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「はぁはぁはぁ……」
入り組んだ建物群の路地裏を、息を切らせながらも必死に走り続ける。
“――何だよ! 何なんだよアイツはっ!?”
「――何で俺らがあぁっ!?」
市岡 明は岩崎が『雫』に“消去”された直後、その場から一目散に駆け出していた。
“――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!”
脳裏に焼き付くは二人の無惨な死。
心臓を抉り出された園田。
頭部が破裂し無くなった岩崎。
“――死にたくねぇ死にたくねぇ死にたくねぇ!!”
“何故こんな事態になったのか?”
今の市岡に冷静な思考力等、有るはずも無い。
「くそったれがあぁっ!!」
ただ意味無き雄叫びを断続的に上げながら走り、逃げ続けるしか無い。
“この悪夢の様な現実から”
「はぁ……ひぃ……」
“逃げ切れる?”
市岡は不意に希望の念を抱く。背後から追って来る気配は無い。
何よりこれだけ暗く入り組んだ、狭い路地裏をこれだけ全力で走っているのだから、一度見失ってしまえば追跡はおろか、探す事も出来るはずが無いとしか思えないからだ。
“――たっ……助かった?”
市岡は走りを緩める。既に息切れも限界にきていた為、“一息吐きたい”と思った刹那――
「――うぼぁ!?」
前方を見ていなかったのか、何か壁の様な感触に阻まれて、市岡は弾ける様に尻餅を着いた。
「いってぇ…………!!」
目を凝らした市岡の瞳が、驚愕に見開かれる。
「ヒッ……ヒィィギャアァァァァッ!!!」
そして恐怖の余り、言葉にならない絶叫が吐き出された。
何故ならその眼前には、待ってましたと言わんばかりに、黒衣に両手を突っ込みながら立ちはだかる『雫』が、その無機質な銀色の輝きを以て、市岡を見下ろしていたのだから。
“有り得るはずが無い”
「なっ……何でぇえぇっ!?」
背後からならまだしも、前方から来る等、仮に先回りしたとしても、時間系列的に間に合わないはず。
「くっ……来るなぁあぁぁぁ!!」
しかし現実に目の前に“居る”のだから、それがどんな理解を超えた事でも、受け止めせざるを得ない。
市岡は尻餅を着いたまま後ずさりしながら、声無き声を絞り出す。
恐怖と混乱のあまり、腰が抜けてもはや立つ事も不可能。
絶体絶命。蛇に睨まれた蛙の構図。
「……逃走も抵抗も無意味だ」
後ずさる市岡にゆっくりと歩み寄る『雫』は、まるで全てが手遅れ、とでも言わんばかりに宣告し、右手を掲げる。
その手に煌めく、冷たくも蒼白い輝き。
「やめっヤメェエッ! 助けッ! 殺さないでぇエェェ!!」
市岡の言語不明な必死の懇願。命乞い。
“死にたくない”
願うはただそれのみ。
その顔面はこの世のものとは思えない程に歪み、涙やら鼻水やら涎やら、毛細から噴き出るあらゆる液体で、市岡の表情は面影も無い程変貌している。
また極度の恐怖から失禁したのか、ボトムスからは染みと共に湯気が立っていた。
『雫』は市岡の顔面に右手を伸ばし、その表情を覆い隠す様に掴む。
「お前達は俺にとって、只の“消去”する対象に過ぎない」
そこに一切の感情は無い。
「五十万……それがお前達の命の価値。そしてその金額に込められた恨みの重さ……」
“ただせめてもの情けなのか?”
最期に“消去”される理由の一部を、冥土の置き土産として囁く様に呟いていた。
市岡には『雫』の言ってる言葉の意味が理解出来ない。
“自分さえ良ければそれで良かった”
“欲望の赴くままに生きて何が悪い?”
“自分以外は屑だ”
だがどうやらその“ツケ”が、殺される理由であるらしい事は理解出来た。
“何故? こんな事で?”
自分勝手。だが理不尽な理由の因果応報。
「し……死にだぐねぇぇぇ……」
市岡の瞳から止めどなく涙が溢れ、それは『雫』の指を伝う。
今の間際になって、これまでの己の行いを後悔している訳でも、ましてや悔いてる訳でも無い。
ただ生きたい、即ち“死にたくない”の一点のみ。
『雫』は不意に掴んでいる右手を、市岡の顔から離した。
憐れにも泣きじゃくる市岡の姿に、思う処でもあったのか? 『雫』は市岡に背を向けて、ゆっくりとその場から離れる。
“見逃された?”
市岡の脳裏に過ったのは安堵感。それと同時に沸々と沸き上がる怒り。
それは自分をこんな目に遭わせた、眼前の人物に対する憎悪。
何故見逃されたのか、今の市岡に考えてる余裕も無い。
ただ怒りが恐怖を凌駕していた。
“――殺してやる殺してやる殺してやる!”
右ポケットにある、改造スタンガンを握り締めて。
「この糞野郎があぁあぁぁぁ!!」
怒りに任せた絶叫と共に、市岡は右手に握り締めた改造スタンガンを、背を向けている『雫』へ向けて飛び掛かっていた。
先端部からはバチバチと電光が煌めく。
20万ボルトの電圧が人体に触れれば、激しい痙攣と共に一瞬で意識を失うだろう。
『雫』の背後から殺意を以て放たれる改造スタンガン。
「なっ!?」
その背に届くまで、その間約三十センチメートルにまで迫った時の事。
“――かっ……身体が……動かない!?”
届く直前に自我とは関係無く、突然金縛りに遭ったかの様に停止した己の肉体に、市岡は疑問を抱かざるを得ない。
「何で? 何でぇえぇぇ!?」
押せども引けども動かぬ身体。まるで全身の筋肉が固まったかの様な感覚。
焦りは次第に恐怖へと。
「お前は自分の愚かさを噛み締める必要がある」
驚愕に引きつった表情の、冗談の様に固まって動かない市岡に向けて、『雫』は振り返る事無く、そう呟いていた。
そして何故『雫』がその手を離し、背を向けたその本当の理由を。
「お前の身体には既に氷の“タネ”を植え付けてある。全身の筋繊維凍結から硬直。やがて拡大する氷は内部から外部へ向けて……」
“ボン”
『雫』は市岡へ向けて握り締めた右拳を開き、その経過の過程後を朧気なジェスチャーで顕していた。
「ひっ! ヒィィヤァアァアァァッ!!!」
その意味を理解した市岡は、この世のものとは思えない絶叫を上げる。
見逃した訳では無かった。
「お前の様な“屑”を、俺が見逃すとでも思っていたのか?」
『雫』が背を向けたのは、ただ“消去”が終わっただけ。
半分だけ振り向いた『雫』の銀色の片眼には、市岡を“命”として見てはいない。
「いやあぁアァァアアァアァアァ!!!!!」
ただの無機質な物。消去対象としか認識していない、有象無象の冷酷さがあるだけ。
「絶望の獄土に散れ……」
恐怖と混乱に喚き続ける市岡をよそに、『雫』は無慈悲にもそう告げながら、再び背を向けていた。
突如、静止した市岡の身体に異変が起こる。
「――ひぎぃっ!!」
内部から“何か”が競り上がって来る感覚に、市岡は絶叫する。
不規則な表皮の膨張と収縮。
目を背けそうな“何か”が外へ出ようとしている。
「痛い痛いいだいイダイイダィイダイィィィ!!!!!」
胎内を蠢く得も知れぬ感覚と、神経を逆撫でする想像を絶する激痛に、悲痛な絶叫を上げ続ける市岡の哀れな姿。
その姿は偽善でなくとも、思わず助けたくなる程の。
その痛みと身体の膨張、収縮は臨界点を超え、やがて――
「だっ……だずけっ――!!」
“ボン”
圧縮した空気を破裂させた様な不協和音が、内部から外部へと向けて鳴り響いた。
その音と断末魔を最期に、市岡の五体は十六分割に破裂。
内部の中心点から競り上がり、咲き誇るは枝分かれした氷の華。
路地裏に咲いた“それ”は、幾多ものパーツで赤く彩られ、それはさながらモズの早贄の如く。
それは美しくも凄惨な“死”のオブジェ。
分離した生前の一部が、その恐怖を物語る様に見開いていた。
その瞳孔が動く事は二度と無い。
「市岡 明。消去完了」
『雫』はそのオブジェに一瞥する事も無く、無慈悲なまでの終焉を告げていた。
そこには一欠片の情けも慈悲も無い。
「お前達の断罪への消去は終了した」
誰に聞かせる訳でも無く、ただ対象を消去しただけかの様な、感情の無い『雫』の声が闇の静寂に溶け、消えていった。
「終わったな……」
暗闇に同化してたかの様な黒猫の姿。終了するのを待っていたのか、ジュウベエがそう呟きながら、路地裏の隅からそっと姿を現した。
何時から居たのかは定かでは無いが、少なくとも“消去中”は『雫』の傍らには居なかった。
姿こそ見せなかったが、“見届け役”として常に状況を把握していたのは確かだろう。
「よっこらせっと……」
ジュウベエは『雫』の下へ歩み寄り、跳躍していつもの左肩にその身を預けた。
「相変わらず凄絶だな……。まあ屑にはお似合いの最期ってか」
『雫』の目線の高さで現状を見回したジュウベエは、その凄惨さを理解していながらも、感慨に耽る事は無い。
“これはいつもの事”
消去対象に容赦をしないのは当然の事。
「後始末は向こうが勝手にすんだろ。証拠照明が今回の依頼の鍵だったからな」
それはこの無惨な状態を、証拠としてクライアントに提出する事を意味していた。
事故を装った自然死から殺害後の状況まで、消去の種類はクライアントが希望する事も出来るらしい。
「帰るぞジュウベエ」
二人はアスファルトに咲き誇る“死のオブジェ”をそのままに、一瞥する事も無くその場から立ち去る。
「これであの子も、少しは救われるといいんだがな……」
立ち去る間際のジュウベエの言葉の意味。それはクライアントの気持ちの代弁か。
「……救われる事は無いさ。どんな理由であれ依頼する者、裁かれる者の因果は終わらない。狂座にアクセスしたというのは、そういう事だ。クライアントはこれから、その業を背負って生きていかねばならない……」
しかし『雫』はその考えを一蹴する。依頼した者も消去された者も、同じく罪深き存在であるという事を。
「業を背負いし者の魂は、死後何処に逝くんだろうな……」
ジュウベエは言葉を濁す。
分かっていた。逝き着く先は一つしかない事に。それでもやり切れぬ想い。
ジュウベエは最後にチラリと背後を振り返る。
遠ざかっていく、その片眼に映るモノを。だがそれは同情の視線では無い。
“消去されるべき存在”
ジュウベエは視線を元に戻し、ほっと溜め息を吐いた。
「救われないな……あの子も、アイツらも……」
依頼した者と裁かれた者の因果関係。
「そして……」
その因果を第三者として裁く者。
「お前もな……」
ジュウベエが誰にともなく呟いたそれは、この三つ巴が等しく“罪”である事を意味していた。
その先に救い等無い。どんな形であれ、報いを受けねばならない事に。
「救われる必要は無い。俺がこの“道”を選んだ時から、逝き着く先は決まっているのだから……」
それは死後の地獄なのか?
だが生きる事を歩むこの現世(うつしよ)こそが、真の地獄と云えるのかもしれない。
凍る様に寒い夜の深淵――
路地裏にあった二つの姿は、その深淵の闇に溶け込む様に、その場からその姿を消していくのであった。
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