポー
「ひ、裕人、パトカー」
「あ、ああ」
西村は智の肩を抱いていた腕をするりと離し、力無くふらりふらりと立ち上がった。その姿は見窄らしくグレーの制服は泥に塗れ、黒い革靴は萎びた茄子に見えた。臙脂のネクタイは首にだらしなく垂れ下がっている。
「智、俺たち、助かったんだ」
そう振り返った西村の髪型は乱れ、彼方此方に松葉が付いている。目の下は骸骨の様に落ち窪み、頬にはガラスで切った傷跡、無精髭がそれをなぞる様に生えていた。智も頬に張り付いた泥まみれの髪の毛を剥がすと、血だらけの脚に纏わり付く黒いワンピースの裾を叩いた。
1歩、2歩と足を進める、ギシ、ギシとロッジの床が軋む。
ピーポーピーポーピーポーピーポー
ピーポーピーポーピーポーピーポー
サイレンがどんどん近付いて来る。
(助かった。助かったんだ。助かった)
西村は思わず目頭が熱くなり、涙した。
ピーポーピーポーピーポーピーポー
ピーポーピーポーピーポーピーポー
「竹村さん、久我さん!」
ロッジの外に飛び出し助けを求めようと玄関ドアの持ち手をくるりと回してみたが、錆びついた鍵がガチャガチャと音を立てるだけで簡単には開かなかった。
「くそっ!」
西村がドアノブを靴底で蹴るとガチャンと音がして、鍵を留めていたネジがポロポロと外れ、ギィギィギィとそれはゆっくりと開いた。
「竹村さん!久我さん!」
そこに捜査車両やパトカーの赤色灯は無く、朽ちた木のテーブルの上《《赤い携帯電話》》がひとつポツンと置かれていた。そうだ、この場所に俺たちはどうやって来た。車両が通れる様な道はあったか。
ピーポーピーポーピーポーピーポー
ピーポーピーポーピーポーピーポー
パトカーのサイレンはその《《赤い携帯電話》》から響いていた。
「西村さん」
恐る恐る視線を横に動かすとそこに朱音の碧眼。
「いやあああああああああああああああ!」
|智《とも》の叫び声が聞こえる。
西村は息も絶え絶えに背の高い雑草の海を掻き分けると、その指先は紙で切った如くの切り傷となりうっすらと血が滲んだ。泥だらけになった右足の革靴を置き去りにして掴まり処の無い土手を駆け上がろうとするが、脚が|縺《もつ》れて何度も転げ落ちた。その左足を掴む、色白の細い指先。桜色の爪を振り払うと身体がバネのように|撓《しな》り河川敷へと転げ落ち、それはまるで糸の切れた操り人形の様だ。
「悪かった!・・・助けて、許してくれ、許してくれ!」
グレーの背広は泥に塗れ、折目正しかったスラックスはボロ雑巾、白かったワイシャツは見る影もない。首に|纏《まと》わり付く|臙脂色《えんじいろ》のネクタイを剥ぎ取り、目を見開き半狂乱になりながら川の浅瀬を逃げ惑う中年男の背中。
「やめてくれ!助け・・・朱音!」
振り向くとそこには桜が散り終えた枝、茶色く濡れそぼった髪、痣だらけの顔に碧眼の2つの目を爛々とさせた赤い《《金魚》》の姿があった。
「あ、朱音、すまなかった!悪かった!」
朱音の桜色の指先が西村の背広の裾を掴み、次の瞬間、天と地が逆転したかの様な感覚、西村の手は空を切り、後頭部を激しい痛みが貫いた。
朱音は西村を浅瀬に押し倒すと腹の上に馬乗りになり、その華奢な腕で首を締め上げ何度も何度も、何度も川面へと頭を沈めた。
ボゴガボボゴボゴガボ
全て絶望に変わる。目が鼻が口が耳が毛穴の一つ一つが《《もう許してくれ》》と悲鳴をあげるがそれは声にならず泡となり、安易に|境界線《ボーダーライン》を超えてしまった自分を呪った。
「西村さん、あなたがいたから人間になれたのに」
激しく揺れる水面の向こうの男を覗き込む、赤いノースリーブのワンピースを着た《《金魚》》がため息を吐いた。
「人間になれたのに」
ボゴガボボゴボゴガボ
ボゴガボボゴボゴガボ