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#シリアス
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紫香楽
【煌Side】
その日の夜は、天が地上を呪っているかのような凄まじい豪雨だった。
鳳凰館の屋根を叩く雨音は、軍靴の音さえかき消すほどに激しく、私の耳元で鳴り響いている。
私は軍帽を深く被り、裏口の軒下に立っていた。
降り頻る雨が軍服の肩を濡らし、冷気が肌を刺す。
だが、今の私にはこの刺すような寒さこそが
己の浅はかな独占欲を冷ますための、唯一の薬だった。
立ち去ろうとした、その時だった。
重い木の扉が内側から開き、微かな光が雨幕を割り込んだ。
「……煌、様」
その掠れた声に、心臓が大きく脈打つのを感じた。
振り返れば、そこには薄暗い灯りの中に佇む雪の姿があった。
(……雪っ、どうしてここに…)
その衝動を、私は鉄の理性で捻り潰し、あえて突き放すような冷たい眼差しを向けた。
「こんな夜更けに何をしている。早く中へ戻れ」
自分の声とは思えないほど、低く、事務的な響きだった。
だが、私の予想に反して、雪は扉を閉めようとはしなかった。
それどころか、弾かれたように駆け寄ると、私の軍服の袖に必死に縋り付いてきたのだ。
「……煌様。お願いです、行かないでください」
彼女の指先が、微かに震えているのが伝わってくる。
「私が……何か、お気に障ることをしてしまったのでしょうか。もし、私の粗相で煌様を怒らせてしまったのなら、何度でも謝ります。…でも、理由も分からずに避けられるのは……っ」
守ろうとした結果が、これだ。
私の「距離を置く」という独りよがりな誠実さが、彼女の心を粉々に砕いている。
「もし、私のことが……もう、嫌いになってしまわれたのなら。……おこがましい私を、疎ましいと思われたのなら。……はっきりと、そうおっしゃってください。そうすれば、私は……」
彼女の言葉が途切れる。
その先を聞くのが恐ろしかった。
嫌いになど、なれるはずがない。
むしろ、彼女を貶める世界からすべてを奪ってでも
自分の手元に閉じ込めておきたいという狂おしいほどの情愛が、腹の底で渦巻いている。
だが、軍人である私が側にいれば、彼女は再び「泥棒猫」と呼ばれ
過去の亡霊に怯え、仲間外れにされる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
私は長く、重い沈黙を貫いた。
そして、彼女の小さな手をゆっくりと、けれど情を切り捨てるように振り払った。
「……君が嫌いなわけじゃない。これは、お互いのためなんだ」
「お互いのため……?」
「……だから雪、戻れ。風邪を引くぞ」
これ以上ここにいれば、嘘を吐き通す自信がなくなる。
私はそれだけを言い捨てると、一度も振り返ることなく、暗い雨の底へと踏み出した。
背後で、彼女が私の名を呼ぶ悲痛な叫びが聞こえた気がした。
だが、その声さえも豪雨が冷酷に飲み込んでいく。
闇に溶けていく私の背中を、彼女はどんな目で見つめているだろうか。
私は、土砂降りの雨に打たれながら、己の不甲斐なさに奥歯を噛み締めた。
闇の向こうへ消える私の軍靴の音は、かつての温かな日々を
自らの手で完膚なきまでに踏みにじり、消し去っていく音だった。
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