夏服姿の胸元が大きく開いたブラウスからは柔らかそうな谷間がちらちらと見えていて、マガリは自分の鼓動が強くなっていくことを自覚しました。
プラカはしばらく黙ったあと、ふっと息を吐き出してから口を開きます。
「じゃあ、一つだけ聞かせてください」
「うんっ」
「どうしてそこまでしてくれるんですか?」
「それは……」
「別に同情なんて必要ありません。私があなたにしたことを考えれば当然のことです。私はそれだけのことをあなたにしてしまっているんです」
「わたしは何もされてないよ」
「嘘ですよ! だったらなぜあんな……!」
「確かにされたけど……それが嫌だったことは一度もなかったもん」
「……どういう意味ですか?」
眉根を寄せたまま問い返すプラカに対し、マガリはゆっくりと手を伸ばしていきます。
白く細い指先がそっと頬に触れて、プラカはびくんと肩を震わせました。
「だって……わたしは嬉しかったんだよ?」
「嬉しい……?」
「うん。だから、これはお返しなんだ」
マガリはそのままプラカを抱き寄せてぎゅっと抱きしめました。
突然の行動にプラカは目を白黒させていましたが、やがて観念するようにため息をつくと、ぼそりと言い放ちました。
「……あなたのせいです」
「ん? 私のせい?」
「あなたのせいで私はおかしくなったんです! 責任取ってください!」
「えーっと……それはつまりどういうことかな?」
「だから……っ、こんなこと言うつもりなかったんですよ! あなたのことなんて全然好きじゃないし、そもそも恋愛感情があるわけじゃありませんし、なのにどうして私がわざわざこんなことを言わないといけないのかまったくわからないし、ああもう全部あなたのせいですよ!!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて」
「これが落ち着けると!?」
怒り心頭といった様子でまくし立てるプラカに対して、しかしマガリはまったく動じていません。むしろ嬉しげですらあります。
「……なんで笑っているんですか?」
「だって嬉しいから」
「……何が?」
「プラちゃんがやっと本当の気持ちを教えてくれたことがだよ」
「……あっ」
そこでようやく、自分が何を口走っていたかに気づいたプラカの顔が赤く染まります。
そのまましばらく口をぱくぱくさせていたプラカでしたが、やがて深呼吸をして自分を鎮めると、再び口を開きました。
「……本当に、あなたの気遣いはよく伝わりました。だから私はそれだけで十分満足しています」
「そっか……わかった!」
納得してくれた様子のマガリを見てホッとしたプラカですが、次の瞬間には、
「じゃあ今度はわたしの話を聞いてくれる?」
「えっ!? あっはい! それはもちろん……」
予想外の言葉に戸惑ってしまいます。
しかし、マガリはその戸惑いを無視して口を開きました。
「あのね、実はわたし、この前あなたに嘘ついたことがあるんだ」
唐突に始まった告白にプラカは目を丸くしてしまいます。
「嘘? 一体何を?」
「ほら、初めて会った時、わたしが貴族だって言ったじゃない? あれが嘘だったとしても、わたしに怒ることくらいできたんじゃないのかな?」
「それは……確かにそうかもしれませんけど」
マガリの言葉を聞いてプラカは自分の言葉足らずさを後悔しました。
どうしてこんなにもマガリは自分に優しくしてくれるのか。その理由を知りたかっただけです。しかしそれをうまく説明できる自信がなかったのです。それに、自分が貴族であるという事実が否定されるのを恐れていました。
「だからさ、もし嫌なことされたんなら遠慮しないで言ってよ」
「別に何もされてないですよ……むしろ私がお礼を言いたいくらいです」
「えーっ! 何で?」
心底不思議だという顔をするマガリを見てプラカは思わず吹き出してしまいました。
「ふふっ、本当におかしな人ですね。あんなこと言っておいて自分で気づいていないんですか?」
「えっと……ごめん、全然わからないんだけど」
「いえ、何でもありません」
プラカにとっては、自分を助けてくれたことよりも、この人が自分を対等に見てくれていることの方が嬉しかったのだとは言えなかったようです。
「それより、そろそろ本題に入りましょう」
「あっ……うん、そうだね」
二人は互いに向き合うように席につきました。
「あのさ、今日呼んだのは……どうしても謝りたくて」
「何をですか?」
「その……あなたを見下していたことを」
「やっぱり……」
「でもね、今は違うんだよ!」
「はい、わかってます」
「じゃあ言ってみてよ。私のどこが悪いのか、ちゃんと言ってみせてよ」
「だからそれは……」
「ほらやっぱり言えないじゃん!」
「そういうわけでは……」
「ならどういうわけ!?」
語気を強めていくマガリに対して、どんどんと萎縮していくプラカ。このままだといけないと思いつつも、何も言えずにいたのですが――しかし、そこで思わぬ助け舟が入りました。
「ふむ。じゃあさ……もしよかったら今度こそ聞かせてくれるかな?」
「えっと……何をでしょうか?」
「キミが私を嫌う理由だよ」
「それは……」
言葉に詰まるプラカを見て、マガリは内心ほっとしていました。
なぜならば、プラカはまだ自分が嫌われていることを知らないのではないかと思っていたのです。
そして、この機会を利用してそれをはっきりさせておこうと思いました。
「私が嫌いだから、なんだよね? だったら私は直せると思うんだよ」
「…………」
「ほら、私はキミより一つ年上だし、それに生徒会の先輩でもあるしさ。いろいろ教えられることはあるんじゃないかなって思うんだけど」
「…………」
黙り込むプラカを見つめたまま、マガリはじっと答えを待っていました。
しかし、いつまで経ってもその答えは返ってこず、マガリは再び問いかけようと口を開きかけたところで、
「じゃあさ! これ読んでみて!」
プラカは自分のロッカーの中から一枚の紙を取り出し、それを押し付けるように渡してきました。
そこにはこう書かれていました。
『あなたは本当に私のことが好きなんですか?』
突然の行動に面食らうマガリを尻目に、プラカはそのまま言葉を続けていきます。
「私はあなたの気持ちを知りたいのです」
「えっと……どういう意味かな?」
「そのままの意味ですよ」
「だからさっき言った通りだよ。僕は君のことが好きだし、君のために何かをしてあげたいといつも思っているんだよ」
「嘘ですね」
キッパリと言い切り、プラカは首を横に振りました。
その否定の言葉は、マガリにとって予想外のものでした。マガリは混乱してしまいました。自分の好意を信じてもらえなかった事に対する悲しみよりも先に、どうしてこんなにもプラカが頑なな反応をしているのかがわからなかったのです。
しかしすぐに思い直しました。自分がフラれれば、きっとこの場にいるプラカの友人である女の子たちも、自分たちと同じように傷つくことになるはず。だから彼女は自分を傷つけまいとしているのだ、と思い至ったのです。
「じゃあさ、こうしようよ。もし私のことを好きじゃないなら嫌いだってはっきり言って欲しいんだ」
「それは……」
「このままだと気持ち悪いんだよ! お願い!」
すがるような瞳で訴えかけられてしまい、プラカはとうとう観念してしまったように小さくため息をつきました。
「別にあなたが悪いわけではありません。私が勝手に勘違いをしていただけですから」
「どういうこと?」
「私はあなたのことが好きだと思っていました。いえ、今でも好きです。でもあなたにとっては私は友人の一人に過ぎない。それを理解しただけですよ」
そう言うプラカの顔からは先程までのこわばりが取れていました。
「……本当にそれだけ?」
「はいはい、じゃあそういうことでいいですよ」
「むー……やっぱり納得できない!」
唇を尖らせて抗議の意思を示すマガリに対し、
「だから! 何度も言ってるじゃないですか! ボクはもう気にしていないんですってば!」
ついに我慢の限界に達したように声を荒げて言うプラカ。
そのまま踵を返して帰ろうとするプラカの腕を慌てて掴んで引き留めると、今度は逆にマガリの方がプラカのことを睨みつけてやります。
しばらく無言のまま二人はお互いを見つめ合っていましたが、やがて根負けしたのはプラカの方。肩を落としてため息をつくと、観念したかのように口を開きました。
「……正直に言わせてもらってもいいですか?」
「どうぞ」
「あなたは……どうしてそこまでボクのことを信じてくれるのかと思っていました」
それは今まで聞いたことがないくらい弱々しい声で発せられた言葉。
「あんなことがあった後なのに、何事もなかったかのように接してくれて……普通ならあり得ないことだと思います」
俯いたまま、ぼそぼそと話し続けるプラカの言葉を聞いて、マガリの顔がふっと緩みました。
「なんだ、そんなこと?」
拍子抜けだとばかりにため息をつくと、彼女は手に持っていた本を閉じました。
「じゃあさ……どうして、私のこと避けてるのか教えてくれないかなって」
「それは……別に避けるつもりなんてありませんけど」
「ウソだよ。私が話しかけてもすぐにどっかいっちゃうじゃん」
「それは……」
言葉が詰まるプラカに対して、マガリはずいっと顔を近づけていきます。
二人の顔の距離はわずか数センチといったところです。
近い距離にあるマガリの顔を見た瞬間、プラカは頬を真っ赤にしていました。
「ねぇ、ほんとのこと言ってよ」
「そっ、それは……その……」
プラカは口を開きかけて、そのまま何も言わずにうつむいてしまいます。
すると、今度はマガリの方が眉間にしわを寄せ始めました。
「やっぱり私、嫌われるようなことしちゃったかな」
「ち、違います! むしろ逆というか!」
勢い良く顔を上げると、慌てふためくように手を振って否定しました。
その反応を見て、マガリもようやくほっとした様子を見せます。
「よかったぁ……」
ほっとしたように息をつくと、今度はいつものような笑顔を浮かべて見せました。
「じゃあさ、せっかくだからこの教室使わせてもらおうよ! わたしたちだけで!」
「えっ!? ちょ、ちょっとそれはダメですよ! 先生に見つかっちゃったら怒られちゃいますよ!?」
「大丈夫だよぉ、きっと見つからないと思うもん。それに、ここでならゆっくりお話しできるしさ」
「いやそういうことではなく……」
慌てるプラカに対して、マガリはどこ吹く風といった様子で自分の荷物の中から何枚もの紙を取り出します。それを一枚ずつ確認しながら教壇の上に置くと、満足げな顔を見せました。
「わたくしは……別にあなたに対して何もありません」
「じゃあさっきまで読んでいたそれは何?」
言われてプラカは自分の手元にある教科書を見つめなおしました。そこには、「貴族の心得~下級生編~」という題字が記されていました。
「これは……」
「ねぇプラカちゃん、本当にどうでもいいならどうしてこんなものを読んでるの? それに、今日だけじゃないんだよ。最近のプラカちゃん、私が話しかけてもどこか上の空だし、一緒にいてもいつも難しい顔してるし、まるで別人みたいだよ」
「それは……」
マガリの言葉を受けて、プラカの顔色はどんどん青ざめてゆきます。
その様子を見て、マガリの中に不安が広がり始めました。
「やっぱり私が原因だったんじゃん! 何があったのか言ってみてよ!」
勢いに押されるようにしてプラカは口を開きかけましたが、すぐに閉じてしまいました。
しばらく沈黙が続きます。
やがて、観念したようにプラカは大きく息を吐きました。
「実は、その……この間の話なのですが……」
「うん」
「私は別に気にしていないのです。ただ……マガリさんが気になるというのであれば、私の方で対処しようかなと」
「どういう意味?」
マガリが首を傾げると、プラカは再び大きくため息をつきました。
「つまりですね、私としてはこう……あなたがあまり思い詰めないようにと思ってやったことだったわけですよ。あなたが私のことを心配してくれているのはわかっていましたから。なのに私が逆上してしまったら元も子もないじゃないですか」
「じゃあさ、これからは仲良くしてくれるかな?」
「それは……まぁ……」
口ではそう言っているものの、まだどこかぎこちなさが残る口調でした。
「それと、これはお願いなんだけれど……敬語をやめてほしいなって思うんだけどダメかな?」
「えっと……どうして急に?」
「だって、わたしたち同い年だし。それに、わたしの方がお姉さんだからさ」
「別に私は気にならないんですけど……まぁ、そういうことでしたら」
それからしばらく雑談を交わした後、二人はそれぞれの家路につきました。
◆◆◆
さらに翌日。
朝早く起きてきたマガリは、いつもより念入りに身支度を整えて家を出ました。
今日は土曜日で学校は休みですが、マガリにとっては関係ありません。
なぜなら彼女は休日にも勉強をする習慣があるのですから。
朝の空気はまだひんやりとしていましたが、太陽はすでに高く昇り始めて暖かな光を放っています。窓から入り込む風は少しだけ湿気を帯びていて、どこか生臭い匂いを感じさせていました。