【廿肆話】
結局、子は流れてしまったらしい。
破水をして気が遠くなる中、一生懸命産もうとした。
――がいつの間に意識を失っていたのか目覚めた時
産婆の姿は無く、私は床に伏せていた。
赤子の姿は無い。
脳内にあの人が繰り返し云った言葉が浮かんだ。
「流れてしまわない様に。貴方は気質が激しい方だから心配だ。」
気質が激しいと流れやすいのだろうか。
きっとあの人が云うならそうなのだろう。
そしてその不安は的中したのだ。何処にも我が子の姿が無いのがいい証拠だ。
産婆に連絡して現実と向き合うか、否、そんな勇気など到底出まい。
産まれたのなら傍に居るだろう。生かして産んでやれなかったから産婆が私に気を使って目の前から連れ去ったに違いない。
幸せの赤子はもう居ない。
居ないのに赤子に飲ませろと乳が張り、痛みが走る。
私だって飲ませてやりたかった――
慰める様に痛む乳を押さえると迸る白い雫が悲しかった。泣いて、泣いて、泣いて――私は世を儚んで川に身を投じようと決めた。
でもそうも出来ない事情が出来た。
何日か経った日、お見舞いに来た彼は沈痛な顔で
黙ってそっと頭を撫ぜてくださった。
私は惚けた様に小さな庭を見ながら
「私も――桃が欲しい」そんな訳の判らぬ事を呟いた。
「桃――?」
「桃――の様な幸せ色をした子供が欲しかったのです。貴方の子が欲しかったのです。」
あの人はどんなお顔をなさっていたのでしょうか
只、小さく溜息をついて
「君が気病みして無かったら――その桃――をお渡ししたいのだが――」
「預かります!是非預からせて下さいまし!」縋る様に彼に願った。
彼の云う桃がどの桃なのか分からずに飛びついた。
空いた心の穴を塞ぐものなら何でも良かったのかも知れない。
精神の衰弱した私が目の前の小さな庭に見えてたものはかつて彼の後をつけ、家を覗き見た世界。
あの桃色の幸せが私は欲しかったのだ。
彼は何日かして赤子を連れてきた。
可愛い可愛い玉の様な赤子だった。
まだ真っ赤に乾いた肌をしていた。
抱いてみるとまるで自分の子供を抱いている様な
違和感の無い手ごたえがあった。頬擦りをすると少し酸っぱく柔らかな天国の香りがした。
そう思ったのは膨れた腹を摩りながら近所の寺に安産を祈願しに散歩に出かけた時、見知らぬ子供連れの方が私のお腹を見てそう云ったから。
「もうそろそろですか?」
「もう産まれても良さそうなのですが」
「きっと神様に惜しまれて天国に引き止められているのですわ。きっと愛らしいお子です事よ。」
本当に、本当にそうなら良いと思った。
いえだからこそ、我が子はここに居ないのかも知れない。
目の前の神様からの呪縛を振り払って下りてきた赤子は見えぬ目で乳を探した。慌てて私は彼が居る事も忘れ、胸を肌蹴て乳を吸わせた。
この小さな命は一生懸命乳を吸っていた。
乳も一生懸命出ようとしていた。
涙が沢山溢れて赤子に掛かった。
驚いたのか小さな手を揺ら揺らと動かしていた
その手を私は痛いぐらい握った。
「たぁんとお飲み。愛らしい子」
あの人はそんな私と赤子を見て微笑み
「大切に育ててやって欲しい。貴方の子だ」と云った。私は「この子は私の子です。大事な大事な宝です。」
嗚咽を堪えながら精一杯そんな言葉を紡いだ。
子は小さく息継ぎをしながらずっと乳を吸っていた。
温度がやんわりと伝わり幸せな幸せな気持ちだった。
私はその子に〝遥〟と名づけた。
生温く幸せな日々だった。私は遥が気になって気になってご不浄に行っては急いで帰ってきて傍に座り、ご飯の用意の最中も何度も何度も様子を見に行った。
瞬き一つが手を叩くほど嬉しかった。
ほら、私を見てくれた。微笑んでくれた。手を握ってくれた。
輝くばかりの時間、思い出しても胸の熱くなる幸福感、充実感。
夜泣きも全然苦にならなかった。泣き声さえも愛らしかった。
遥で私の生活は充満した。何年も、何年も――幸せな日々だった。
偶にあの人は様子を見に来てくれた。縁側で日向ぼっこをしながら
遥と遊ぶあの人にお茶を入れる私。まるで夫婦ごっこ。
束の間の幸福に満たされた時間。
あの子が本当は何処の子だったのか気にはなったけれど真実を聞いた途端、遥は私の遥で無くなる気がした。
不要な現実なら要らないし見たくない。
いつか誰かが取り返しに来ても渡してなどやるものか。この愛しい子は私の子。私と私のあの人の宝物。
砂上の城の様な生活でも、崩れぬ様に暮らせばいい。
そんな事を思いながらそっと静かに過ごしていた。
あの日までは――
少し大きくなった遥、庭の櫻。はらはらと散る花弁を纏いこの子は私に手を振った。
「お母様、見て見て!雪の様よ!お家の衝立と違う。動くお花、綺麗ね?」
十かそこらだったかしら。あの人の選んできた着物を着てた。
覗き見たあの人の奥様と同じ様な色柄の清らかな着物だった。
白に桜の花弁の桃色が映えて――あの時の景色が蘇った。重なる遥と彼の奥様の幸せそうなお姿。
――耳元でさらさらと砂の音がした気がしました。
それが幸せの崩壊の合図でした。
今までどうして接していたのか分からなくなって――
如何しても余所余所しくしか接する事が出来なくて――
ちらちらと重なるあの人の影に苛立ち、この子に当たる様になってしまった。勝手な話ですが当たるのも辛かった。
冷たい態度を取った後のあの子の泣き声も辛かった。でも自分を止める事が出来なかった。遥が私の所業に傷ついて萎縮して行く様も辛かった。でも止められなかった。
そんな時、遥に夜の放浪癖が出てきてしまった。
あの人は何度か遥の様子を見に来ては薬を飲ませてくれた。
沢山持ってきて下さったの。
自分が来た時に飲ませるから此処に置いておいてくれ、と云って。
筋肉の異常緊張かも知れない、とも云ってたわ。
そして安易に触ってはいけないとも云ってた。
でもいつからかあの人は此処に来なくなってしまった。
遥の放浪癖も治らない。看病と嫉妬からの苛立ちも相まって――
あの薬は都合良かったの。
飲ませると暫くはあの子の記憶を止められるんだから。
少なくとも私の悪行であの子の心が傷つくのを止められるのだから。
でも半面、加減が分からなくなってしまった。
私は思うがままか加虐を加える様になった。
そして遥の様子がおかしくなって――
愚かな私を見て哂っていると思うと攻撃を止めるのも癪に思う様になった。
それでもひょっとしてそれは私の被害妄想かと思うとそうするのも辛かった。痛めつける、私の胸も痛む、泣く、彼女は哂うの繰り返し。
泥沼の様に沈んでいく日々の中、伸江はお金を無心しに来る様になり、今度は容子さんの様子がおかしくなってきたんです。
隠れて何処かへ電話を掛けていたり、黙って居なくなったり、それまではとても従順に勤めてくれてたんですが――
彼女は私が女優を引退する時に連れてきた子で、
とても良い子だったんです。よく尽くしてくれていました。
問い詰めると氷川の元に戻る、と。
無理矢理あの世界から引き離された事を恨みに思ってた様で――
私はあの会社の実態を話しました。彼女にはそんな酷い目に在って欲しくなかった。
だから連れてきたのに、
そう云っても彼女は「私はそんな目に遭わない、そんな間抜けでは無い、
私ならもっと巧くやれた」と。それまでも何度か妙な喧嘩はしましたが
それは親子喧嘩の様なものだと私は思っておりました。
でもこれは違う――
只の逆恨みでしょう?嫌なら頑として断って
自分だけ都に残れば良かったのに!
「都に返り咲くにはお金が居る、私の所為でスタアになり損ねた。稼げる筈の金を逃した。その分の金を払え」と言い出しました。
私は驚いて――
私も遥の父親であるあの人からお金を受け取って生活している身なので大金など持ち合わせておりません。それでも少しは何とかならないか、と家財道具を売ろうとしたのです。でも――その見積もりを出して貰おうと道具屋に行った帰りに見てしまったのです。
あの子が遥を罵り頬を打つのを。
私は自分の姿と彼女のその姿が重なりました。
もしやずっと彼女は遥にそんな事をしていたのか――と。
遥は私からも容子さんからもそんな扱いを――
そう思うと体中の血が逆流する様な気がしました。
目の前の視界が歪む程、私は激しい怒りに身を焦がしました。
母親である自分の所業でさえ許せないのに如何して赤の他人がした同じ所業を許せましょうか。
問い質しても知らぬ存ぜぬで事は進まぬ、
おまけに彼女は変な男まで連れてきて、その男は遥に言い寄っていた。
明らかにおかしかった。幸い遥はその男の事を避けた。
そうしたら今度は私に交渉をし始めた。男に会わせて欲しかったら娘と結婚させろと。
信用の無くなった女の連れて来る男など誰が信用出来ましょう。
私は断りました。彼は私の過去を、汚れた行為をあの人にばらすと脅してきた。
足元に絡みつき、私を引きずり下ろす所作。
息が苦しくてしょうがない。如何してこう、私は自由になれないのだろう。
嗚呼、自由になりたい。息が吸いたい。邪魔な奴等――
――死ねば良いのに。
【続く】
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