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しみじみとした口調は、親として子どもの幸せを純粋に思っている口ぶりだった。
温かみのある声なのに、おじさんの言葉が胸に突き刺さる。
おじさんがお店のために若菜と原田の結婚を応援しているのもあるだろうと思っていたけど、当たり前に純粋に娘の幸せを思って、原田とまとまればいいと思っていたんだ……。
おじさんの思う若菜の結婚相手は、もう原田なんだろうか。
考えると顔が歪んだ時、廊下から「あっ」と声がする。
聞き覚えのある声に、反射的に振り返れば、開けっ放しになっているスライドドアの向こうにいたのは、紙袋を下げた原田だった。
「清水!」
原田は俺を見るなり人のいい笑みを浮かべ、こちらに近づいてくる。
「こんにちは。まさか清水と見舞いがかぶるなんて思わなかったです」
言って原田は持っていた紙袋をおじさんに差し出した。
「これ、豆大福とパイです。よかったら」
「あぁ、いつもありがとうね」
受け取ったおじさんはテレビボードの横に置く。
「清水は今日休み?」
「いや、これから出勤。原田は?」
「俺もこれからだよ。でも引き継いだ仕事のことで、確認しときたいことがあったから」
「あぁ……。そっか」
原田がすっかり顔なじみのような雰囲気で、おじさんの近くにいる。
すこし前まで知り合いですらなかったのに、こんなふうに病室を訪れていることも、俺のわからない話を共有していることも、疎外感を味わうには充分だった。
「それなら俺もう行くわ。邪魔しちゃ悪いし」
立ち上がり、今座っていた椅子に原田が座るように手で示せば、原田は慌てて言う。
「え、いいよ!清水座ってなよ」
「そうだよ湊くん。椅子ならもうひとつ借りればいいんだし」
おじさんもそう言ってくれたが、原田と三人でここにいるのは気まずいし、なにより何の話をすればいいかわからなかった。
「いえ、そろそろ出ないといけなかったですし。おじさん、近々もう一度来られたら来ます」
「あぁ、忙しいだろうし、無理しなくていいからね。湊くんとしばらく会えなくなるのも寂しいな。異動先でも頑張ってな」
「はい」
なんとか笑う俺を、原田は察したような顔で見る。
原田にも異動の話をしているから、話はわかったんだろう。
病室を出て、もやもやした気持ちのままエレベーターに乗った。
おじさんの中での俺の立ち位置も、いずれ原田に取って変わられるんだろうか。
それも寂しく思いながら一階から外に出ると、すぐそこに見知った背中が見え、驚いて思わず声をかける。
「若菜!」
俺の声に若菜は驚いて振り返った。
「わっ、湊!お父さんのお見舞い来てくれてたの?」
若菜も俺がいると思わなかったらしく、俺と同じように驚いて目を丸くしている。
「そう、若菜は?おじさんの見舞い行かねーの?」
「あ、お母さんに頼まれてた病院の書類、ここまで来てから忘れちゃってたことに気づいて。急いで取りに帰るところ」
「マジかよ」
若菜はそういうそそっかしいところがある。
「それなら送ってやるよ。俺車だから」
「え、いいの?湊、仕事は?」
「これからだけど、まだ時間あるし、お前家に送ってからでも間に合うから」
早めに病室を出たから、若菜を送って出勤するくらいの時間はある。
「あ、そうなんだ……。じゃあお願いする。ありがとう」
お礼を言う若菜と駐車場まで歩き、助手席に乗せて車を走らせた。
「湊は何時からお父さんのところ行ってくれてたの?」
「んー、30分くらい前。原田が来て、仕事の話するって言うから抜けてきた」
「えっ、原田くんも来てくれてるの!?」
びっくりして大きな声を出した若菜は、しばらくして「そうだったんだ……」と、なにか考えているような小さな声で言った。
「あいつ、本当におじさんの仕事手伝ってたんだな。なんか……不思議な感じだった」
原田への嫉妬がばれてしまいそうで、なるべく感情がこもらないよう話したけど、うまく話せているかわからない。
若菜はしばらく黙った後、「そうだね」と呟くように答えた。
「私も不思議な感じがするよ。実感があんまりないけど」
「だよな。でもさっきおじさんが先のこと考えてるって言ってたよ。仕事のことか、家のこととか、きっとそういうのだと思う」
「そっか……」
前を向いているからそちらは見れないけど、若菜がうつむいたのは気配でわかる。
若菜だって、おじさんが倒れて普段とは違う生活になった。
おじさんの言う「転換期」なのは、おじさんも俺も、若菜だってそうだろう。
おじさんとの話や、原田のことを思い返していると、横から小さな声がする。
「……ね、湊はどうなの?先のこと、考えてる?」
ふいに若菜が言った言葉に、意識を引き戻された。
「え?」
「湊が30歳になったら……。30歳になってもまだ結婚してなかったら、どうするの?」
なんでもない声だけど、切実さも混じっているように感じるのは、気のせいじゃない。
(どうするって)
それは10年前にした約束はどうする、ということだろうか。
それならまだ若菜の中で、あの約束は生きてるってこと?
車の中に流れている空気が変わる。
若菜から感じる雰囲気は、なにかを堪えているような苦しさもあって、俺に考えてほしいと思っているようにも感じた。
「それは」
鼓動が速くなる。
口を開いたけど、言葉が続かない。
俺は異動になるし、これから若菜や若菜の家の傍にいるのは、俺じゃなくて原田になるだろうから。
開きかけた唇を結び、知らず知らずのうちにそれを噛みしめていた。
聞かれて心の奥に押し込めていた想いが―――自分の気持ちが湧きあがってこようとする。
おじさんのことも、原田のこともなければ、俺は30歳まで結婚するつもりはないと……あの約束を守りたいと言おうとしていた。
今もし若菜が俺と同じ気持ちなら……俺が30歳になってもひとりだったら、俺と結婚しようと思ってくれているなら、今ここでそれを伝えられるか?
……いや、家まであと少しのこんな時間じゃ話せない。
俺もこの後仕事があるし、若菜もスーツだから同じだろう。
こんな中途半端な感じで、手短に話せることじゃないし、そもそも俺じゃ若菜を支える相手として役不足だという結論は変わらない。
状況が変わったわけじゃないのに、気持ちだけ先走って思っていることを伝えるなんて―――。
頭の中で葛藤しているうち、やがて家の近くの交差点にさしかかった。
信号が赤になり、車が止まる。
俺に質問してからずっと言葉を発しなかった若菜だが、ふっと、弱い息を吐くのが聞こえた。
「いいよ、やっぱりなんでもない」
笑みを含んだ弱々しい声に、自分の内側にやっていた意識を無理矢理引き戻した。
それと同時に車が俺たちの家のすぐそばまで来ていると気付いて、若菜の家の前で車を止める。
静止した車内で一瞬の静寂が訪れ、息をするのも気を遣いそうになった時、若菜が言った。
「じゃあ……ありがとう。湊も仕事頑張ってね」
となりを見れば、若菜は弱い笑みを浮かべて俺を見ていた。
さっきの問いはなかったことにしたような―――いや、その話には触れないようにしているように思えて、そんな顔をさせたのは俺だと思うと胸が痛くなる。
若菜は昔した約束を気にしている。
でも俺が答えなかったことで、約束はもうなかったことになったとか、自分は対象外なんだ、と思っているように感じた。
そうじゃない。
ずっとあの約束が頭にあったから、気にしているのは俺だ。
反射的に口を開きかけた時、若菜がドアをあけ、外へ出た。
車内の空気が変わる。若菜がいなくなって、残された俺の目には、フロントガラスを隔てた向こうに若菜が見えた。
若菜が俺を肩越しに振り返って手を振る。
「若菜」
声が零れたけど、若菜には聞こえない。
若菜は前を向いて玄関ドアをあけ、中に吸い込まれて見えなくなった。