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おんりーの家を訪ねるのは、初めてではなかった。
仕事の帰りに寄ることもあれば、みんなで遊んだあとに少しだけ残ることもある。玄関を開けた時に見える靴箱も、リビングへ続く短い廊下も、もう何度か見たことがあった。
それでも今日は、インターホンを押す指がいつもより少しだけ重かった。
別に、大変な話をしに来たわけではない。
誰かに相談しなければならないほど困っているわけでもなかったし、答えを出してほしいと思っているわけでもない。ただ、自分の中だけに置いておくには少し大きくなってきた気持ちを、一度誰かに言葉にしてみたかった。
その相手として最初に浮かんだのが、おんりーだった。
少し前に、ぼんじゅうると付き合い始めたことを教えてくれた人。
あの日、おんりーから話を聞いたことで、おらふは初めて自分の感情にも名前をつけられた。
なら、話す相手としては一番自然な気がした。
玄関の向こうで足音がして、鍵が開く。
「はい。」
扉の隙間から、おんりーが顔を出した。
「こんばんはー。」
「どうぞ。」
いつもの調子だった。
そのことに少し安心して、おらふは靴を脱いだ。
リビングには、小さくテレビがついていた。
音量はかなり絞られていて、何かのバラエティ番組らしい笑い声が時々聞こえる。テーブルの上には飲みかけのペットボトルが一本と、開いたままの菓子袋が置かれていた。
おんりーが冷蔵庫を開ける。
「何飲む?」
「なんでもええよ。」
「それ一番困る。」
「じゃあ水。」
「はい。」
ペットボトルを渡される。
キャップを開ける時、ぱき、と小さな音がした。
おらふは一口飲んでから、ソファへ座った。
おんりーも少し離れたところへ腰を下ろす。
「で。」
「ん?」
「何。」
「何って?」
「なんかあるんでしょ。」
いきなりだった。
おらふは目を丸くする。
「なんで分かるん。」
「わざわざ一人で来るの珍しいし。」
「普通に遊びに来たかもしれんやん。」
「じゃあ遊ぶ?」
「……いや。」
おんりーが少し笑った。
「ほら。」
「なんやねん。」
言いながら、おらふも笑う。
少しだけ肩の力が抜けた。
こういうところがおんりーらしい。必要以上に気遣うような顔をせず、かといって無関心でもない。ただ、話すなら聞くという顔で待っている。
おらふはペットボトルを両手で持った。
透明な容器の中で、水が少し揺れている。
「自分にもさ。」
言ってから、少し間を置いた。
おんりーは急かさない。
「好きな人ができた。」
口にしてみると、思っていたより普通の言葉だった。
胸の中で何度も使ってきた言葉なのに、誰かへ向けて声にしたのは初めてだった。
おんりーが一度まばたきをする。
「へえ。」
「反応薄ない?」
「いや、びっくりしてる。」
「その顔で?」
「うん。」
相変わらずだった。
おらふは少し笑ってから、ペットボトルへ視線を落とした。
「自分でも、最近気づいたんよ。」
「うん。」
「前から好きやったんやと思うけど、なんか、その好きがどの好きか分かってなくて。」
話しながら、自分でも少し可笑しくなる。
「おんりーがぼんさんと付き合ったって聞いた時にさ。ああ、好きってこういう感じなんかなって考えてたら、なんか全部つながって。」
そこまで言った時だった。
廊下の向こうで、かすかに扉が開く音がした。
おらふは何となくそちらを見る。
続いて、ぱたぱたと足音が近づいてくる。
誰かいる。
そう認識した時には、もう遅かった。
リビングの扉が開いた。
「あー、暑。」
髪をタオルで拭きながら、ぼんじゅうるが入ってきた。
おらふは固まった。
ぼんじゅうるも固まった。
数秒、無言で見つめ合う。
先に口を開いたのは、おらふだった。
「……ぼんさん居たんすか。」
「いた。」
「なんで?」
「風呂借りてた。」
あまりにも普通に返される。
おらふはゆっくりおんりーを見る。
おんりーもこちらを見る。
「来てるって言うの忘れてた。」
「忘れる!?」
思わず声が大きくなる。
「いや、普通言うやろ!」
「そう?」
「そうやろ!」
ぼんじゅうるが笑い出した。
「ごめんごめん。俺、もうちょい向こういようか?」
「いや、もう聞いたやろ!」
「好きな人できた、くらいは。」
「一番大事なとこ聞いとるやん!」
おらふは両手で顔を覆った。
さっきまで少し緊張していたのに、全部どこかへ飛んでいった。
ぼんじゅうるは楽しそうに笑いながら、おんりーの隣へ座る。
「誰?」
「言わん。」
「即答。」
「ぼんさんには絶対言わん。」
「なんで俺だけ。」
「広まりそうやから。」
「俺そんな口軽くないよ?」
おんりーが横から言う。
「まあまあ軽い。」
「おんりー?」
「事実。」
「恋人からの信頼がない。」
「そういうとこ。」
二人のやり取りを見て、おらふは思わず笑った。
付き合い始めたと聞いた時にも思ったけれど、こうして目の前で二人を見ると、以前と大きく変わったようには見えない。会話のテンポも、くだらない言い合いも、昔から知っている二人のままだった。
ただ、ぼんじゅうるが自然におんりーの近くへ座っていることや、おんりーがそれをまるで気にしていないことに、今までとは少しだけ違うものが混ざっている。
恋人になったからといって、二人が別の人間になったわけではない。
関係が一つ増えただけなのだと、見ているとよく分かった。
「で。」
ぼんじゅうるがタオルを首へかけながら言う。
「好きな人できたんだ。」
「……まあ。」
「いいじゃん。」
あまりにも明るく言われて、おらふは少しだけ目を上げた。
「そう?」
「うん。好きな人いるの、別に悪いことじゃないでしょ。」
その言葉に、少し前の夜を思い出した。
自分の感情をうまく扱えず、洗面所で何度も手を洗った夜。
好きというものの中に、きれいなものだけがあるわけではないと知って戸惑った。それでも最後には、感情が生まれることと、それをどう扱うかは別なのだと、どうにか自分へ言い聞かせた。
「まあ、そうなんやけど。」
おらふはペットボトルのラベルを指先でなぞった。
「どうしたらええんかなって、ちょっと思って。」
おんりーが首を傾げる。
「どうしたらって?」
「告白とか。」
言葉にした途端、急に現実味が増した。
おらふは少し眉を寄せた。
「好きって分かったら、普通は言うんかなって。なんか、恋愛ってそういうもんなんかなって思って。」
「言いたいの?」
おんりーが聞く。
おらふはすぐには答えられなかった。
言いたいか。
改めて考える。
ドズルの顔が浮かぶ。
笑った顔。
筋肉の話をしている時の楽しそうな声。
雑貨屋で「これ、おらふくんっぽい。」と言いながらマスコットを手に取った時のこと。
知らない人に声をかけられた時、自分を守るために肩へ手を置いて「俺の恋人なんで。」と言ったこと。
どれも、自分にとって大切な記憶だった。
けれど、その先に「付き合いたい」が自然に続くかと言われると、少し違う気もした。
「……分からん。」
正直に答えた。
「好きって知ってほしい気持ちが、ないわけではないんよ。でも、知ってもらってどうしたいんやろって考えたら、よう分からん。」
ぼんじゅうるも、おんりーも何も言わない。
おらふは続けた。
「今のままでも、普通に楽しいんよ。一緒に仕事して、喋って、たまに二人でなんかしたりして。それがなくなるほうが嫌やなって思うし。」
自分で言いながら、少しずつ考えが整理されていく。
「でも、告白せんかったら逃げなんかな、とか。好きなのに何もせんって、それでええんかな、とか思う時もある。」
部屋が少し静かになった。
テレビの向こうで誰かが笑い、すぐにその音も遠ざかる。
おんりーがテーブルの上のペットボトルへ手を伸ばし、一口飲んでから言った。
「告白するかしないかは、おらふくんが決めたらいいんじゃない。」
おらふは顔を上げる。
おんりーは、いつもの淡々とした顔をしていた。
「普通とか関係なくない?」
「まあ、そうやけど。」
「言いたいなら言えばいいし、言わないほうが自分にとっていいなら、言わなくてもいいと思う。」
「でも、怖いから言わんだけかもしれんで。」
「それでもいいんじゃない。」
返事は早かった。
おらふは少し驚く。
おんりーは続けた。
「怖いのも、自分の気持ちでしょ。相手との関係を壊したくないとか、今のままが大事とか、それも含めて決めるんじゃないの。」
その言葉を聞いているうちに、おらふの中にあった小さな引っかかりが少しほどけた。
告白できるほうが勇気がある。
言わないのは臆病。
どこかで、そんなふうに考えていたのかもしれない。
でも、自分は勇気があるかどうかを証明したいわけではなかった。
大切なのは、ドズルとどういう関係でいたいのか。
自分の気持ちをどう持っていたいのか。
そのほうだった。
「自分らは。」
おらふが少し迷いながら聞く。
「付き合ってよかった?」
ぼんじゅうるがすぐに答える。
「めちゃくちゃ。」
「早。」
「そこ迷うとこじゃないでしょ。」
ぼんじゅうるが笑う。
おらふもつられて笑った。
おんりーは横から、
「ぼんさんはそうだろうね。」
と言う。
「おんりーは?」
「よかったよ。」
短い返事だった。
でも、ぼんじゅうるが一瞬黙った。
おらふはそれを見逃さなかった。
「ぼんさん、今ちょっと嬉しかったやろ。」
「いや?」
「顔に出てるで。」
「出てないよ。」
「出てる。」
おんりーまで言う。
「二対一やん。」
ぼんじゅうるが笑い、首にかけたタオルで髪をもう一度雑に拭く。その様子を見ながら、おらふは少しだけ羨ましいと思った。
きっと、こういうのが両思いなのだ。
好きな人に好きだと言えて、相手からも同じものを返してもらえる。今まで別々に持っていた気持ちを、二人で持てるようになる。
それは、やっぱり幸せなことなのだと思う。
自分だって、もしドズルから同じ気持ちを返してもらえる世界があるのなら、嬉しくないはずがない。
ただ、その想像をした時に胸へ浮かぶものは、喜びだけではなかった。
ドズルの今の生活。
大切にしているもの。
自分たち五人の関係。
仕事。
そこに自分の恋を置いた時、何が変わるのか。
考えるだけで少し怖かった。
おらふが黙っていると、ぼんじゅうるがこちらを見た。
「でもさ。」
声の調子が少しだけ変わった。
さっきまでの冗談めいたものではなく、穏やかな声だった。
「両思いになることが答えじゃないこともあるよ。」
おらふは瞬きをした。
思っていなかった言葉だった。
それを言ったのが、今まさに好きな人と付き合っているぼんじゅうるだったことも、少し意外だった。
「ぼんさんがそれ言うん。」
「俺だって、付き合えたから恋愛全部分かります、みたいなことじゃないし。」
ぼんじゅうるは少し笑った。
「俺は、おんりーと付き合いたかった。好きって言いたかったし、一緒にいられるなら一緒にいたかった。だから言った。」
隣のおんりーを見る。
おんりーは何も言わずに聞いている。
「でも、それがおらふにも正解とは限らないじゃん。」
ぼんじゅうるの視線が戻ってくる。
「好きって、付き合うためだけにあるわけじゃないと思うし。」
おらふは黙って聞いた。
「相手が幸せだったら嬉しいとか、一緒にいる時間が好きとか、そういうので自分がちゃんと幸せなら、それだって普通に好きなんじゃない?」
その言葉が、思っていたより深いところへ入ってきた。
おらふは、自分がドズルを好きだと気づいてからの日々を思い返した。
マスコットをもらった日。
ただ二人で買い物をした日。
何でもない言葉が嬉しかった日。
夜中、自分の気持ちに戸惑った日。
「恋人」と呼ばれて、意味がないと分かっているのに嬉しくなってしまった日。
苦しいことがないわけではない。
けれど、それ以上に楽しい時間もたくさんあった。
好きだからこそ、幸せだった瞬間がちゃんとある。
その全部を、両思いになれないなら無意味だという形にはしたくなかった。
「……なんか。」
おらふは少し笑った。
「楽になったかも。」
「ならよかった。」
ぼんじゅうるが言う。
おんりーも小さく頷いた。
「今決めなくてもいいし。」
「うん。」
「明日急に言いたくなるかもしれないし、ずっと言わないかもしれない。それはその時考えればいいでしょ。」
「おんりーって、たまにめっちゃまともなこと言うよな。」
「たまに?」
「普段は?」
「帰って。」
「僕の相談途中やのに!」
三人で笑った。
笑い声が落ち着くと、部屋にはまたテレビの小さな音が戻ってくる。
おらふはペットボトルを持ち上げ、残っていた水を飲んだ。さっきまで何となく胸につかえていたものが、少しだけ下へ流れていくような気がした。
帰る頃には、夜もだいぶ深くなっていた。
玄関で靴を履いていると、ぼんじゅうるがリビングのほうから声をかけてきた。
「おらふ。」
「はい?」
「また話したくなったら言いな。」
「ぼんさんに?」
「なんでそんな嫌そうなの。」
「口軽そうやから。」
「まだ言う?」
笑いながら返してから、おらふは少し間を置いた。
「でも、ありがとうございます。」
「うん。」
おんりーも玄関まで来る。
「気をつけて。」
「はーい。」
扉を開けると、廊下の空気が部屋の中より少し冷たかった。
「じゃあ、おやすみ。」
「おやすみ。」
扉が閉まり、かち、と鍵の音がする。
おらふは一人で廊下を歩き始めた。
足音が静かに響く。
告白するかどうか。
まだ決めていない。
多分、すぐには決めない。
それでいいのだと思えた。
好きだと伝えなければ、この気持ちが偽物になるわけではない。両思いにならなければ、今まで嬉しかったことが消えるわけでもない。
ドズルを好きになったことで、自分はたくさん笑った。
ちょっと困った。
少しだけ泣きたくなるような夜もあった。
それでも、今のところは好きにならなければよかったと思ったことは一度もなかった。
建物を出ると、夜風が頬へ触れた。
スマートフォンを取り出す。
特に連絡する用事はない。
それでも、ふとドズルの名前が目に入った。
少しだけ指を止める。
今日のことを話したいとは思わなかった。
「好きな人ができた」と誰かへ初めて言った日。
その相手が誰なのか、本人にはまだ知られなくていい。
そう思うと、不思議と寂しくはなかった。
秘密にしているというより、大切なものを自分のところへ置いているような感覚に近かった。
いつか伝えたいと思う日が来たら、その時に考えればいい。
来なかったとしても、それはそれでいい。
おらふはスマートフォンをしまい、駅へ向かって歩き出した。
明日、ドズルに会えば、きっといつものように名前を呼ばれる。自分もいつものように返事をして、くだらない話をして笑うのだろう。
その時間をまだ失いたくないと思う自分も、いつかもう少し近くへ行きたいと思うかもしれない自分も、どちらも無理に否定する必要はない。
答えを急がなくても、恋はそこにある。
そして今夜のおらふには、それだけで十分だった。
コメント
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いやあ、第6話めっちゃ良かった…!おらふが自分の気持ちを「好き」って認めて、やっと人に話せたシーン、すごく胸にきたわ。しかもまさかのぼんさんが風呂上りで登場って(笑)あの気まずさ、あるよな〜。でもその後の3人の会話がすごく自然で、おんりーとぼんさんがそれぞれの立場からおらふに返す言葉が優しくて刺さった。「好きって、付き合うためだけにあるわけじゃない」って台詞、ガチでグッときた。答えを急がなくていい、っていう着地もすごく好き。おらふの成長を感じる回やった🔥