テラーノベル
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心臓の鼓動が激しく打ち鳴らされ、口から飛び出しそうだった。
ゴミ集積所の湿った重苦しい空気の中
背後の街灯を背負い、逆光で表情の読み取れない男が私をじっと見つめている。
「……サヤ? 何してんの、そんなところで」
男の声は低く、地を這うような響き。
そこには親愛の情など微塵もなく、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
私は咄嗟に、拾い上げたばかりの『最終通告』の紙を指先で丸め、コートのポケットの奥深くへとねじ込む。
(どうしよう。バレる……?)
今更ながら恐怖で膝が笑い、足がすくむ。
しかし、それ以上に私の脳内を支配したのは
ある確信に近い「予感」だった。
私は今、サヤとお揃いの、あの淡いベージュのロングコートを纏っている。
視線を遮るように深く被ったキャスケット。
そして右耳には、彼女の肉体を貫いたばかりの、あの三月のピアス。
「……ごめん。ちょっと、出し忘れたゴミが気になっちゃって」
私は顔を伏せたまま、サヤの動画を音波の形まで暗記するほど聞き返した
あの少し鼻にかかった甘ったるい声を精一杯なぞった。
一瞬、不気味な沈黙が流れる。
生温かい夜風がゴミの死臭を運び、男がゆっくりと、一歩ずつ距離を詰めてくる。
「……ふーん。お前、最近変だよな。返信の仕方もそうだし、急に会いたがったりしてさ」
男の大きな手が、私の細い肩に置かれる。
服越しでもわかるほど、骨が軋むような強い力。
サヤの煌びやかなSNSには一度も登場したことのない、この「影」のような存在。
写真の中の幸福を絵に描いたような彼女からは想像もできないほど
この男からは、熟成された「暴力」の匂いがした。
「……ねえ、部屋に行こう? 外、寒いでしょ」
私はあえて自分から、男のガッシリとした腕にすがりついた。
この扉の向こう、サヤの私室に入り込めば、もっと彼女の核心に触れられる。
彼女が毎日見上げる天井、彼女が体温を預ける枕
彼女が世間から隠し通している「本当の顔」。
男は鼻で薄笑いを浮かべると、私を引きずるような足取りでエントランスへと向かわせた。
オートロックが解除される無機質な電子音。
それは、私にとって「聖域」へと至る、禁断の招待状に聞こえた。
上昇するエレベーターの鏡に映る、並んだ二人。
男の隣で怯えるように肩をすぼめる私は、客観的に見て、どう見ても「サヤ」そのものだった。
私はポケットの中で丸まった『最終通告』の紙を指先で愛撫するようになぞる。
(サヤ……。あなた、こんなに怖い思いをして、この生活を守っていたの?)
203号室。部屋の前に着き、男が荒々しく鍵を開ける。
「入れよ」
促されるまま一歩足を踏み出した瞬間、私の鼻を突いたのは
彼女の象徴でもある甘い香水の匂いと──
それとは正反対の、何かが腐敗したような
湿り気を帯びたじっとりとした生活の臭いだった。
玄関に脱ぎ散らかされた、数々の高級ブランドのパンプスやサンダル。
その中の一足、サヤが昨日の投稿で履いていた新作の靴の裏に
べっとりと付着した「黒い土」が、私の目に飛び込んできた。
それは代官山のアスファルトの上には、決して存在しないはずの、重く湿った土だった。
#パワハラ上司
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